聖書を軽く無視する「断食アピール」

2014年1月26日日曜日

キリスト教信仰

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「断食」していることをアピールするクリスチャンがいる。「御心を知りたいから」とか、「ダディ(神様のこと)に示されたから」とか、理由はいろいろある。結果、「1週間の断食で、御心がビンビン入ってくるようになりました。おすすめです」とか言う。

 それはそれで結構なことだ。「ビンビン入ってきた御心」が何か良い結果につながるなら文句はない。ぜひ「霊的」な事柄でなく、現実世界の良い変化をお聞きしたいものだ。

 けれどそういう「断食アピール」に対する、基本的な疑問がある。マタイ6章16~18節(新改訳)は、要約するとこう言っている。「断食している時はやつれた様子を見せないで、人に見られないようにしなさい。隠れたところで見ておられる、神様に見られるためです」
 つまり断食は内緒でこっそり行うものだと言っているのだが、これは「断食アピール」と相反している。はたして彼らはどう反論するのだろうか。私が思うに、これは聖書が間違っているのか、彼らが間違っているのか、どちらかしかないのだけれど。

 彼らは神様の御心を求め、その御心に従っているつもりで、聖書もよく学んでいるつもりだろう。けれどその実、聖書が示す極めてシンプルな命令が、まったく目に入っていない。それは悲劇なことだけれど、新約聖書の時代にもそういう輩が沢山いた。彼らは律法学者とかパリサイ人とか、偽善者とか犬とか呼ばれていた。だから現代にいても不思議ではない。

「断食アピール」クリスチャンたちは、律法学者やパリサイ人たちのことを批判的に言う。御心がわかっていない、偽善者たちだと責める。あるいは憐れむ。しかしそういう自分たちがどういう存在であるのか、吟味するつもりはないようだ。

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