「神の牧師」が信徒を不公平に扱うことがある。もちろん人間同士のことだから相性の問題はある。けれど露骨にエコヒイキするのは、牧師である前に大人としての品位が疑われるところだ。しかし一部の牧師は、そのエコヒイキをうまく扱って正当化してしまう。その仕組みをまとめてみたい。
■牧師がエコヒイキするタイプの信徒
ある牧師らはこのタイプの信徒群を、「御霊にあって組み合わされた人たち」とか表現して、積極的に密接な関係を持とうとする。「神が結び合わせた人たちだから、私は彼らを無下にはできない」「彼らは主にあるパートナーだ」などと言う。
・金持ち(経済的支援を期待できるから)
・権力者(何らかの優遇措置を期待できるから)
・有識者(有益な情報を得られるから)
・優秀な人材(自分のミニストリーに利用できるから)
・従順な人材(いつでもどこでもうまく利用できるから)
・見目麗しい異性(そばに置いておくと気分がいいから)
・注目を集めやすい障害者(彼らを助けることで好印象を得られるから)
・注目を集めやすい病人(彼らを甲斐甲斐しく世話することで好印象を得られるから)
・注目を集めやすい社会的弱者(彼らに救いの手を差し伸べることで、牧師自身が注目されるから)
・その他、関わることで何らかのメリットを牧師にもたらす人物
■牧師が冷遇するタイプの信徒
ある牧師らはこのタイプの信徒群を「不従順な人々」「荒野のイスラエルのように頑なで扱いづらい人々」「悪霊の影響下にある者ども」などと表現し、積極的に距離を置き、あるいは関係を断とうとする。
・牧師に意見する信徒(正論であれば尚更)
・牧師に反対する信徒
・無能な信徒、やる気のない信徒
・見目麗しくない信徒
・助けてもメリットのない貧乏人、病人、障害者、社会的弱者
・・その他、牧師から見て「かわいくない」信徒(いろいろな意味で)
■結果で見分ける
もちろん、不公平を公言する牧師はいない。口では「全ての人を公平に扱います。主がそうであるように」などと言う。ではどうやって牧師の不公平さを見抜くかというと、結果的な状況で見るしかない。牧師が何だかんだ御託を並べても、結果的に信徒の扱いが上記のように分かれているとしたら、それはエコヒイキ牧師なのである。動機は結果に現れる。木はその実で判断できる。嫌いな人、苦手な人、扱いづらい人をどう扱うかは、その人間性が最も強く現れるところである。
こういう牧師がいましたね。かつて所属させていただいた教会で。
返信削除全ての項目ではないですが、おおよそ当たっています。
しかも、礼拝説教で講壇から反撃されるのです!それとなくではなく、「こういう人がいる」と。
とりまきを置いたり、反対意見を語ったりするとすぐ、牧師の耳に入り反撃を食らう!
子供ですね。本当に幼稚です。
そのような教会に所属する必要はありません。そこにイエス様はいないと思います。
反論されたり、誹謗中傷が有ったりするのが教会である場合が有ります。聖書を読めばパウロだって何度泣いたかしれないと思わされます。そういうふうに泣く覚悟の無い人は牧師になってはいけません。
返信削除おお!すごい、その通り!と思わず膝をポンと叩きたくなりました。
返信削除牧師やリーダーに正論をもって意見してはいけないと知らなかった私、
素朴な疑問を投げかけたところ、それはそれは大惨事になってしまいました。
教会って、意見や疑問を素直に口にしちゃいけない場所だったのね・・・
と衝撃を受けましたが、他の教会員にその話をすると
「え?それはそんな教会がおかしいよ。うちはみんなで話し合いもするし、牧師にだっておかしいことはおかしいって言うよ」
とのこと。
教会もいろいろですね。
やはり結果として出ます。日曜礼拝の出席人数が徐々に少なくなるとか、今まで熱心な教会員(クリスチャン)が来なくなるなど。
返信削除もともと牧師がダメで覚めているのではなく、さまざまな人が教会に来てメンバーになり、ごく一部のメンバーが牧師をダメにする。特にあのような性格になるのはアメリカ文化、議論ばかりすることで、「あー言えば、こうではい。こう言えば、あーでもない」と脊髄反射的に反論する。
だから、牧師に対する悪口を何度も聞きました。個人的には一日でも早く協会が閉鎖して欲しいと願うばかり。日曜礼拝のメッセージが詰め込みすぎて、頭に何も思い浮かばないから重要なことではないし、自分が管理する教会がうまくいっていないのに自己弁明としか聞けないメッセージ。「またかよ」と思って自然と礼拝が終わったあとに忘れる。
で、「適当にたまにしか教会に来ないクリスチャン」なんかは、昔、アメリカ人宣教師もいい加減過ぎた人で、たまに来る人だけはエコヒイキするけど、熱心に教会に通う人が何か言えば、正論ほどすぐに反論するし、自分のみが正しいという言い方で人を見下している。
徐々に献金額と礼拝出席率が減り、でも、たまにくる外国人の訪問者には最高のおもてなし。で、熱心なクリスチャンはどんどん減る。いつかは大バビロンと呼ばれてもおかしくない教会も閉鎖は確定だから、それまで我慢するしかないと考えています。