悪いのは独裁的牧師か、教えそのものか

2014年1月23日木曜日

キリスト教信仰

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 独裁的牧師の、聖書を巧みに利用した信徒虐待について私はずっと書いてきた。記事のほとんどは、実際に私が体験し、目にし、耳にしてきたことだ。キリスト教信仰、中でも真に純粋な聖書信仰、堕落しきった多くの世俗的教会が失った「金の信仰」を私たちは持っている、と巧みに信じ込まされてきた。しかし実は、牧師にいいように使われているだけの「信仰ゴッコ」でしかなかった。

 そういう詐欺的宗教活動は許し難いのは間違いない。けれど同時に思うのは、そういう牧師自身がどこまでそれを意識的にしていたか、ということだ。初めから信徒らを騙す気でいたのか、あるいはどこかで道を踏み外してしまったのか。実は私にはよくわからない。

 ある牧師の初めの姿で言えば、本当に純粋に神様を愛し、人々に仕えているように見えた。詐欺であそこまでできるとはとても思えない。スパイが何年、あるいは何十年もかけて敵国内部に深く潜入していくという話を聞くけれど、それくらいの覚悟があったのだろうか。
 確実なことは言えないけれど、どんな牧師も初めは純粋に真実に神様に仕えようとしていた、と私は思いたい。

 ではどこかで道を誤り、信仰を利用した自己実現に走り出したと仮定する。その場合、いったい何が問題だったのだろうか。何が牧師を正しい道から引きずり下ろしたのだろうか。私は「教え」に問題があるのではないかと思う。

 もちろん、基本的な福音理解に問題があったという意味ではない。イエス・キリストの十字架について違ったことを言うのであれば、その時点で異端であろう。問題はそれに付随する「新しい」聖書理解・聖書解釈にある。特に「ラターレイン」運動とか「第三の波」運動に見られるような体験主義、感動主義、拝金主義、権威主義の詰め合わせは、牧師への権力・金銭の一点集中をもたらす。牧師は何でもできる。誰も反対しない。誰であろうと何であろうと、好きな時に好きなように使える。その状況がもたらす誘惑は、人には大きすぎるのではないだろうか。

 独裁牧師を擁護するつもりはまったくない。何であれ自分の欲に溺れ、人々を虐待し続けたのは間違いない。けれど「教え」そのものに根本的な欠陥があり、人を大きな誘惑へと引き込むのだとしたら、そういう牧師も犠牲者の一人と言えるかもしれない。

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