キリスト教プロテスタントに特有かどうか知らないけれど、「証」(アカシ)という行為がある。
簡単に言うと、「神様から頂いた恵みを人に伝える」ことだと思う。具体的には、人前で話したり、文章にしたりする。クリスチャンには馴染みの行為であろう。
私は人の「証」を聞いたり読んだりするのが結構好きだ。いろいろな葛藤や障害に対して人々が何を考え、どう向き合い、どんな信仰を持つのか、大変参考になるからだ。そして自分も同じような問題に直面している時などは、本当に励まされもする。
この「証」のポイントは、神様がして下さった恵みを人に話すことで、①神様に感謝し、②神様に栄光をお返しすることにあると思う。だからどんな紆余曲折な話であっても長い話であっても、最終的には神様に到達するのが肝要であろう。
しかし、これが案外難しい。神様に感謝し、栄光をお返ししているようでも、どうもそう聞こえないことがあるからだ。
例えば、どこそこに留学してどれだけ大きく用いられた(目立った)かとか、都心の一等地に就職できたとか、住宅をうまく売却できて新しい住宅を買えたとか、そういう話の最後に「神様感謝します、栄光をお返しします、ハレルヤ!」と付け加えられても、どうも励まされない。むしろ「だから?」と言いたくなる。単にひがんでいるだけかもしれないけれど。
もちろんどんな事象も、神様と全く関係ないとは言えない。けれど、それを「自慢話」と区別するのは一体何なのだろうか。
昨年あたりから、facebookの利用者が増加から減少に転じたという。主な理由は「飽きた」ことと、「人のリア充自慢を見るのに疲れた」ということらしい。私は妙に納得した。写真付きで「こんなに充実してます」と毎日のようにアピールされてウンザリする感覚と、上記のような「証」を聞いて「だから?」と思う感覚は、そういえば似ているような気がする。
結論。「証」をする時は、単なる自慢になっていないかどうか吟味すべし。
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