見える「能力」と見えない「人格」

2014年1月29日水曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
「能力」と「人格」の二つの側面で、牧師を評価してみる。
 すると「能力」はある程度、判断しやすいことがわかる。その牧師のやることを見れば、できるできない、上手下手がわかるからだ。しかし「人格」となるとそうもいかない。人格(品性とも言える)は短期的にはどうにでも取り繕い、隠すことができるからだ。

 ある牧師の品性を正しく判断するには、ある程度の期間が必要になる。そして教会外の姿も見なければならない。普段品行方正な牧師が、車の速度オーバーで止められただけで、警察にあらん限りの暴言を吐くことがある。普段きれいごとばかり囁く牧師が、不動産業者と交渉する際、ヤクザと見紛うほど脅しつけることがある。いつも笑顔の優しげな牧師が、いざという時何も言えず、信徒を見捨てることがある。

 自己正当化する牧師は、ストレス下にある時や緊急時の醜い反応は「あくまで本来の自分ではない」とか「あれは義憤だ」とか言う。しかしそれは違う。非常時にこそ、その人物の本性が現れる。そしてそれだけは取り繕うことができない。

「教会」という集団における牧師の存在を考えると、「能力」と「人格」、どちらが大事かというと私は人格だと思う。能力は他人がいくらでも補えるけれど、人格はそうはいかないからだ。そして牧師の人格を扱える信徒など、基本的に存在しないからだ。

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