アイルランド出身の有名バンド”U2”の楽曲に"Last night on earth"というのがある。曲そのものは聴いたことがないけれど、非常に印象的な歌詞がある。
"The less you know, the more you believe."
(知らなければ知らないほど、ものを信じられる)
・無知を知る
その歌詞の意味は「無知な人ほどものを信じやすい」という意味だろうけれど、私はかなり同意できる。クリスチャンとして見当違いな「信仰モドキ」にドップリ浸かっていた頃、私は「教会のカルト化」なんて全然知らなかったし、自分の行いが正しいかどうかなんて考えもしなかった。つまり、自分がものを知らないということを知らなかった。だから今思うと荒唐無稽なあれこれを、本気で信じられたのだと思う。
じゃあ今は知っているのかというと、やはり知らねばならないことは沢山ある、ということだけは知っているのではないかと思う。
この「無知を知る」ことを阻む理由は、大きく2つあると思う。
①情報統制・思想教育
これは社会主義国家が国民をコントロールする手法である。外部の情報を遮断し、自分たちに都合のいい情報だけを与え、徹底的にある思想だけに染める。あるいは外部の情報を遮断できない場合は、それらが全部巧妙なウソであり、信じてはいけないと教え込む。そうやってコントロールされた人間は、自ら外部からの情報を拒絶するようになる。結果、自分の無知を知ることができなくなる。
②思考停止
これは①の結果であるかもしれない。自ら考えたり判断したりすることを厭い、他人任せにする。いろいろな情報、いろいろな視点があることをよく吟味せず、あるいは無視し、明確な理由もなく、ある一方だけを信じる。自分の無知を知る機会はあるかもしれないが、そうはしない。知らないが故、信じられる。
・もう一つの問題、無知を否定する
しかし教会員時代、私は自分が無知であると思っていなかった。むしろその逆で、聖書やいろいろな文献をよく調べていたから、人並み以上にものを知っている方だと思っていた。教会ではよく「目覚めよ」とか言われていたから、「これだけ『真理』を知っている自分は目覚めている、外部の人間は目覚めていない」と本気で思っていた。
けれどそれは知識量、有する情報量の話であって、「無知を知る」とは種類の違う知識である。「無知を知る」とは、知識について論じるよりも以前の話であろう。そしてそれは「謙遜」とか「へりくだり」とか、そういう人格的な領域の話であろう。
そういう人格的な「欠け」があるとしたら、たとえどんなに知識があっても『真理』を知っていても、何の意味もないと私は思う。
・結論
聖書知識と「無知を知る」ことは関係がない。そして「無知を知る」人格でないなら、どんな知識も意味がない。
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