チャーチスクールを擁護できない理由

2014年1月14日火曜日

教育

t f B! P L
「チャーチスクール」というものを初めて見たとき、これはすごい活動だと正直思った。
 毎日礼拝があり、祈りや聖書を学ぶ時間があり、「神様がいる」のが当たり前の環境で、勉強に取り組める。クリスチャン子弟には最高の場所ではないかと思った。

 理念も良く思えた。「神の弟子」となり、「世界に出て行く」「優秀な」人材を育てること。同じような時期にいろいろなチャーチスクールが生まれたけれど、理念はどこも同じような感じだったと記憶している。それはまさにクリスチャン子弟が目指すべき理想像であろう。
 少人数制で、生徒一人一人のニーズに応えられるのも利点の一つだった。そしてその成果はあったと思う。普通の(公立の)学校にどうしても馴染めない子にとってチャーチスクールは救いの場となった。回復し、アイデンティティと希望を取り戻す助けとなった。

 しかし長い年月が過ぎた今、そういう成果ばかりでない結果も現れている。
 チャーチスクールの環境は、青少年が一般的に経験する事柄から、ある程度隔離されている。その程度は皆一律でないし、それが何ら問題にならないケースもあることを断っておくけれど、まず競争が少ない。あっても「全員勝利」的な競争モドキしかない。次に挫折が少ない。手ひどく挫折して苦しみ、それでも自分一人で立ち上がる以外にない、誰も助けてくれない、という状況は本当に少ない。そして厳しさが少ない。宿題をやらず、欠席がちで、どんなに赤点を取っても、最終的に泣きつけば許されるし、ほとんど留年になどならない。

 その他にも、なまじ聖書を学んでいるせいか、聖書知識は十分にある、信仰は十分に成長している、「この世」で十分に戦っていける、と思い込みやすい。しかしそれは幻想であることが多い。そもそもクリスチャンに囲われ続けて十年以上も過ごしてきたら、自分が「この世」と呼んでいる場所がどんなところなのか、どうしてわかるだろうか。

 根性論を振り回す気はないけれど、事実、自分で苦労しないとわからないことは沢山ある。苦労しすぎて心が完全に折れてしまうのは悲しいことだけれど、そういう苦労が全くないまま、温室みたいな環境で育つことの方が結果的に悲劇ではないかと私は思う。

 また今にして思うと、その理念にも問題はある。ある牧師は「チャーチスクールの子らは、神の霊によって、この世の教育を受けてきた子たちよりも優秀になる」みたいなことを自信満々に言うけれど、それは結局、「この世」の競争原理から離れられていない。「この世」の価値観から脱却すると言いながら、つまるところ同じ土俵で戦おうとしている。

 それに、仮に戦ったとしたら、勝つ見込みがどれだけあるだろうか。チャーチスクールは毎日聖書を学ぶ分、一般の学習に割く時間はどうしても少なくなる。体育の授業も少ない。教師もプロでない。それで一般の学校の生徒たちと対等以上に戦えと言うのは酷というものだ。「だから祈れ」と言うのも無責任でしかない。「その分人格的には優れている」と言うかもしれないけれど、先に書いたように、それもかなり怪しい。

 こう書くとチャーチスクールを否定しているように思えるだろうけれど、最初に書いたように、一定の成果はあると私は思っている。それに、だから公立学校の教育が一番良いのだとも言えない。それは多くの方が経験済みであろう。
 しかし、結局「この世」と張り合おうとしている時点で、チャーチスクールが「この世」に対して何ら「違い」を提示できないのも事実だと私は思っている。

追記)
 チャーチスクール擁護論者は、これに対していろいろ意見があるかもしれない。その意見は是非、親の意向に従ってチャーチスクールで長年過ごした子が一般社会に出てしばらくした時に、励ましの言葉として言ってあげたらいいと思う。

QooQ