実は「どれだけ目立ったか」にしか興味のないクリスチャンたち

2014年1月12日日曜日

キリスト教信仰

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 ある牧師は、「牧師には自己顕示欲の強い人が多い」と言う。
 全ての牧師がそれに同意する訳ではないだろうし、それに当てはまる訳でもないと思うけれど、私は基本的にそれは的を射ていると思う。牧師は人前で話すことが多い仕事だから、自己顕示欲の強い人は向いているだろうし、そうでない人もそういう傾向を持ちやすいのではないかと思う。
 そして、それはべつに悪いことではない。性格的傾向の一つでしかない。けれど、まったく問題ないかと言うと、そうでもない。

 一年を振り返ってみて、「今年は大きく用いられた年でした」という牧師がいる。内訳を聞いてみると、いろいろな教会に呼ばれたり、出版社の取材を受けたり、連載記事を持ったり、超教派集会の委員をしたりという、対外的な活動が多かったことを「大きく用いられた」と言っているらしい。しかしそれは単に目立ったかどうかの話であって、用いられ方の大小とは違う。最近ブロガーの間で「承認欲求」という言葉が流行っている(?)ようだけれど、そういう牧師たちも、単に承認欲求が満たされたことを「大きく用いられた」と言っているだけではないか。

 SNSやブログを使っているクリスチャンらが、「今日は〇〇集会でメッセージしちゃった(^^♪」などと書いているのを見ることがある。どういうつもりか知らないけれど、それを見て気分がいい人間が本人以外にいるだろうか。

「目立つこと」=「大きく用いられること」だとしたら、キリスト教は一般社会に対して何ら「違い」を提示できない宗教遊びでしかない。牧師らの間で、誰がどれだけ目立ったかの見えない争いが繰り広げられているだけだからだ。そんなものに誰が興味を持つだろうか。少なくとも私は持たない。そして日本人の99%も持っていない。

 牧師がどれだけ目立つ活動をしたとしても、その教会の中身が何ら変わらず、その地域も何ら変わらず、その国も何も変わらないとしたら(霊的に云々という話は要らない)、牧師であるならそのことを憂うべきではないか。どれだけ目立って用いられたかを、密に喜んでいる場合ではなくて。

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