「涙のファシズム」と化す教会

2014年1月7日火曜日

キリスト教信仰

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「一杯のかけそば」という話が一時期ブームになったのを覚えている。調べてみると1988年のことだった。貧しい母子と蕎麦屋の心温まる交流を描いた話で、多くの人が涙した。そのブーム自体は半年程で終わったようだけれど、作者は一躍時代の寵児となった。そして短期間にかなりのお金が集まったという(この作者はその後いろいろな疑惑が浮上して、行方をくらますこととなったけれど)。

 台湾にも同じような話があって、こちらは小説でなく実在の人物らしいけれど、感動した台湾の人々が、こぞってその人に寄付を送ったという。
 こういう、メディアを通して広まった「感動」が、その対象者を支援する動きにつながる、ということは割と多い。何年か前にも、「伊達直人」(タイガーマスクの本名)を語る匿名者から児童養護施設へ贈り物が届き、それが複数の「伊達直人」を生む「タイガーマスク現象」へ発展した。

「感動」は人を動かす。それは時代を越えた真理かもしれない。そしてそれ自体は良いことだと思う。昨年ヒットした映画「レ・ミゼラブル」も多くの感動をもたらしただろうし、主人公ジャン・バルジャンの献身的な生き方は、多くの人に良い影響をもたらしたのではないかと思う。
 時には、感動して涙を流すのも悪くないものだ。

 ところで、キリスト教会の牧師のメッセージ(説教)を聞いてみると、こういう「一杯のかけそば」的な感動話が随所に挿入されていることに気付く(もちろん全ての牧師がそうしている訳でなく、ごく一部だと思うけれど)。ひどいものになると、聖書の言葉というより、そういう感動話がメッセージの中心に据えられ、クライマックスに利用されている。聴衆を涙で震わせ、それを「聖霊様の働き」とか「神様の圧倒的な臨在」とかと言う。そしてその感動を利用し、自発的な「献身」や「奉仕」や「高額の献金」へと誘導する。彼らのような牧師にとって当てになるのは、「神の力」でなく「感動の力」である。

 そういう牧師は、時に自分自身を使って感動のネタにする。連日連夜信者の病室を見舞ったとか、何日断食したとか、これこれの必要のために私財を全部捧げたとか、そういう言わなくていいことをわざわざ公衆の面前で披露し、感動の涙を誘おうとする。そして「牧師先生がそこまでご自身を捧げているんだから、私も」という気にさせる。そういう「感動」を何でもかんでも神様に結びつけて、人をいいように動かそうとする。

 冒頭の「一杯のかけそば」のブームを終わらせたのは、タレントのタモリの一言だったという。「それは涙のファシズムだ」
 事態をうまく言い表していると思う。そしてそれは、「感動主義」の教会にも当てはまりそうな気がしてならない。

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