2013年11月30日土曜日

他人に「目覚めよ」と言う前に、自分が起きているかどうかを確認した方がいい

目覚めよ」とその牧師はよく言った。
 しかし、何から目覚めなければならないかはイマイチ明確でなかった気がする。いわゆる「霊的な覆い」からの目覚めという意味だったかもしれない。あるいは「敵(悪魔)の策略」に気づいて逃れることだったかもしれない。とにかく何らかの盲目状態・睡眠状態から「覚醒」することを意味していたのは確かだろうけれど、(繰り返すが)何から覚醒しなければならないのか、私は当時も今もよくわからない。

 その曖昧さの大きな原因は、「霊的」という言葉にあると私は思う。何でも「霊的」と言えば信仰的に思われるし、何だかよくわからないことも「神様からの啓示だから」と言えば何となくスルーできる。言葉遊びみたいなものだ。

 と、いうような問題に気づかず、当時は「目覚めていなければいけない」と真剣に思っていた。そしてその為には、よく祈るとか、よく奉仕するとか、とにかく教会に関係した何かをしていなければならない気がしていた。

 しかし今になってよくよく考えてみると、「目覚めよ」というのはなかなかトリッキーな言葉だ。

 何かから「目覚める」という時、そこには、今まで知らなかった事実を知る、気づかなかった何かに気づく、という「発見」が伴っているはずだ。そしてその「発見」というのは、「目覚めよ」と言った人間が提示した何かによるものだ。
 例えば、長年病気を患っているAさんに、Bさんがこう教える。「その病の原因は『家系の呪い』によるものだよ。だから先祖が犯した罪を突き止めることが解決につながるよ」
 それがAさんにとって「発見」となり「目覚め」となるのは、Aさんがそれを事実だと信じたからに他ならない。信じたからこそ、「そうか、そうだったのか」ということで、必死になって先祖史をひっくり返し、熱心に神に祈るのだ。ちなみに、それが事実かどうかはまったく別問題である。

 だから「目覚めよ」には、「〇〇を信じよ」というニュアンスが含まれている。「私はこんな新しい事実を知っている。これは神の奥義だ。だから信じなさい」という意味を込めて、「目覚めよ」という言葉は発せられる。

 そしてそれを言うのが教会の牧師とかリーダーとかなら、信徒は基本的に信じることになる。少なくとも、初めから完全に疑ってかかることはない。それに「霊的」とかいう言葉が付け加えられるから、ますますよくわからなくなって、「そんなものか」と曖昧に処理してしまうことにもなる。

 そういう「目覚めよ」系の牧師は、信仰熱心でない信徒に「目覚めてない」とダメ出しする傾向がある。しかしそれは信仰的にダメだとか、敬虔でないとか、罪深いとか、「霊的に」覆われているとか、そんな意味ではない。単に牧師の言うことを鵜呑みにしない、(牧師にとって)ちょっと扱いづらい信徒だという意味だ。

 本当に目覚めなければならない人ほど、案外その必要性に気づいていないものだと思う。
 相手の目の中の塵についてどうこう言う前に、自分の目の中の梁に気づきなさい、と聖書が警告しているのももっともなことであろう。
 

「裁き」と「許し」の関係。「正しすぎる」ことについて思うこと。

 猪瀬知事の五千万の「借入」が問題となり、連日のように報道されている。私はさほど関心を持って見ている訳ではないけれど、この手の報道に「またか」という感想は持っている。

 ただ、この「またか」は著名人の不祥事に対するものというより、そういう不祥事に対する報道側(あるいは世論?)の、容赦ない徹底追及に対してである。記者会見の場で時折見られる、報道側の多勢に無勢の総攻撃というか、ほとんど暴言というか、そういう鬼の首でも取ったみたいな勢いは本当に恐いなあと思う。

 もちろん、本当に問題なのは不祥事であって、不正が隠されているなら明るみに出されるべきだろうし、正しく取り扱われるべきだと思う。今回の猪瀬知事の「借入」に関してもそうだ。けれど、そのやり方はどうなのだろうか。

「正論を武器にして他人を傷つける人たち

 少し前にこの記事が話題になったけれど、私は大いに共感した。
 正論はもちろん「正しい」のだし、それをぶつけられる人が「悪い」のだろうけれど、それがここぞとばかりに人を攻撃する理由として使われるとしたら、その正しさというのはどこかが間違っている気がする。

 伝道者の書7章16節にこんな言葉がある。
「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(新改訳)

 解釈はいろいろかもしれないけれど、「いつも正しいばかりが良い訳ではない」というような意味かなと私は思っている。「正論を武器にする」というニュアンスにも通じると思う。

 それに、「正しさ」というのは人や立場や状況によって変わることもある。極端な話、ある人の「正義」は他の誰かにとって「悪」ともなる。そういうことを考えると、自分側の「正しさ」を振り回しすぎるのも良くないかな、と思わせられる。

 それは「裁き」と「許し」のバランスにも関係があるのではないだろうか。不正は、ある「正義」のもとで裁かれなければならない。けれど然るべき方法で許される必要もある。もし正義を突き付けられ裁かれるだけで、許されることがないとしたら、刑務所は必要なくなるだろう。皆死刑だからだ。
 人が自分の非を認めたり、より良くなろうとしたり、更生したりするのは、裁かれてというより、許されてということの方が多い気がする。

 昨年映画化されて話題となった「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンの更生も、「許し」が大きなキッカケとなっている。有名すぎる話だけれど、最後に引用したい。

 バルジャンは貧困に耐え切れず一本のパンを盗んだ罪で、19年間服役させられていた。出所後も冷遇され続けたけれど、ある司教が、彼を屋敷に温かく迎え入れてくれた。しかしその夜、人間不信のバルジャンは、司教の銀の食器を持ち逃げしてしまう。翌朝、彼を捕えた憲兵が司教のもとを訪れる。「この男があなたの銀食器を盗んだようです」しかし司教は答える。「それは彼にあげたものです。それにこの2本の銀の燭台もあげたのに、兄弟、あなたは忘れて行きましたね」

2013年11月28日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第11話

夜空の下、キマジメくんは自転車を走らせる。風呂上りの熱気が、夜風にみるみる奪われていく。溝田牧師の電話の声が頭の中を木霊している。何故か急がねばならない気がして、キマジメくんは全力でペダルをこいだ。

あのように怒る牧師はしばらく見ていなかった。電話で「批判の霊」とか言っていたけれど、何のことだかよくわからない。わかるのは、シンジツ兄弟が何か問題を起こしたらしい、ということだけだった。しかしあのシンジツ兄弟が、どんな問題を起こすというのだろう。にわかに信じ難い。

教会に着くと、すでに会堂に誰かいるようだった。ドアの隙間から、明かりが漏れている。キマジメくんは恐る恐るドアを開ける。中には溝田牧師、リッチ兄弟、ノンビリ兄弟、他に数名の信徒がいた。皆緊張の面持ちだ。
「キマジメくん、座りたまえ」
挨拶もそこそこ、牧師が始める。「実は今、この教会は攻撃に晒されているんだ。私たちは団結して戦わなければならない」
「はあ」何のことだかわからないが返事だけする。
「電話でちょっと話したけどね、実はシンジツ兄弟のことだ。彼がこの教会を批判しているという情報が入っている。それで、関係者から話を聞いていたところだ」
それだけ言うと、溝田牧師はブツブツと呟きはじめた。何を言っているのかわからない。日本語ではなさそうだけれど、何かの言語という訳でもなさそうだ。そしてその呟きに合わせて、ノンビリ兄弟たちも同じように呟きはじめた。やはり、何を言っているのかわからない。
依然として訳がわからないけれど、ただならぬ雰囲気だけは確かに感じる。しばらくして、牧師が呟きを止めた。
「キマジメくん、これは霊の戦いなんだよ。私たちは見えない霊によって見えない敵の霊と戦うんだ。そして敵は批判の霊だ。教会を批判し、潰そうとしている。私たちは勇敢に戦って打ち破らなければならない」
「はい」
「それで、シンジツ兄弟が君に何と言ったのか聞く必要がある。敵の情報を集めるためだ。彼は何と言った?」
「えっと…」キマジメくんは頭が回らず、どう答えたものかわからない。「えっと、いろいろ話しましたから…」
牧師は舌打ちする。「キマジメくん、これは大事なことなんだよ! この教会の命運は君にかかっていると思いたまえ!」
「す、すみません」
「ふうむ…」牧師はまた呟き始めた。しかし今度はすぐに止まった。「おお、今、主が語られた。これは主からの戦略だ」牧師は体を震わせる。「キマジメくん、シンジツ兄弟は君に、…什一返金…について何か話さなかったかい? 今、主が私にそう示しておられる…。これは聖霊の賜物の一つ、知識の言葉によるものだ」
キマジメくんは数日前のセイギ家での会話を思い出した。「あ、はい。確かに話しましたが…」
「やっぱりそうだろう? それで、どんな話だった?」
「はい…」キマジメくんはありのまま話した。けれど、一体何が問題なのかさっぱりわからない。シンジツ兄弟は批判や不満を口にした訳でもなかったはずだ。ただキマジメくんを思って話してくれただけだった、と認識している。

「やはり、彼は批判の霊につかれている」
キマジメくんの話を聞いて、牧師はそう結論づけた。「どう思いますか? リッチ兄弟?」
「はい、間違いありませんね。私もそう示されましたから」リッチ兄弟は即答する。
「ではノンビリ兄弟は?」
ノンビリ兄弟はとっさに顔を上げた。まさか意見を求められるとは思っていなかったようだ。「僕は…、その、よくわかりませんが…」
「では批判の霊ではないと?」
「いえ、そういう訳では…」
「ふむ、まあいい」牧師は次に、他の信徒たちに振った。彼らは一様に同意した。
「これではっきりしました。非常に残念ですが、シンジツ兄弟は批判の霊に惑わされ、この教会を批判しています。私たちはこの教会と愛する家族を守るため、断固として彼と戦わなければなりません。彼が悔い改めるか、そうでないなら退けるまでです。これは主の戦いです。私たちに敗北はありません」
リッチ兄弟が「アーメン」と答える。ノンビリ兄弟はうつむいたまま。キマジメくんはどうしたらいいのかわからない。
「では明日の夜、私が彼と話してみましょう。皆さんには、祈りのサポートをお願いします。ヨシュアが戦い、モーセとアロンとフルが山で祈ってサポートしたのと同じです。皆さんの祈りが、この戦いの鍵なのです。よろしく頼みますよ」
そこにいた一同が、ハイと答えた。キマジメはやはり腑に落ちないものを感じていた。けれど、何も言えなかった。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です(だいたい毎週木曜日を予定しています。あくまでだいたい)。

人生の「勝ち負け」を越えて見える風景

 よく人生には「勝ち組」と「負け組」がいるとか言われる。けれど、何を基準にその勝敗がつけられるのかよくわからない。

 良い仕事につき、高い給料をもらい、良いところに住んで面白おかしい生活を送ることが「勝ち」で、そうでない生活が「負け」という二元論ならわかりやすい。けれど、そんな単純なものでもないだろう。

 たとえば「良い仕事」一つとっても、何が良くて何が悪いかは簡単に決められない。大企業で高い役職に就いたから「良い」とは限らない。魅力的に見えない仕事が「悪い」とも限らない。

 多くの人は、そういうことに気づいているだろうと思う。つまりお金とか地位とか名誉とかで幸せが決まるのではない、と。沢山の映画や物語も、そのようなメッセージを発し続けている。
 
 けれど、それでも「勝ち組」と思われる方が気分がいいし、できれば貧乏よりは贅沢がしたいし、というような「苦痛を避けたい」動機から、それを避けるのに最も便利そうなお金や地位や名誉を何とか得ようともがくのだと思う(それは私もまったく同じだ)。

 そういう意味で、「お金より大切なものがある」というありがちな台詞は、私には何だかウソっぽく聞こえる(同意したい気持ちもあるが)。

 そういうことを考えてみると、人生の勝ち負けというのは、なおさらわからなくなる。

 私は人生の多くを「教会」に捧げてきたと思っている。そこには多くの良いことがあったと思うけれど、同時に多くの過ちもあった。それでどうなったかと言うと、いわゆる上述の二元論的な「勝ち負け」で言えば、とても勝ちではなくなっているのが現在の私だ。

 けれどそれで人生が終わりかと言うと、そういう訳でもない。以前にも書いたことがあるけれど、どういうことになろうとも人生は続く。生きている限り。

 よく不祥事が発覚した政治家や著名人が「人生詰んだ」と表現されるけれど、(事実かもしれないが)非常に残酷な仕打ちだと私は思う。そんなことは当人たちが一番よくわかっている訳で、それでも生きていかなければならないのだし、地面に這いつくばってでも前に進まなければならないからだ。他人がそれを自業自得だと断じるのは一瞬だけれど、当人が直面するそれは残りの生涯全てとなるかもしれない。そういうことをちょっとでも想像するなら、「人生詰んだ」などと簡単に言うべきではないと思う。

 どうであれ人生が続くというのは、時として残酷かもしれない。自分の過ちや失敗を悔い続ける、痛みに満ちた歩みかもしれない。けれどそういう深い悔恨の中でこそ見える風景もあるのかな、と私は思う。そしてそれは、人生の「勝ち負け」とは全く異なる風景かもしれない。そうであればいいと思う。

2013年11月26日火曜日

メディアに刷り込まれているらしい「悪魔の声」と、キリスト教版メディア規制

 テレビやインターネット等のメディアに対する警戒心を、クリスチャンは割と強く持っているのではないかと思う。
 テレビは通常時間帯に暴力表現や性的表現の強いものを流すし、インターネットは更に容易にそういった情報にアクセスできてしまう。メディアとの付き合い方は、クリスチャンとして熱心(?)であればあるほど、頭を悩ますのではないかと思う。

 おそらくそういう背景があってのことだと想像するけれど、そういうメディアの視聴制限をかなり強く主張するクリスチャンの人たちがいる(主に海外の方々のようだ)。彼らは独自の研究をしているらしく、「メディアには巧妙に悪魔の声が刷り込まれている」と言う。

 彼らの主張をビデオで観たけれど、その「刷り込み」の手法というのは、どうやら「サブリミナル効果」のようだ。よく知られている映画やドラマ、コマーシャル映像等に、ほんの一瞬、あるいは非常に小さく、あるいは象徴的に、暴力表現や性的表現やその他の良からぬ表現が混ぜられているという。あるいは有名アーティストの楽曲を逆再生すると、「殺せ」などの「悪魔の声」にもなるという。

 要は、「知覚できない刺激は潜在意識に強く働き、その人の行動を左右する」という、90年代に流行ったサブリミナル効果理論であって、悪魔がそれを利用して人に罪を犯させようとしている、という主張だろうと思う。

「サブリミナル効果」と聞いて一般的に想起するのは、映画フィルムの合間に「コーラを飲め」というメッセージを挿入しておいたらコーラの売り上げが伸びた、とする1957年のジェームズ・ビカリー氏の実験だろう。それがキッカケでサブリミナル効果は世間の注目を浴び、禁止されるに至っている。だから何となく危険なもの、怖いものという認識があるのだと思う。

 けれど、その後のさまざまな実験結果によると、サブリミナル効果によって人の行動がコントロールされるとは実証されてはいない。そして前述のビカリー氏本人も、自分の実験結果について確証がないと発言している。だから少なくとも現時点では、サブリミナル効果は存在そのものが怪しい、そしてフィクションの題材として好まれる、いわゆる「偽科学」の域を脱していないのだと思う。

 そういう土台のあやうい理論をもっともらしく取り上げ、おどろおどろしい演出で、「メディアには悪魔の声が刷り込まれている」と熱く語る様子を見ると、何となく、昔テレビで見た「あなたの知らない世界」を私は思い出してしまう。

 あるいは百歩か千歩か一万歩か譲って、サブリミナル効果に人をコントロールする力があるとし、それを操る悪の組織があり、人々を罪に陥れようとしていると仮定してみよう。そうするとそもそも、悪の組織はそんな手の込んだ真似をする必要はないということになる。なぜなら人は放っておいても罪を犯すものだからだ。それに「悪魔の声」をメディアの隙間に隠す必要もない。それは巷に溢れているからだ。

 もう一つ、「そういうコントロール下にあるから罪を犯してしまうのだ」としたら、それは性善説であって、聖書が言っていることとは違うような気がする。

 サブリミナルがあろうがなかろうが人は罪を犯すものだし、クリスチャンはそれを避けようとして、結果的に、そういう刺激の強い種類のメディアを避けようとするのだろう。そういうことを知恵として、あるいは良識として子供や後輩に教えるのは良いと思う。けれど人を脅かすようにして「この作品はダメ」「あの歌手はダメ」「テレビはダメ」と強制するのは、いわゆるメディア規制ではないだろうか。そしてその考え方が目指すのは、情報統制ではないかと思う。
 

 そういうメディア規制や情報統制、思想弾圧をしている国々を、我々のような資本主義社会は批判的に見ているはずだ。しかしそれをクリスチャンが自らやろうとするのであれば、キリスト教は魅力のないものどころか、きわめて危険な宗教と思われるのではないだろうか。

2013年11月25日月曜日

次世代育成か、次世代虐待か

 次世代の育成は、あらゆる分野で必要だろうと思う。次代を担う者がいなければ、何であれ立ち行かなくなってしまうからだ。例えばある高校に3年間生徒が集まらなかったら、そのままなら閉校になってしまう。実際、日本のいろいろな種類の伝統工芸が、後継者育成に困っていると聞く。

 以前何かで聞いたことがあるのだけれど、日本のキリスト教界も、牧師不足が深刻だそうだ。無牧の教会は今後ますます増えていくらしい(どこの統計だか忘れてしまった)。

 だから日本の牧師が次世代育成を目標に掲げるのは、そういう時流から考えても理にかなっていると思う。けれど、どう育成するかで未来は大きく変わるだろう(しかしその前に、教会に若者が全然いなかったら育成のしようがない。そういう場合はまずそこから考えるべきかもしれない)。

 また、「(リーダーは)次世代をこう育成すればいい」というのは私にはよくわからない。その代わり、「(リーダーは)こうしてはいけない」というのは少しはわかると思う。だから反面教師として、何か書けたらと思う。

・リーダー個人の自己実現に利用しない

「独裁的教会運営の構造」でも書いているけれど、「神の御心だから従え」という論法で、単にリーダー自身が実現したい事業を信徒にさせようとすることがある。そういう事業に、「実践的訓練」と称して若者たちを動員するのは、実は訓練にならないと思う。何故なら目的が訓練でなく、事業の成功にあるからだ
 訓練であれば、失敗したり間違えたり、うまくいかなかったりという経験が、若者たちにとって良い学びとなるかもしれない。しかしあくまで事業を成功させようとするなら、基本的に失敗は許されない。下手すると、若者たちは厳しい叱責や懲罰に晒されることにもなる。
 
 若者たちが正式に雇用された従業員であるなら、まだ許されるかもしれない。けれど未成年の大学生や中高生に「子供扱いしない」と言って大人の事業に従事させ、かつ失敗を認めず、かつ無給で済まそうとするなら、それは労働法上問題にもなるだろう。

・リーダーは委ねたら口を出さない

「この仕事は君に任せたよ」と言っておいて、結局あれこれ口を出すリーダーというのがいる。そういうリーダーは、実際には自分が全てをコントロールしていないと気が済まない(あるいは心配でいられない)。そういうリーダーのもとでは、若者は自立した行動はできないし、大きな決断もできない。言われたことをするだけだからだ。だからその結果にも責任を持ちきれない(当然だ)。
 人は自分で決断したことをやって失敗するからこそ、自分の責任を痛感するのだと思う。

・リーダーは若者を囲い込むべきでない

 上記にも通じるが、「委ねきれない」という心理は「信頼できない」のと同じだと思う。だからそういうリーダーは、基本的に若者たちを(口では何と言っても)信頼していないように思える。そこには「自分が導かなければダメだ」「放っておいたらダメになる」というような心理も働いているだろう。だから、いつまでたっても若者たちをリリースできない。それは若者たちの自立の機会を奪うことでもある。まったく次世代育成にならない。
 くわえて、「自分が中心にいたい」という心理もあるかもしれない。私が知っている牧師はこう言っていた。「若者たちが自ら立ち上がり、主に仕え、彼らが日本を変えていくのを見たい。そして、その最前線に自分はいたい
 かなり矛盾しているような気がするのは私だけだろうか。
 リーダーの立場を譲るべきだと確信したなら、潔く譲るべきだろう。そしてそれができなければ、次世代育成などできないと私は思う。

 こういう間違った「育成」のもとにいる若者は、いつまでたっても自立できないどころか、いいように利用されているだけのような気がする。結局リーダーのやりたいことに付き合わされ、うまくできないと叱責され、反発すれば「主のための訓練だと思って耐えろ」と撥ね付けられる。それに耐えられず辞めるなら、教会追放が待っている。若者にとって、それはまさに逃げ場なしの八方ふさがりにしか見えないだろう。
 そうであるなら、それはもはや「次世代育成」でなく、「次世代虐待」でしかないのではないだろうか。

2013年11月23日土曜日

「この教会から日本のリバイバルが始まる」かどうかは時間が証明してくれる

「私たちの教会から日本のリバイバルが始まるんだ」
 というようなセリフは、私が知っているだけでも、複数の教会が言っている。単なる努力目標なのかもしれないけれど、それぞれの教会の真意はよくわからない。けれど、私がよく知っているある教会のそれは、まさに本気だった。本気の本気で「私たちがやらねば日本は救われない」みたいなことを信じていた。

 もちろん、ある個人のビジョンが、国レベルの変革を起こすということはある。多くの歴史上の人物がそうだし、今活躍している企業家の多くもそれぞれ立志伝を持っている。少し前にテレビで、かの有名な「チキンラーメン」を発明した安藤百福氏のドキュメンタリーを観たけれど、彼もまさにそういう「世界に影響を与えた個人」の一人だと思う。

 だから、ある小さな地域教会の牧師のビジョンが、やがて国をも動かす大変革につながるということはあるかもしれない。そういう意味で、「この教会が日本を救う」というのは、なくはないだろうと思う。

 ただ、一つ気をつけなければならないのは、例えば前述の安藤百福氏が初めから「日本を救うんだ」なんて大それたことは思っていなかった、ということだ。彼はあくまで「戦後の食糧難と栄養不足を何とか改善したい」と願っていただけだった。それは非常に具体的、かつ的が絞られた願望だった。そしてもう一つ彼を即席麺開発に駆り立てたのは、借金苦による生活苦だった。

 他の企業家たちにも、そういう傾向はみられる。ホンダを創業した本田宗一郎氏もしかり。もちろん単に金持ちになりたいだけの企業家もいるだろうけれど、それでも一事に励んで事業の発展を成し遂げたという事実は変わらない。おそらくそういう人物や団体に共通するのは、「一事に集中する」「具体的な目標を持つ」「具体的に行動する」というようなことだと思う。

 そういう視点でキリスト教会を見ると、どうだろうか。何か具体的で、的が絞られた方策があっての「日本を救う」発言なのだろうか。
 
 私のよく知っている教会で言うと、いろいろ試そうとしていたのは間違いない。けれど結果的に信徒を疲弊させるだけの、どれも尻すぼみで終わってしまう素人事業でしかなかった。あれもこれもやろうとして、結局、一事に励むという一番シンプルで効果的な努力ができなかった。

「この教会からリバイバルが始まるんだ」と言うのは自由だけれど、それを言い出す動機や背景はよくよく吟味されるべきだと私は思う。熱い賛美と祈りの中、気分が高揚して勢いに任せて言ってしまったのだとしたら、それは本物ではないような気がする。
 逆に具体的な方策があるなら、すでにその通り動いているだろうし、いちいち「この教会から~」なんて言う必要もないような気がする。

 もっとも、それが本物かどうかは時間が証明してくれると思う。真に日本に変革を与える教会であれば、やがてそれは実現するだろう。しかし本物でなければ、ある程度発展することはあっても、決して実現はしない。そこに曖昧さはない。
 だからそういう大言壮語を語るなら、どちらかと言うと努力目標みたいにして、謙遜に振る舞うべきだろうと私は思う。

追記)
 ちなみに、私の知っている教会のそれが本物でなかったのは、その教会が今すでに存在しないという事実が証明している。

神がいると信じることは、それほど損なことではない

 何らかの宗教を信仰することが理解できない、という人はいると思う。特に日本人に多いかもしれない。彼らは無神論者というのだろう。彼らからすると、神も仏も悪魔もインチキなのだろうと思う。

 その気持ち自体を否定するつもりはない。何を信じるも信じないも、個人の勝手だと思うからだ。そしてそういう自由が保障されている現在の日本は、本当に良い国だと思う。
 けれど、あくまで私個人の感覚として言えば、人間以上の何かの存在がこの世界の全ての秩序を造ったと考える方が、それが単なる偶然の産物だと考えるより、はるかに合理的で論理的だとは思う。例えば私は人体の構造やその細部の機能を学んできたけれど、細部に至るまで「実にうまくできている」としか言いようがない。これがたまたまできたものと考えるのは、ちょっと無理があるような気がする。

 そういう私感や可能性の問題は置いておくとして(完全には置けないだろうけれど)、神がいると信じることで、そこまで損することはないのではないかと私は思っている。
 もちろん、例えばキリスト教会に行けば献金することになるだろうし、仏教のことはよくわからないけれどお布施みたいなこともするのだろう。いろいろな宗教行為で時間が取られるというのもある。けれどそこまで何かの宗教にコミットしなくても、神や仏や何かを信じることはできる。そしてそのこと自体は、案外良い効果をもたらすこともあると思う。

 作り話かもしれないけれど、こんな話を聞いたことがある。(細かいところはうろ覚えだけれど)イギリス軍の小隊が、戦争中に敵国の捕虜となり、収容所に収監された。非常に劣悪な環境の中、次第に荒んでいく兵士たちの正気を保ったのは、架空の「お姫様」の存在だったという。きっかけは、一人の兵士がふざけて、目に見えないお姫様を自分たちの監獄に招待した、というふうに振る舞ったことだった。高貴なレディの前で失礼があってはならない、ということで見えない相手に対して紳士的に振る舞い、丁寧な言葉遣いで話しかけていた。周りの兵士たちも(面白がってかもしれないが)次第にそれに乗っかり、最後は全員でその「お姫様」に仕えるようになった。結果、監獄の中で軍隊としての規律が回復していったという。そういう彼らの様子を見た看守たちは、「身分の高い女を隠しているな」と本気で思ったらしい。

 この話はフィクションかもしれないけれど、全くあり得ない話でもないと思う。
 極限状態に置かれた人たちが、やむを得ない事情があるとはいえ、常軌を逸した行為に走るということがある。例えばマイケル・サンデルが「功利主義」の説明で引用した、1884年のミニョネット号の難破事故と、その生存者たちによるカニバリズム事件もその一つだろう。それに比べると上記のイギリス兵たちは、逆に極限状態でモラルを保ち続けた好例を示していると言えるだろう。

 それと同じような意味合いで(と言ったら真面目なクリスチャンの方に怒られるかもしれないけれど)、神がいると信じることで、何らかのモラルを維持し、より良い影響を他者に与えることができるとしたら、それは決して悪いことではないと思う。

 それに、人は基本的に、何かを信じなければ生きられないような気がする。上記の無神論者というのも、結局は「神はいない」と信じているのだろう。何故なら神が絶対にいないとは、誰にも証明できないはずだからだ。

 どうせ何かを信じるのなら、神はいると信じて、その神が示す規範に従って生きるのも選択肢の一つだと思う(もちろんその規範に従う価値があると思えなければ成立しないけれど)。そしてそれは、決して悪い結果を生むものでもないだろうと思う。むしろそれによって道を踏み外すことから守られ、助けられることもある。

 もちろん初めに書いたように、無神論でも構わないと思う。ある意味そういう人は強いのだろうと思う。何故なら神はいないとし、どんな時も自分自身の力や判断に頼り、道を開き、その全ての責任を一身に背負うというのは、決して簡単なことではないと思うからだ。

2013年11月21日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第10話

「えっと…」キマジメくんは言いよどむ。「一年分はちょっと、手持ちがないのですが…」
 溝田牧師はウンウン頷く。「そうだよねぇ。小さな額じゃないよねぇ。でもね、キマジメくん」
 牧師はやさしい笑顔で続ける。「主は、憐れみ深い方だよ。無理強いするお方じゃない。それに、ないものは払えないからね。たとえ主から盗んでしまったものをすぐ返せないとしても、主は長い目でみてくれると思うよ」
「はあ…」
「そこでだね、これは私の提案なのだが…」
 溝田牧師は若干真剣な面持ちで言う。彼の提案はこうだった。これから毎月、通常の什一返金をしていく。そしてそれに加えて、クリスチャンになってから返していなかった什一返金一年分を、毎月5000円程度で分割払いしていく、と。
 キマジメくんは聞きながらおおまかに計算してみた。それだとだいたい3、4年で完済できそうだった。
「ではそれで宜しくお願いします」ということで話は終わった。

 何とも言えずスッキリした心持ちだった。正式に教会のメンバーになれたうえ、神様への負債をちゃんと返すこともでき、これで自分の在り方は正しいのだと思うことができた。もちろんお金は必要だけれど、それ以上に必要なものがある、とキマジメくんは素直に思うことができた。

 そうしてキマジメくんの返済生活が始まって数か月後、教会に新しいメンバーが加わった。セイギ家といった。50代くらいの夫婦と、20歳くらいの娘が一人の三人家族。クリスチャン歴は長いようで、礼拝にも教会生活にもすぐ馴染んだ。溝田牧師も大歓迎の様子で、特にお父さんのシンジツ兄弟とよく話し込んでいた。シンジツ兄弟は早くも教会役員に就任した。

 何週間かして知ったことだけれど、セイギ家はキマジメくんのアパートのすぐ近所に住んでいた。ある日曜の朝、教会に行こうとしたらセイギ家族とバッタリ会ってそれを知った。それがキッカケで、シンジツ兄弟とはよく話すようになり、時々夕食に呼んでもらうようにもなった。シンジツ兄弟はいつも落ち着いた物腰で、穏やかに話す人だった。
「キマジメくんはクリスチャンになって一年くらいなんだね」
 夕食の後、セイギ家のゆったりしたソファでコーヒーを飲みながら、シンジツ兄弟が切り出した。
「はい、そうです。什一返金も最近始めたばかりです。これまでの返済も重なっているんでちょっと大変ですけど」
「返済?」シンジツ兄弟はコーヒーを飲む手を止めた。「返済って、何の?」
「ああ、捧げていなかった什一返金の返済です。けっこう額が大きいんで、分割にしてもらってるんですけどね」
「ああ、そんなんだ」シンジツ兄弟はコーヒーカップを唇の近くに持ったまま、どこかを見つめている。「キマジメくん、それは、溝田先生に言われたんだよね?」
「はい、そうです」
「実は什一返金するかしないかは、キリスト教界でも意見が分かれるところだって、知ってるかい?」シンジツ兄弟はキマジメくんをまっすぐ見つめている。
「はあ、そんなんですか?」
「うん。おそらく什一返金をするよう言われた時、マラキ書を読まされたろう? でも什一を明確に言ってるのはあそこだけなんだよね。それに新約には、十分の一なんて言葉も出てこないんだよ」
 キマジメくんは言葉を失った。そんなこと考えたこともなかった。もっともまだ聖書を通読したことがないから、正確に何が書かれているのかは知る由もない。
「ただ、だからと言って什一を否定する気はないよ」シンジツ兄弟は続ける。「もともと献金は個人の自由だし、それで教会を支えるのも良いことだと思うから。でも一つ気になるのは、クリスチャンになった時に遡って什一返金しなければならない、っていうところかな」
「はあ…」
「それを言うなら、生まれた時に遡らなければならないような気もするし…」シンジツ兄弟はそこまで言って、やっとコーヒーを口に含んだ。「まあ、ちょっとこの件は僕からも溝田先生に聞いてみるよ。僕も先生の考え方は知っておきたいし」
 什一の話はそこで終わった。シンジツ兄弟の奥さんがケーキを作ってくれていて、皆で食べた。娘さんも仕事から帰ってきて合流した。実家を遠く離れたキマジメくんには、久しぶりの家族団欒みたいな時間となった。

 それから数日後の夜、キマジメくんが部屋で大学の課題をしていると、電話が鳴った。溝田牧師だった。牧師は荒い口調でいきなり話し始めた。「あのねえキマジメくん、シンジツ兄弟が君に何を言ったのか、詳しく話してもらいだいんだがね、今から教会に来てくれないかな」
 ずいぶん突然だった。「今からですか?」時計を見ると、午後10時を回っている。
「当たり前だよ。これは非常に大事なことなんだ。時間なんて関係ないよ」牧師の口調がさらに強くなる。「電話じゃ詳しく言えないけど、シンジツ兄弟には教会批判の霊がありそうだ。ちょっと君からも話を聞いて、それを確かめなければならない。教会を守るためにも、できるだけ早く来てくれ。いいね」
 それだけ言うと電話は切れた。キマジメくんはしばらく受話器を見つめていたが、急いで準備を始めた。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です(だいたい毎週木曜日を予定しています。あくまでだいたい)。

2013年11月20日水曜日

単なる「努力」にすり替わる「神の恵み」

「神の恵み」というのがあって、クリスチャンには馴染みの深い言葉だと思う。要は「神様が人間に対して良くして下さった何か」というようなことだろう。細かい定義は教派等によってイロイロだろうから、例によってしない。けれど間違いなさそうなところで簡単に分類すると、次の二つになると思う。

■一般的な恵み
 これは全人類に等しく与えられている恵みで、例えば地球環境が人間の生存に適している、という類のものだと思う。「善人にも悪人にも雨を等しく降らす」というような表現が聖書にある通りだ。
 この意味で、全ての人が神の恵みを受けていると言える。

■特別な恵み
 これはクリスチャンや教会に対して、その個別の状況や必要に応じて特別に与えられる恵み、というようなものだと思う。これは未信者にはない、クリスチャンの特権とも言えると思う。
 けれどこれをどう扱うか、何がこの種の恵みなのか、よくよく注意しなければならない。

 例えば、私が知っているケースで言うと、新会堂を探していたらちょうどいい物件を見つけられて、かつオーナーと何度か交渉したら家賃を減額してもらえたとか、作ったポスターが今までになく斬新だったとか、非常に険悪な関係だった人たちを牧師の仲介で和解させられたとか、そういう良い結果・望ましい結果は全て神の恵みということになる。
 そういう話を礼拝やミーティングの場で大々的に(多少の誇張を込めて)して、みんなして「ハレルヤ」「すばらしい」と大喜びするのは、ちょっとポジティブ過ぎというか、単純過ぎる気がする。

 もちろん広義には、あらゆることは神の恵みの中にある、と言えると思う。しかしそうであるなら、そしてヨブが痛みの中で告白したことを思うなら、苦しいことや辛いこと、理解できない不幸もまた神の恵みなのではないだろうか。

 しかし、良いことは何でも神の恵み、ということで喜んでいるだけならまだ単純でいいと思う。これが、例えば上記の「不動産物件を何度か交渉して減額させた」というのを当然の「神の恵み」とすると、大変な事態にもなる。何故ならその手の交渉術、実務力、ビジネススキルがなければ神の恵みは見られないということであり、その交渉に失敗することは神の恵みがないということで、「祈りが足りない」「不信仰だ」「何か罪があるだろう」と責められることになりかねないからだ。

 こうなると、もはや「恵み」でなく「努力」だろう。しかしそういう思考パターンの中にはまり込んでしまうと、そんな簡単なこともわからない。

 じゃあ何が特別な「神の恵み」かと言うと、実は私にはよくわからない。長年上記のような「良いことは何でも恵み」パターンの中にいたからかもしれない。
 けれど一つ、私にとってまさしく神の恵みなのは、そういう間違ったパターンに気づかせてもらえた、ということだ。

2013年11月19日火曜日

「未信者の世界」と「信者の世界」の区別(続き)

「未信者の世界」と「信者の世界」の区別がある、と以前書いた。それについてもう少し書きたい。

 その両者の区別は、クリスチャン生活(特に教会生活であろう)が長く、深くなるにつれ、際立ってくるものだと思う。とくに知識も経験もあり礼拝など忠実に守っているクリスチャンほど、未信者(あるいは一般社会)との乖離が大きくなりやすいだろうと思う。

 もちろん、だからと言ってまったく会話が成り立たない宇宙人みたいな存在になる訳ではない。むしろ初対面とか当たり障りのないコミュニケーションとかでは、何の支障もないのが普通だと思う。私が言っている「違い」が際立つのは、話が信仰の部分に入っていく時だ。

 実際に私が経験したケースで言うと、「人は生まれながらに罪があるって聖書に書いてあるみたいだけど、生まれたばかりの赤ちゃんに何の罪があるっていうの? おかしくない?」とか「2000年前に死刑になった人と何の関係があるのよ?」とかいう聖書系の話題や、「なんでクリスチャンって酒もタバコもやらないの? 付き合い悪いよね」とか「なんで日曜に休んじゃダメなの」とかいうクリスチャンライフ系の話題などがある。そういう場合はどうしても信仰の話や聖書の話、神の話になり、しかも何とかわかってもらおうと熱く話してしまうことが、私は多かった。それはある意味「伝道」の機会であって良いことだと思うけれど、結局何の理解も得られず、「ダメだ、こいつとは話にならん」みたいな顔をされて終わってしまうことが多かった。

 そこはもうちょっとうまくやれよ、という話かもしれない。けれど少なからず信仰熱心な人(愚直なまでにと言っていいかもしれない)ほど、そうなりやすいのではないかと思う。そして結果的に、「こちら側とあちら側」みたいな溝を作ってしまうことになる。

 これは基本的に、価値観の違いによるものではないか。聖書に親しみ、その価値観が浸透すればするほど、良くも悪くも一般社会からの乖離が進んでしまう、そういう側面があるのではないか。

 これには日本という国柄も関係していると思う。欧米諸国であれば、話はまた変わるだろう。
 カナダ人の知り合いが何人かいて、そのうち何人かは、カナダでも近所に住んでいたという。「こいつとは学校も教会も一緒だったんだ」というような話が出ていて、まるで近所だったから同じ書道塾に通ってたんだよ的な感覚で、教会について言及していたのが印象的だった。
 彼らがクリスチャンなのかノンクリスチャンなのか結局よくわからなかったけれど、どうも話の端々から、神様がいるのは当たり前、という前提があるのはわかった。教会とか神様とかに対する見方が全然違うんだな、と感じた時だった(もちろん全てのカナダ人がそうなのではないと思う)。

 日本だと、宗教というと何となくいかがわしいもの、怪しいものという見方が少なくないと思う。あるいは心の弱い人、問題を抱える人の頼るもの、という見方もあると思う。だから信仰熱心な人を見て「ああ、住む世界が違うな」と引き気味になるのは、まあ普通の反応と言えるのではないか。

 だからクリスチャンの側にも、ノンクリスチャンの側にも、両者を断絶する要因があるのだと思う。

 前回と同じような結びになってしまうけれど、クリスチャンとして成熟すればするほど一般社会から断絶されていく、ということであるなら、その成熟というのはちょっと考えなければならないと思う。一生懸命伝道するのも大切なことだと思うけれど、一般社会から乖離しない成熟の仕方、伝道の仕方を考えるのも、同じくらい大切ではないかと思う。

2013年11月18日月曜日

人生をマラソンにたとえてみる。人生のゴールと死の関係について。

 昨今のランニング・ブームに乗っかっている訳でもないけれど、私もランニングをしている。

 教会スタッフ時代はまったく余裕がなかったので、実に久しぶりの運動習慣である。始めた頃は全然走れなくて絶望的だった。けれど何ヶ月か続けるうち、走るペースも距離もぼちぼち伸びてきた。今は楽しくさえある。

 汗を流して体を動かすのは良いものだと思う。否定的なことなど考えている場合でなくなり、嫌なことも自然と忘れさせてくれる。健康的になったとも思う。

 ところでランニング(あるいはマラソン)には戦略が必要だと最近気づいた。至極当たり前なことだけれど、ペース配分をしっかり考えないと、予定通りの走りができない。例えば10キロ走りたいのに、私のような運動不足者が短距離走のペースで走り出したら、すぐに息が上がってしまう。とても完走できない。それに問題は走り出しだけでなく、途中でどうペースを調節するか、きつくなったらどうするか等も、ある程度想定しなければならない。もちろん時間が無限にあるなら、持続可能なペースで終始走るという手もある。

 そういうことをランニングしながら考えていると、人生はマラソンみたいなものかも、というアイディアが浮かんだ。それを走り通すには、ペース配分と計画が必要だと思うからだ。

 例えばものすごく忙しい状態が長く続くのは、人によっては良くないだろう。心や体を壊すかもしれない。けれど逆に暇な状態が長過ぎるのも辛い。坂道を駆け上がるみたいなフンバリどころと、平坦な道をゆったり走る時と、バランスが必要かもしれない。とにかくそういう何だかんだを走り抜け、完走することを目指すのが、人生かもしれない。

 ところで人生を完走するとは、どういうことだろうか。ある個人の人生のゴールとは、何なのだろうか。体が機能を停止する瞬間まで、生きていればいいということだろうか。パウロが「私は走るべき行程を走り終えた」と書いたのは、どういう意味だったのだろうか。

 うまく言えないけれど、死ぬまでとりあえず生きることと、人生のゴールを迎えることとは、必ずしも一致しないような気がする。
 よく「人生を歩む」とか表現するけれど、「歩く」と「走る」はえらく違う。そして走り抜くというのは、何かの目標を達成するという意味合いが、より強いように思う。

 人生に何かの目標を定め、それを達成するのに必要なあれこれを計画し、実行していくことも、生き方の一つだと思う。もちろん何の目標もなく生きたっていいと思う。何かを達成してもしなくても人は死ぬからだ。

「何かを成し遂げても、どうせ死ぬなら意味がないのでは。それに生涯かけても成し遂げられないかもしれないし、そうだとしたら、逆に人生を無駄にしたことになるのでは」という意見があるかもしれない。
 それに対しては、私の好きな俳優ロバート・レッドフォードが『大いなる陰謀』の作中で言ったセリフをもって答えたい。「しかし、何かはした」

2013年11月17日日曜日

何に心を動かされるべきか。神か金か感動談か。

■ある家族
 他教会のクリスチャンがやってきて、身内の窮状を涙ながらに語った。どういう経緯でやってきたのか知らないが、牧師は訳知り顔でウンウン頷いている。会衆はそれを聞いて大いに同情した。私も例外ではなかった。

 牧師が「祈りましょう」と呼びかけ、それはそうだと会衆全員で祈る。祈りの後、「必ず神様が働かれますよ」「きっと素晴らしい御業があらわされます」などと皆で励まし、その場は終わった。

 翌週から、そのクリスチャンは家族を連れて教会にやってきた。あれよあれよという間に、新しい「神の家族」の誕生である。いろいろと辛い目に遭ってきたその家族は、温かく迎え入れられ、少なからず慰めを得たようだった。牧師は「教会が全力でサポートしますよ」と断言した。

 繰り返すが、そうなった経緯については何も知らない。けれど牧師いわく、「その家族を受け入れるよう神によって心を動かされた」らしい。確かにその牧師は礼拝の中で、その家族一人一人を抱きしめて涙ながらに祈っていた。

■ある婦人
 それとは時期が違うけれど、ある信徒が、知り合いの婦人を教会に連れてきた。その婦人も他教会の熱心なクリスチャンで、長いこと大病を患っていた。いろいろな「いやしの集会」に足しげく通ったが、病状は悪化する一方だった。その信徒は「ここなら必ず癒される」という信仰をもって連れてきたらしい。けれど牧師はというと、祈りこそすれ、特別ケアする様子もなかった。細かい話はいろいろあるけれど、とにかく先の家族とは大きく扱いが異なった。直接聞いていないけれど、おそらく「神によって心を動かされなかった」のかもしれない。

■異なる扱い方
 上記の家族と婦人とは、どちらも同情に値したし、何らかのサポートを必要とする点でも同じだった。ただ一つ、私が気づいた違いは、前述の家族の方がたいへん裕福だったということだ。

 その牧師の「人の扱い方の違い」は、他のケースでも見られた。同じような問題を起こしたAさんは許すが、Bさんは許さない。同じような境遇にあるCさんの必要は満たすが、Dさんのそれは撥ね付ける。礼拝で感動的な証をしたEさんの為には全力で祈るが、実は同じ種類の問題で悩んでいるFさんのことは知らんぷり。

 その異なる扱いの全てが、「神によって心を動かされたか否か」で決まるとしたら、その神様というのはえらく不公平な方ではないだろうか。
 もちろん、聖書には「あなたの信仰があなたを癒した」とか「あなたの信仰の通りになる」とかいう表現があるから、信じる側の態度が求められるというのは間違っていないと思う。けれどそれは「信仰の在り方」が問われているのであって、牧師にうまく取り入る器量があるとか、感動的な証ができるとか、お金があっていろいろ接待できるとか、そういう牧師の目に留まる何かではないような気がする。

■牧師の立場を想像してみると
 もちろん人間には相性というものがあって、自然とうまくやれる相手もいれば、努力してもうまくいかない相手もいる。この世で一番難しいのはどんな学問よりも人間関係ではないかと私は常々思うのだけれど、牧師もそれを実感として知っているのではないかと思う。
 だから同種の悩みを持つAさんとBさんに、牧師が同じように接せられるかというと、それは無理があるかもしれない。そしてそのわずかな違いを責めるのは理不尽というものだろう。
 ただ、残念ながら、だからといって不公平が許される立場にないのが牧師という存在ではないだろうか。

■神に心を動かされるとは
 今現在、私自身はこれに対して答えを持っていない。もちろん神に心を動かされたと信じていろいろ活動してきたけれど、それがどこまで真実だったのか、今となってはよくわからない。
 けれど、少なくとも上記のような心の動かされ方に疑問があるのは間違いないだろうと思う。

2013年11月16日土曜日

エスカレートしなければ認識されない破壊的カルトと、その陰で被害に遭う人々の悲劇

 ある宗教団体にカルト疑惑がかけられた。団体職員に対するマインド・コントロール等を外部から訴えられ、裁判にもなった。けれど結果、訴えは退けられた。理由は「訴えを裏付ける証拠がない」からだった。

 その真偽はわからないけれど、一つ気になったのは、「じゃあどういう証拠があったら裏付けとなるのか」という点だった。仮にそこが破壊的カルト団体だとして、多くの信者がいいように使われて反社会的活動を繰り返しているのだとしたら、いったいどういう証拠でその犯罪性を立証したらいいのだろうか。

 私がよく書いている「牧師による独裁的教会運営」にしても、その構造や仕組みは説明できるかもしれないが、確かな証拠をもって立証するというのは難しい気がする。例えば長時間奉仕(労働)にしても、客観的には信徒が自らの意志でそうしているように見えるし、ある意味そうだからだ(そこには教義や教典を巧みに用いた「見えない強要」がある)。

「破壊的カルト」とか「マインド・コントロール」とかを日本に広く知らしめたのは、おそらく95年に「地下鉄サリン事件」を引き起こしたオウム真理教だと思う。その破壊的カルト性はご存知の通り、すでに立証されている。けれどそれは裏を返すと、あそこまで反社会的、暴力的、破壊的かつ大規模な団体でなければ世間の注目を浴びにくい、という現実を示している。

 しかもオウム真理教の場合は沢山の証拠が挙げられている。例えばサリンやそれを散布する為のヘリコプター、拉致監禁された大勢の被害者、その時使用されたLSD、教祖と弟子の問答テープ、信者たちの証言等、挙げたらキリがない。

 それだけ証拠があれば、立証するのは容易かもしれない。けれどそこまで大規模でなく、刑法的な犯罪性もなく、ある意味「やり過ぎでない」団体の場合はどうだろうか。例えば表面的には社会貢献をうたい、実際そのような活動もしている小中規模のキリスト教会はどうだろうか。たとえそこが非常に独裁的で、信徒が騙されていると気づかないまま「信仰的虐待」を受けているとしても、外部の人間がそれを問題視することはないだろう。むしろその教会の活動だけを見て、良しとするかもしれない。

 そういう教会は、もしカルト疑惑をかけられたとしても、うまくすり抜けてしまうと思う。明らかな犯罪行為があれば別だけれど、そこまで「やり過ぎでない」なら、そもそも何の証拠も存在しないだろうからだ。信徒が「牧師に奉仕を強要された」と言っても、「信徒が自らしたことだ」と簡単に反論されてしまう。オウム真理教みたいに教祖と弟子の問答テープが残っていれば、その会話からマインド・コントロールのパターンを見出すかもしれないし、見えない強要が見えてくるかもしれないけれど。

「でも、オウムみたいな犯罪集団でないならそれほど害もないでしょう」という意見があるかもしれない。それはそうかもしれない。けれど、独裁的教会にいた人間としては、そう簡単に割り切れるものではない。肉体的にも精神的にも、ダメージは「ない」のでなく確かに「ある」のだ。教会を離れた人は大勢いるし、「神なんていない」とまで言い切るほど傷つけられた人もいる。オウム真理教が信者に対して行った諸々が犯罪なら、独裁的教会のそれも同じだと私は思う(痛みを「程度」で割り切れるのは、痛んだことのない人間ではないだろうか)。

 オウム真理教も最初は小さな団体だったという。けれど徐々に拡大し、発展する中で、その破壊性をエスカレートさせていった。そして取り返しのつかない事態となってはじめて、その危険性を認識された。もっと早く芽を摘んでいれば、というのは結果論でしかない。それは仕方のないことかもしれない。けれど大勢が被害に遭わなければ解決されないとしたら、それは悲劇としか言いようがないと私は思う。

2013年11月15日金曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(ミーティング篇)

一部の(?)キリスト教会のミーティングでよく見られる現象を「あるある」的にまとめてみた。
(注意)
 これはプロテスタント聖霊派にしか属したことのないクリスチャンの視点であって、クリスチャン全般について言えるとは限らない。

■ミーティングに遅れそうな時
・電話を一本入れておく(普通の信徒)
・そんなこと基本的にない(普通の牧師)
・全力ダッシュ(熱心な信徒)
・なんとかして、既に教会内にいるかのように取り繕う(カルト被害疑惑の信徒)
・連絡なく堂々と遅れて入ってくる(独裁的牧師)

■ミーティング中「何か示されてる人は祈って」と言われた時
・特に示されなければ祈らない(普通の信徒)
・示されたかどうか定かでないが、祈りたいことがあるので祈る(普通の信徒)
・状況にあいそうな御言葉を探して宣言し、示されたっぽく祈る(ややカルト被害疑惑の信徒)
・預言しだしたり全員に按手しだしたりする(やりすぎ)

■牧師の提案に反対したい時
・反対する(普通の信徒)
・対案を出す(普通の信徒)
・何も言えない(ややカルト被害疑惑の信徒)
・賛成する(カルト被害疑惑の信徒)

■誰かが牧師に反対して話がこじれた時
・両者を取り持つ(普通の信徒)
・とにかく話をまとめようと努める(普通の信徒)
・静観する(ややカルト被害疑惑の信徒)
・牧師と一緒になって責める(カルト被害疑惑の信徒)

■何か案を出すように言われた時
・とりあえず考えて言ってみる(普通の信徒)
・思いつかないので「ないです」と言う(普通の信徒)
・でまかせでも何でもいいから言う(ややカルト被害疑惑の信徒)
・このミーティングは日本のリバイバルの始まりだとか言い出す(熱すぎ)

■室内が暑い(寒い)時
・衣服等で調節する(普通の信徒)
・座る位置を変える(普通の信徒)
・一言断ってエアコンを調節する(普通の信徒)
・牧師の意向を確認し、変えないなら我慢する(ややカルト被害疑惑の信徒)

■話し合いが長引き、帰宅時間になった時
・次回へ持ち越し(つまり閉会)を提案する(普通の信徒)
・キリのいいところで失礼する(普通の信徒)
・あくまで終わるまで残る(真面目あるいはややカルト被害疑惑の信徒)
・ミーティング中の退席などあり得ない(カルト被害疑惑の信徒)

■牧師の話が長くなって脱線していった時
・一声かける(普通の信徒)
・「その話関係ないでしょ」と突っ込める(幸せな信徒)
・黙って聞く(ややカルト被害疑惑の信徒)
・メモを取り続ける(カルト疑惑の信徒)

■ミーティング終了後(夜遅い時間)
・すぐ帰る(普通の信徒)
・特に急がないので雑談する(普通の信徒)
・牧師が退席するまで帰らない(ややカルト被害疑惑の信徒)
・さっそく奉仕に取り掛かる(カルト被害疑惑の信徒)

■取り込み中に急なミーティングの呼び出しがあった場合
・取り込み中なので断る(普通の信徒)
・用事が終わったら参加する(熱心な信徒)
・適当な理由をつけて断る(普通の信徒)
・用事を中断して即座に参加する(カルト被害疑惑の信徒)

■深夜帯にミーティングの呼び出しがあった場合
・そもそも電話に出ない(普通の信徒)
・呼び出した牧師の常識を疑う(まともな信徒)
・とりあえず訳を聞いてみる(熱心あるいは寛容な信徒)
・即座に教会に向かう(カルト被害疑惑の信徒)
・ずっと教会にいたので仕事を中断して参加できる(カルト被害疑惑の信徒) 

2013年11月14日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第9話

 溝田牧師との感動的な和解以降、キマジメくんはよく神様から「語られる」ようになった。というのはほぼ毎週の礼拝ごとに、牧師を通して預言が語られるようになったからだ。

 メッセージの後、だいたいいつも賛美を歌い、自由に祈る時間がある。大音響の奏楽が続く中、会堂の椅子はきれいに撤去され、広くなったスペースに、信徒たちが自由に散らばる。そしてめいめいで祈ったり歌ったり、大声で何か叫んだりする。牧師は順番に信徒の頭に手を置いて祈ったり、マイクを通して大声で何かを宣言したりだ。
 そこには特にこれといった決まりはない。牧師いわく「聖霊の自由な働き」に任せているそうだ。

 そういう自由な祈りの最中、溝田牧師が最近、よくキマジメくんに預言を語るようになった。内容は、だいたいが聖書の箇所だったり、「あなたを確実に導いている、だから安心しなさいと主が語っておられる」とか言われたりだった。それがほぼ毎週続くものだから、キマジメくんは嬉しいやら誇らしいやら、礼拝に出るのが何だか楽しくなった。

 溝田牧師も、一時期ほど厳しい口調であれこれ命じてこなくなった。今でも「キマジメくん、荷物持って」とか「あのポスター早くしてよ」とか言われるけれど、怒鳴られはしない。それだけ自分が成長したのかもしれない、と思うとまた嬉しくなった。

 そんなこんなのある礼拝の後、牧師室に呼ばれた。何だろうと緊張気味に入ってみると、やはり笑顔の溝田牧師がいる。「やあキマジメくん、まあ座って」
 高級そうなソファで向かい合うと、牧師はさっそく話し始めた。「いやね、キマジメくんもだいぶ教会に慣れたようだから、そろそろ正式に、教会員として迎えようと思ってね」
 教会員、というのは初めて聞く言葉だった。
「クリスチャンは皆、それぞれ植わるべき教会というのがあってね、そこで生涯主にお仕えしていくのが、最も祝福に満ちた生き方だと私は信じているんだよ。それで、キマジメくんはこの教会に植わるよう、主がお定めになっていると思うんだ」
「はい、それは光栄なことです」
 そこで牧師が一通の封筒を取り出した。少し大きめの、厚手のものだった。
「キマジメくん、什一返金というのを知っているかい?」
「じゅう…? いえ、知りません」
「だろうね。聖書に記されているんだけどね、説明してあげようか」
 そう言って開かれたのはマラキ書3章だった。
「人は神のものを盗んでいる。それは自分の収入の十分の一を主に返さないことによってだ。その十分の一を主に返す(捧げる)ことによって、主を試みてみよ。必ず溢れる恵みが注がれるから…」というのが牧師の説明だった。
「これは現代も変わらない主の掟なんだよ、キマジメくん。毎月の自分の収入は、実は全て、主からのお恵みなんだね。その十分の一だけでいいから、主にお返しすることは、かえってキマジメくんの祝福になるんだ。もちろん私も捧げているし、リッチ兄弟もノンビリ兄弟も、他の主だったメンバーたちも皆、捧げているよ。そして多くの人が、捧げた以上の恵みに預かっている。そういう証、いっぱい知ってるよ。だからキマジメくんにも、そういう恵みを体験してほしいんだ」
指定された箇所をまじまじ読んでみると、確かにそういうことが書いてある。
「へえ、そんなんですね」
「そう。それでね」溝田牧師は笑顔のまま続ける。「これが、ウチの教会の什一返金袋なんだよ。これに毎月、キマジメくんの全収入の十分の一を入れて捧げてほしいんだ。もちろん捧げられたものは献金として、一円残らず厳密に、主の御用の為に用いられる。例えばこの会堂の維持費とか、宣教費とか、いろいろな教会行事のためとかね」
 キマジメくんは手渡された封筒を見つめる。氏名欄には既に、教会名とキマジメくんの名前が印字されている。この教会の、正式な教会員。何だか誇らしい気分だった。
「わかりました。さっそく今月分から捧げます」
「わかってもらえて嬉しいね。…でもね、キマジメくん」牧師の顔が曇る。「これは、クリスチャンの義務なんだけど…それで、君がクリスチャンになったのは、もう何ヶ月も前のことだよねえ?」
「あ、はい、えっと、もうすぐ一年になります」
「つまりこの一年間、什一を捧げていなかった、ってことになるよね」
「そ、それはそうですね」
「つまり一年間、君は、そのぉ、主から盗んでいた、ということにもなるよね。それは…祝福じゃないと言わざるを得ないよねぇ…」溝田牧師は苦虫を噛み潰したように顔をしかめる。「きっと大きな額になると思うから言いづらいんだけど、でも君の為には言わなければならないな…」
「はい…」
「つまりこの一年分の収入の、十分の一を捧げないと、祝福どころか反対のことになってしまう、ってことだよ、キマジメくん。そうなってしまったら、私はとっても悲しいよ」
「はあ…」
 自分でもいやらしいと思ったが、頭の中でざっと計算してみた。月のバイト代と親からの仕送り代に12をかけ、それを十分の一にしてみると、だいたいだが数十万にはなりそうだ。
「でもね、キマジメくん、これは信仰のチャレンジなんだ」溝田牧師は補足する。「そして信仰のチャレンジは、必ず祝福に終わると私は信じているよ。たとえすぐに結果が見えなくても、天で受ける報いは、とっても大きいんだよ」
 牧師はまた笑顔に戻り、両手を広げてそう説明した。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です(だいたい毎週木曜日を予定しています。あくまでだいたい)。

「未信者の世界」と「信者の世界」の区別

「未信者の友人を祈って(教会に)誘います

 と、いうような台詞を教会でよく聞いたことがある(この友人のところは家族とか同僚とかに置き換えてもらって結構だし、誘いますのところは伝道します等に置き換えていただいてかまわない)。かくいう私もよく言っていた。
 未信者をいきなり誘うのはいろいろ抵抗があるから、まずは祈ろう、みたいな感覚だと思う。祈ることで、実際にその人と会う時に神様が働かれますように、みたいな願いもあると思う。

 私個人のこととして書くけれど、こういう場合、未信者の友人と自分との間に、何か大きな壁みたいなものが存在しているように感じた。いざその友人に話に行くとなると、なぜか「臨戦態勢」みたいになるのだ。普段は自然に話している友人なのだからそんなに気張る必要は全然ないのだけれど。
 しかし、これはよくよく考えると当たり前なことではないか。たとえば恋人にプロポーズするとなったら、普通なら緊張して気張るだろう。ケンカ中の友人と和解しようとしたら、最初は抵抗を感じて素直になれないことがある。だからクリスチャンが未信者に聖書の話をしようと思ったら、同様の感覚を持ってもおかしくないだろう(「百戦錬磨の伝道者」ならそんなことないかもしれないが)。むしろ普通のことと言える。

 けれど、私が感じた問題はここからだった。そうやって「未信者の友人の為に祈って伝道しよう」(下線部は適宜代入可)みたいなことを繰り返しつつ年月を過ごすうち、どうも、「未信者の世界」と「こちらの世界」みたいな区別を感じるようになったのだ(それには教会で過ごした年月の長さと濃さが大いに関係していると思う)。

 それを最初に感じたのは職場でだった。当然のことだけれど、職場の同僚たちと、教会の信徒どうしでするような会話はできない。「礼拝のあの賛美のこの歌詞、感動しすぎて泣いちゃいましたよ」みたいなことは常識的にも儀礼的にも言えない(少なくとも私は言えないのだが、中には例外的に、平気で言える人がいるかもしれない)。
 もちろんクリスチャンでなかった頃は、友人たちとは普通に話していた。それがクリスチャンになり、何年か経つうち、そういうギャップが生まれ、ある時はっきり自覚するに至ったのだと思う。

「そりゃ当然だ。教会と一般社会では態度を使い分けるのが常識だ」と言われるかもしれないし、私自身そうだと思うのだけれど、どうも私にはそれが難しかった。「クリスチャンとしての自分」と「そうでない自分」を使い分けるのに、何とも言えない違和感があった。

 社会心理学的には、人間は「社会・友人・家族」という3つの社会環境を持っており、それぞれで顔を使い分けている、と言われる。それは基本的に間違いないと思う。職場での気遣いを家庭に持ち込む必要はないし、逆に家庭でのリラックスを職場に持ち込むのはまずい。しかし「職場の自分」も「友人間の自分」も「家庭での自分」も基本的に同じ自分であって、それほど大きく変化しているものでもないと思う。
 その点、「クリスチャンとしての自分」と「そうでない自分」というのは、それ以上のギャップがあるような気がする。それは(こう書くと語弊があるかもしれないけれど)、もはや「本性を隠している」くらいのレベルのギャップではないだろうか。

 私が感じた「未信者の世界」と「こちらの世界」の区別は、そこに原因があるように思えてならない。生きている世界が違うというか、土俵が違うというか、そういう風にも感じる。
 私が「祈って未信者に伝道する」時に感じた「臨戦態勢」の感覚も、もしかしたら出所は同じだったかもしれない。

 聖霊派の教会は(全部かどうか定かでないが)よく一般社会を「この世」と呼ぶけれど、あれは明らかに「住む世界が違う」というニュアンスを含んでいると思う。

 それが悪いことなのかどうかはよくわからない。クリスチャンとノンクリスチャンでは価値観がかなり違うはずだから、当然と言えば当然の成り行きかもしれない。しかしそういう価値観のズレが、それまで付き合っていた友人たちとの断絶を起こすのだとしたら、それはちょっと考えなければならない事態ではあると思う。

追記)
 何だか結論のないまま終わってしまったけれど、この件は継続的に考えるということで。

2013年11月12日火曜日

絆創膏を持っていることと、貼ることの違い。聖書解釈とその結果について思うこと。

「神学論争」という言葉がある。
 Weblio類語辞典によると、「結論の得難い議論のこと」となっている。いつまでたっても結論が出ない不毛な議論、という否定的なニュアンスで使われることもある。そのニュアンスに異を唱える意見もみられる。
 私個人はと言うと、キリスト教の聖書解釈における神学論争自体を、否定的に捉えているつもりはない。けれどその論争に費やす労力を思うなら、できるだけ遠慮したいと思っている。

 しかし結論が得難いのは、なにも聖書解釈だけの話ではない。例えば神道とかヒンズー教にみられる多神教と、キリスト教とは相容れない。キリスト教やユダヤ教やイスラム教は一神教だけれど、やはり相容れない。宗教でなくても、例えば日本国憲法改憲についても意見は分かれるし、安楽死の是非についてもそうだ。

 そういう議論を深める場合、例えば知識や経験が増えることで、あるいは誤解が解けることで、意見を変えることはある。けれどそれは単に知識不足だっただけのことだろう。そうでなく個人が長年培ってきた信念や価値観は、何度かの議論でそうそう変わるものではない。むしろ変わらないと思った方がいいかもしれない。だからこそ議論の多くは平行線のまま、物別れに終わってしまうのではないだろうか。
 以前も「クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきか」という話を書いたけれど、私は実際にその議論の場にいた。それは長い議論だった。けれどその結果どうなったかと言うと、何も変わらなかった。各人の対立が際立っただけだと思う。

 結局のところ、人は自分の信じたいものを信じるのではないだろうか。例えばクリスチャンはヒンズー教の信仰を間違いだと信じているけれど、同じようにヒンズー教徒はキリスト教を間違いだと信じている。憲法改憲派は護憲派を説得しようとするけれど、逆もまたそうだ。それぞれの信じていることが絶対的な真実なのであって、それを他人に指摘されたところで、簡単に変えるものではないと思う。むしろ反対されることで、より強硬に主張するようにもなる。
 そしてそれは、クリスチャンの聖書解釈にも当てはまるだろう。

 私は少なくともここで聖書解釈議論をするつもりはない。むしろ聖書解釈は、ある程度の幅があっていいとさえ思っている。もちろん「伝道しなければ地獄に堕ちる」みたいな恐怖に陥れる解釈は論外だけれど、さほど結果を左右しない事柄であるなら、違っていてもいいのではないだろうか。それより私が重視したいのは、「その解釈の結果どうなるか」「その解釈の結果何をするか」だ。

 人の価値は、知識や経験よりも、その行動にあると私は常々思っている。例えば「擦り傷には絆創膏を貼ればいい」と知っていることと、実際に絆創膏を貼ってあげることとは違う。聖書を完璧に暗唱していることと、その言葉通りに行動することとは違う。

 この「絆創膏を貼る」をキリスト教の最も基本的な教理だと仮定すると、「縦に貼るか」「横に貼るか」は解釈の微妙な差、「貼らずに塩を塗る」が論外な解釈だと言える。擦り傷を負った人からすれば、縦に貼られようが横に貼られようが、どっちだっていいはずだ。少なくとも塩を塗られるよりずっとマシだろう。本当に必要なのは絆創膏を貼られることであって、貼り方は問題ではない。

 私は、熱心に主に仕えていると思いながら、いつの間にかまったく的外れなことになってしまっている、以前の私自身のような人々へ、何かの「気づき」を提供できればと思っている。その為に、時として私自身の聖書解釈を持ち出す必要がある。けれどそれは私にとって、実はあまり重要なことではない。重要なのは、「その信仰の行いは本当に正しいのですか」「その苦しみは本当に価値のある、神の為の苦しみですか」と問いかけることにある。

 この問いかけを必要とする人がいないことを、あるいは少ないことを願うばかりである。

2013年11月11日月曜日

教会との距離感の取り方(続き)

「教会は最大の神の武器だ」とある牧師が言っていて、「だから教会は敵を打ち破って勝利する」というような話を展開していた。

というわけで「この世の常識」を打ち破り、サタンを打ち破り、神の王国(自分の教会)を拡大し、この世の哀れで盲目な未信者たちを救うことが、その牧師の目的だったようだ。

この「教会=武器」の聖書的根拠は、マタイの福音書16章18節の、ペテロに対するイエス・キリストの言葉にあると思う。「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(JA1955)

この「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」を言い換えると、「教会は打ち勝つ」となる。

この解釈そのものの是非は置いておくとして、この解釈(とその牧師のやり方)をその通りに実行するとなると、教会は敗北できなくなる。だから事業で失敗できないし、大規模な集会で粗相があってはならない。いつも何もやっても、ある程度の成功がなければならないということになる。
実はこの時点ですでに「何が敗北か」「敵は誰か」という点が曖昧になっているのだけれど、当事者たちはなかなか気づけない。というのは、(ここでも何度も書いてきたように)彼ら信徒やスタッフは文字通り「身を粉にして」働いていて、ゆっくり考える暇がないからだと思う。
また、例えば何かの仕事で失敗すると、「敵であるサタンが妨害しているからだ。もっと祈って働いて打ち破らなければダメだ」と言われる。つまりどんな種類の不都合もサタンのせいになるので、あらゆる仕事が「聖戦」に仕立て上げられる。信徒は否が応でもそれに取り組まなければならなくなる。そして、敗北があってはならない。

ちなみにここで言う「敗北」とは、「(牧師の)思い通りにならないこと」を指す。

この構造のそもそもの問題は、「主に仕える=教会に仕える」となってしまっている点にあると思う。
クリスチャンであれば、「主に仕える」ことに基本的に抵抗を覚えることはないだろう。しかしそこで「主に仕えることは教会に仕えることだ」と教えられてしまうと、もはや教会に仕える以外になくなってしまう。そして信仰熱心であればあるほど、教会に全てを注いでしまうことになる。自分の仕事、生活、お金、そして家族も。

しかし聖書を読むと、実に多彩な神の御心があることがわかる。前回も書いたように、家族を大切にし、時間を共有することも御心だし、自分の仕事を持って生活を確立することも御心だ。適度に休むことも、人生を楽しむことも御心だと私は信じている。

そのどれもが、主に仕えることだ。そしてその中の一つに、教会に仕えるというのもあるのだと思う。しかしそれが逆転してしまい、教会だけが御心だと主張するのは、逆に神の御心に反しているのではないだろうか。

そういう視点を持って教会との距離感を考えてみることは、全てのクリスチャンにとって大切なことではないかと私は思う(もちろん教会に一生懸命仕えることだって良いことだ)。

もっとも、これは健全な教会に集っておられるクリスチャンの方々には、至って当たり前な話だと思う。そしてそれが当たり前だと自然に思えることは、大変幸いなことだと私は言いたい。

2013年11月10日日曜日

教会との距離感の取り方

 教会とどう付き合うかは、クリスチャンであれば各々考えるところだろう。特に教会員であれば、その教会との距離感は、人生を左右する。そしてその距離感は、各人の立場や信仰や価値観などを反映している。

 例えば牧会に携わる牧師は、教会との距離感はほぼゼロではないかと思う。牧師はいろいろな意味で教会活動の中枢を担うから、それに薄く浅く関わるというのはあり得ない(もちろん不可能ではないはずだけれど)。
 また教会役員とか長老とかいう立場の人たちも、同様に教会に深く関わらなければならない。牧師と同様、教会との「距離」はそもそも存在しないかもしれない。
 一方、一般信徒については、いろいろなケースがあると思う。非常に献身的に関わる人もいるだろうし、ほとんど日曜だけの付き合いという距離を取っている人もいるだろう。
 フルタイムで教会で働くスタッフ(牧師もそうかもしれない)は、距離感で言えば特殊な立場にあると思う。何故なら教会が職場だからだ。

 いずれにせよ、究極的には、各人が自ら願ってそうしている部分が大きいと思う。牧師にしても役員にしてもその役に就きたいと願ってのことだろうし、そうでなくても、その立場を厭わなかった結果だろうからだ。一般信徒も基本的にそれは変わらない。よっぽどカルト的・独裁的で「事実上の強制」がなされる教会なら別だけれど、本当に願わないことは誰もしていないはずだ(ある程度の責任感が動機となることはあるだろうけれど)。

 教会とどういう距離感を持てばいい、という正解はないと私は思っている。それは各人の生き方であり選択であるべきだからだ。しかし、バランスについてはよくよく考えるべきだと思う。
 例えば教会の奉仕の為に、家族との時間を犠牲にするという話をよく聞く。仕事の為に家族との時間を削らなければならないサラリーマンは大勢いるから、「それの何が悪い」と言われるかもしれない。けれど教会が職場でない以上(職場であってもそうだが)、それと同列で考えるべきではない。

 それにいくら教会全体が「神の家族」であっても、それは血縁の家族とは根本的に違う。中には「教会は自分の家族と同じだ」と言い張る人もいるけれど、例えば身内の誰かが事故で人を死なせてしまったとか、突然失踪したとか、あるいは不治の病に罹ったとかという時、それに最後の最後まで付き合い、経済的にもその他のことにも無制限の責任を負うのは、神の家族でなくやはり血縁の家族だ。どれだけキレイ事を並べたとて、他人のためにできることには限度がある。
 それを考えるなら、例えばある週末を(自分の家族を含む)教会全体で一緒に行動したとして、それで「家族の時間を持った」とは言えない。それはあくまで家族全員が、教会行事の為に、家族との時間を犠牲にしたに過ぎない。

 もちろん独身で、まったく天涯孤独の身であるなら、自分の時間を何にどれだけ捧げても問題はない。けれどそうでないなら、そして「十戒」の第5番目が「父と母を敬え」と言っているその真意を汲むなら、教会の誰かでなく、まずは自分の家族を大切にし優先すべきだ。

 だから教会との距離感は個人の自由で良いと思うけれど、その結果、自分の家族に犠牲を強いているのだとしたら、その距離感には見直しが必要だと思う。自分の願いを優先しすぎている可能性があるからだ。

追記)
「教会との距離感」という言葉を聞くだけで、「神の御心に反している」とか「全てを捧げていない」とか「不信仰だ」とか言うとしたら、カルト的傾向が強い証拠だと私は思う。

神をも恐れぬ「悔い改めショー」

■「悔い改め」

 キリスト教には「悔い改め」という行為がある。クリスチャンにとって重要な行為の一つだと思う。神に悔い改めるならどんな罪も許される、というのが教義だからだ。

「悔い改め」の厳密な定義はここではしないけれど、簡単に言うなら罪の「告白」と「償い」、そして「完全なる方向転換」というプロセスが必要になると思う。聖書にもそういう悔い改めをする人々が登場している。

 おそらく全てのクリスチャンが、入信時に「悔い改め」をしていると思う。そしてその後の信仰生活も、悔い改めの連続であろうと思う。人間は完全でなく、間違いを犯すものだからだ。だからいつも悔い改めを忘れないのが、一般的なクリスチャンのあるべき姿だと私は考えている。

■悔い改めの「実」

 しばしば勘違いされることだけれど、悔い改めとは単に「ごめんなさい」と謝ることではない。その後の「償い」と「方向転換」もセットとなっている。
「償い」というのは場合によっては困難だったり、行き過ぎて律法主義的になってしまったりということもあるけれど、「方向転換」という、「その罪から完全に離れた生活」をするというプロセスは、絶対必須だと思う。それは悔い改めの「実」とも呼ばれる。悔い改めは、この「実」が具体的に現れることで、はじめて全うされたと言えると思う。

■その始まりとプロセス

 もちろん一概には言えないけれど、悔い改めは多くの場合、「自分自身の罪深さを絶望的に認識する」という苦痛に満ちた発見から始まると思う。「自分はなんてことをしてしまったのだ」「自分のこの罪深い性質は本当にどうにもならない」という悔恨と絶望が、はじめて真の意味で、人の心を神に向ける。そしてまず神に対して悔い改め、その結果として許され、新しくされるのだ(その後、関係者に対する謝罪などが必要となるかもしれない)。

 だから悔い改めの一連の行為の大部分は、「神」対「自分」という、非常に内省的な時間に終始するのが一般的だと思う。そして内省的だからこそ、その後に対外的に現れる、悔い改めの「実」が重要となる。何故なら他者はその「実」を見てはじめて、その人が本当に悔い改めたかどうかを判断できるからだ。

 そういう意味で、悔い改めは言葉でなく、行為であると私は考えている。

■それが見せ物となる時

 ところで私の知っている牧師は、礼拝や祈り会の中で、大々的に「悔い改め」をやることが多かった。
 例えば、「今、先輩の牧師先生たちに対する霊的傲慢の罪が示された」などと言って、会衆の前で号泣し、跪いて激しく悔い改めの祈りをする。それを見ている会衆(特に私)は正直「なんのこっちゃ」なのだが、言われるまま、一緒に悔い改めをしたりする。
 当時はそういう姿を見て「真摯な牧師なのだ」と思ったものだが、今思うと、どこまで本当だったのだろうと疑問になる。何故なら、その例で言えば、霊的傲慢について告白しなければならない相手は私たち会衆でなく、その先輩牧師たちだからだ。そしてそれが礼拝の場で示されたにしても、まずは時間をかけて内省すべきだからだ。そういうプロセスもなくいきなり礼拝の場で、無関係の会衆を巻き込んでの「悔い改め号泣タイム」を始めるのはどうかと思う。

 もちろん、そういうケースが絶対にないとは思わない。旧約聖書には、リーダーが全国民に対して悔い改めを呼びかけ、自らも灰を被って悔い改めるという描写がある。そういう国レベル、集団レベルでの悔い改めも時には必要だろう。けれど、いつもいつもという訳ではないはずだ。まして自分一人の悔い改めの内省を、会衆に披露しながらすべきではないだろう。
 それはどうも私には、「悔い改めショー」にしか見えない。自分の誠実さと謙遜さを、周囲にアピールしたいだけではないだろうか。
 そしてその為に神への悔い改めを利用しているとしたら、それは神をも恐れぬ極めて不遜な行いだと言わざるを得ない。

2013年11月9日土曜日

行動のない「祈っています」は、真実か否か。

 クリスチャンどうしが交わす言葉に、「祈っています」というのがある。
 相手に神様の祝福があるようにとか、何か良いことがあるようにとか、抱えている問題が解決するようにとか、そういう意味合いで使うことが多いと思う。それは純粋な「祈り」の行為というよりは、相手に対する気遣いと言ったほうがいいかもしれない。もちろん本当に祈るとしても、それを相手に伝えるということは、やはりそこに気遣いがあるからだ。

 また、それは誰かの誕生日に渡す「寄せ書き」などによく見られる台詞だ。ぶっちゃけ、無難な言葉だ。少なくとも私は、特に書くことが思いつかないときは「祝福をお祈りしています」などとよく書いてきた。
 
 けれどそれは、「無難な言葉で片づけた」みたいな悪い意味合いでもないと思う。何故ならそれは前述の通り「気遣い」であり、クリスチャンの「社交辞令」みたいなものだからだ。それに相手の為に祈るということ自体、決して悪い結果をもたらすものではない。

 ところが昔、知り合いが、「祈ってるよなんて気軽に言わないでほしい」と言っていた。真剣に悩んでいる時にそんな言葉は無責任だ、という訳だ。その気持ち自体はよくわかる。私も困っている時に「祈ってるよ」と言われて、「どうせ他人事なんだろう」と腹立たしく思ったことがある。
 けれどその言葉の背景にある(一応の)「心配り」を思うなら、やはり感謝して受け取るべきだろうとは思う。

 それはそれとして、「祈っています」をすんなり受け止められる時と、受け止めがたい時とがある。前者は単なる社交辞令で済む場合、後者は済まない場合だ。たとえば誕生日の寄せ書きなら「祝福を祈っています」で済むけれど、詐欺に遭って全財産を失った人に対しては、それでは済まない。「祈っています」と言うだけでは無責任な気がする。昔のテレビドラマ「家なき子」の名台詞、「同情するなら金をくれ」と似たような気持ちを、相手に抱かせるのではないか。

 この「祈っています」に腹を立てるのは、相手がその言葉以外、自分に何もしてくれないからだろう。誕生日のお祝いなら「祈っています」で充分だけれど、飢え死にしそうな時には何の役にも立たない。相手のことを本当に思うなら、何らかの行動があってしかるべきなのだ。だから行動のない言葉だけで済まそうとすると、前述の知り合いのような気持ちにもなる。そういう意味で、「祈っています」はそれ相応の行動が伴うべき言葉だと思う。
 もっとも、これは信仰の話というより一般常識の話であろうが。

 また、「祈り」というのはクリスチャンにとって、その信仰の根幹にあるものだと思う。神様を信じるからこその行為であろう。だからこそ自分自身の為に祈ると同時に、他者の為にも祈るのだ。しかしこの「互いの為に祈る」という行為が、社交辞令としてなら受け取れるが、本当に困った時には受け取れないのだとしたら、それは信仰の在り方としてどうなのかと私は疑問に思う。

追記)
 要は祈るなら行動もしろという話だけれど、もちろん中には、何の行動もできない事柄というのはあると思う。

2013年11月7日木曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第8話

 溝田牧師のイスラエル旅行ビデオの一件から、二週間。
 この間、キマジメくんは意識的に牧師を避けていた。水曜の祈祷会も土曜の会堂掃除も日曜の礼拝も、牧師のそばに寄らず、一切口をきかずにいた。失礼なことだろうし、人に悪意を抱くのは悪いことだろうとは思うけれど、ビデオの件を思い出すと、どうしても避けずにいられない。怒りもあるし、もうあんな目に遭いたくもない。
 もちろん牧師と信徒という関係である以上、いつまでもそのままではいられない。けれど、一体どうしたらいいだろうか。そこまで考えたところで、いつも思考が停止してしまう。

 それでも一度だけ、溝田牧師に声をかけられたことがあった。会堂掃除の時だった。掃除機の音で、牧師の接近がわからなかったのだ。
「キマジメくん、ご苦労様だね」
 気づかない振りをして、立ち去った。その後も何か言ったようだったけれど、無視を決め込んだ。

 本当は面と向かって、牧師に抗議すべきだったかもしれない。ビデオ操作のミスでそこまで怒る必要があったのですか、と。しかし溝田牧師の反応を想像すると、大変なことになりそうだ。とてもできない。
 それとも、こういうことで怒る自分が間違っているのだろうか。もっと成熟すべきなのだろうか。
 よくわからない。

 それからまた一週間が過ぎ、日曜日。
 朝、電話が鳴った。溝田牧師からだった。
「キマジメくん、おはよう。朝早くに申し訳ないね」
 ハイ、と無愛想に答える。
「いつも奉仕ありがとうね。実はちょっと、礼拝前にキマジメくんと話したいんだけど、いいかな?」
 ハイ、とまた答える。時間だけ決めて、受話器を置いた。

 教会に入ると溝田牧師が待ち構えていた。何故か満面の笑顔だ。
「やあキマジメくん、ありがとね」
「何でしょうか」
 まあまあ、と勧められるまま応接室に入る。高級そうなソファで向かい合う。牧師は単刀直入に始めた。
「キマジメくん、最近ストレスがあるみたいだね。苦しそうに見えるよ」
「はあ…」
 意外な言葉だった。
「キマジメくん、何があったのかわからないけれど、この何週間か、君のことが気になっていたんだよ。すぐに声をかけようと思ったけれど、でもしばらく祈って待つことにした。すると今日、君と話すよう神様に導かれたんだよ」
「はい…」
「それで、神様からの言葉があるんだ。これはキマジメくんに対して、今主が語られていることだよ。マタイ5章24節。私が読むよ」
 キマジメくんは牧師の声に聞き入った。内容は、供え物を捧げる前に兄弟と和解しなさい、というようなことだった。彼は心拍数が上がるのを感じた。
「今日は礼拝だね」牧師は続ける。「礼拝は主への捧げ物だからね。キマジメくん、この御言葉が言うように、今日の礼拝の前に、君の和解すべき相手と和解することを勧めるよ。そうでないと君の礼拝が、主に喜ばれないものになってしまう。それで君が祝福されないとしたら、私は本当に悲しい。君が祝福されないくらいなら、私が代わってあげたい。私は呪われてもいい。それくらい君には祝福を受け取ってほしいんだ。わかるかい、キマジメくん」
 後半、牧師の目は涙ぐみ、声は震えた。キマジメくんも胸が熱くなるのを感じた。体が震え、鳥肌が立った。
「先生、実は…」キマジメくんは堪えられず、思いの丈を打ち明けた。牧師はウンウン言いながら聞いている。キマジメくんの肩に手を置き、子供にヨシヨシするようにさすっている。
「そうか、私の言い方に腹を立てたんだね」牧師は続ける。「でもね、キマジメくん、それは私の信頼の証なんだよ。君を信頼して任せているからこそなんだ。他の信徒にはこんなこと言わないけれど、君には特別な賜物がある。私はそれを開花させたいと願っているんだ。それは君のためでもあるんだよ」
 牧師は半泣きで、キマジメくんをハグする。キマジメくんも牧師の背中に手を回した。

 それから一時間後、キマジメくんは元気よく、礼拝の賛美を歌っていた。いつになく清々しい気分だった。神様の言葉を頂けて、しっかり悔い改めて礼拝できるようにしてもらえたからだ。そういう風に導いてくれた溝田牧師に対する感謝も、大きかった。

 自分の必要を知っていて、的確に導いて下さる神様、そしてその神様に忠実に仕えている牧師先生はなんて尊いのだろう。また新しい気持ちで、神様に仕えていこうと決心を新たにするキマジメくんだった。(続く)

・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。

ニセモノは本物みたいに見える。それは教会の見た目の麗しさに紛れている。

 私のありのままの教会体験を書いたり話したりすると、「そんなのひどすぎる」「とても教会とは思えない」というようなご意見を頂くことがある。
 確かに、私は教会・クリスチャン・信仰の陥りやすい危険性について(反省を込めて)ずっと書いてきているから、そういう意味で視点が偏っているというか、悪い点ばかりを挙げ連ねているというか、そういう風に見えると思う。

 しかしこうやっていろいろな問題点を指摘できるのは、それが間違いだと気づいたからに他ならない。気づく前は、間違っているだなんてまったく思っていなかった。奉仕が苦しかったり、リーダーに言われる一つ一つに傷ついたりというのは「神の民として通るべき苦しみ」みたいなものだったからだ。だからスポーツ選手が厳しい訓練に耐えるように、クリスチャンも様々な苦しみに遭って忍耐を学ぶべきだ、むしろ必要なことだ、と思っていた。

 また、良いと思われることも沢山あった。本当に神様がパワフルに働いていて、預言や奇跡が頻発し、困難な状況が打開され、人々が癒され回復しているように見えた(それらについては今までも個別に書いてきたが、まだ書く必要があるだろう)。信徒は皆献身的で優しかったし、楽しいイベントもあった。会堂も現代的で、最新の設備が整っていた。充実した教会生活を送っているように思えた。
 ある新来の方などは、「聖書を文字通り実行している教会ですね。今まで見たことがありません」と褒めちぎっていた。

 だから、表面から見る限り、悪く思う要素はなかった。むしろ良いこと、正しいこと、隠された真実なことに思えた。
 大勢の人間がそれに関わり、正しいと確信していたのも、そういう感覚を助長しただろう。終戦間際、多くの若い日本兵たちが命じられるまま自ら命を絶ち、それを聞く今日の私たちは「何故そんな」と思うけれど、彼らにはそれが正しいことに思えたのだ。それと同じようなことだろう。

 もちろん、私がずっと書いてきた問題点は間違いなく存在していたし、今も世界中で存在しているだろう。けれどそれは、そう簡単には見えない。多くの正しく思えることに紛れて、何となく違和感があるけれど、気にならない。そういうことなのだと思う。

 ニセモノは、そうとはわからないように偽装するからニセモノなのだ。

 また、私は教会に間違いがあることを問題とは思っていない。完全に正しいということはないし、人は間違うこともあるからだ。正しさを求め続けるべきだろうけれど、それに完全に到達しきれないのが人間の限界なのだとも思う。
 では何が問題かと言うと、教会が多くの偽装・偽善の陰で信徒を傷つけ、痛めつけ、結果的に神様から遠ざけることにある。
 私の教会の話を聞くと、「でも正しいことも沢山あったのでしょう。多少の間違いは仕方ないのでは」という感想を持つ人がいるけれど、実際に教会に行けなくなった人たちの前で同じことが言えるのか疑問だ。
 繰り返すけれど、教会に間違いがあるのは問題ではない。けれど間違いを隠すことには、大きな危険があると私は思っている。

2013年11月5日火曜日

被害が伝わらないという二次被害。カルト化教会の被害について。

独裁的・カルト的キリスト教会の過剰奉仕、虐待的指導といった隷属から抜け出せない構造について、今まで何度か書いてきた。それに対して、「辞めたければ辞めればいいのに」「何も気にすることはないでしょう」というようなお言葉を頂いた。

そういうコメントを頂けること自体は大変感謝なことで、私は励ましとして受け取らせて頂いている。
けれどやはり、その恐ろしさというか巧妙さというか、そういう実感は伝わりにくいのかな、とも思う。

そこで、この「辛いけれど辞められない」という状態を少しでも表現することができればと思いつつ書いてみたい。

■字面だけではわからないニュアンス

まず、そういう教会のリーダーの言うことは、字面だけ見ると何の問題もないものが多い。

「人格以上の働きはできない」
「精一杯働き、結果は主に委ねる」
「神の為に全てを捨てることは、全てを得ること」
「できないと言うと本当にできなくなる」
「従えない時にあえて従うのが本当の従順」

などなど、むしろ立派な、格言的なことを言っていると思う。真面目な信仰者であれば、「よし、がんばろう」となるだろうし、実際私はそうだった。確かに大変なことも沢山あるけれど、これが神様の御心なのだからそれ以上の祝福があるはずだ、と信じることができた(だからこそ継続できたと思う)。

けれどそれらの言葉には、「どれくらい」という程度が示されていない。前回も書いたけれど、「精一杯働く」というのは連日徹夜、自分の会社勤務も犠牲にしなければならない程の労働を指す場合がある。「従い得ない時に従う」というのは、どんな理不尽な命令にも完全服従することを意味している。

言っていることは正しい。しかし度を超えている、ということだと思う。

けれどこれは私自身も今だからわかることであって、当時は「度を超えている」という認識はなかった。あくまでリーダーの為でなく、神のために働いているつもりだったし、神の為ならどこまでもやらねばならないと思っていたからだ。

そしてそれを拒否することは不信仰を意味し、不信仰とされることは、(私にとって)クリスチャン失格を意味していた。だから、辞められない。

仮にそういう状況を、リーダーに不満として訴えるとする。リーダーはこう言うだろう。「私の言っていることが間違っているのか。ではどこが間違っているのか言ってみなさい」
しかし前述のように、発言自体は間違いではないのだ。

これは、そういうことに理解のない第三者に相談してしまう時にも起こる。危機的状況がまったく伝わらず、「いったい何が問題なのか」と不思議がられる。下手すると、単にワガママな信徒が、まっとうなリーダーに楯突いている、それではリーダーが可哀想だ、ということになってしまう。

これは、権威主義的なリーダーが対外的には好印象を与えているということも作用している。「あの立派な牧師がそんな問題を起こすはずがない」ということで、逆に信徒の方がおかしいと疑われてしまう。

結果、被害状況がまったく伝わらない。信徒からすると、二重三重の痛手を負うことにもなる。

■あくまで神のせいにする巧妙さ

以前も書いたけれど、そういうリーダーは、明確な強要はほとんどしない。それよりは、「神が願っていることだから」という強調の仕方で、信徒が従わざるを得ない状況に持っていく。いわゆる事実上の強要なのだ。
だからそれを強要とは証明できない。なぜなら信徒が自ら従ったのは事実だからだ。

リーダーは仮に不利な状況になったとしても、「信徒が自ら神に従ってやったことだ」という言い訳でスルーできてしまうだろう(しかしそれは、虐待の責任を神に押し付けているだけだ。そんなことが見過ごされていいはずはないし、神ご自身は決してそれを見過ごさないと私は信じている)。

■伝わらなくても

体験していないことを、人はなかなか理解できないものだ。それは仕方のないことだと思う。けれど、じゃあ理解する為に同じ体験をしなければならないかというと、そういう話でもない。

けれど、聖書に書かれている沢山の失敗例が私たちにとって戒めであり、反面教師であり、初めから避けるべきとわかっている事柄であるのは間違いない。そういう先人たちの犠牲から学び、より賢く生きようとするのもまた、人間に与えられている素晴らしい能力の一つだと思う。
私は私の失敗談から、少しでも多くの人が少しでも賢く生きられるようになればと願うばかりである。

2013年11月4日月曜日

神の為のハードワークか、そうでないハードワークか

「神の為に精一杯働き、また精一杯祈る。働くときは祈りを信じず、祈るときは働きを信じない」

 というのは私が教会でよく言われていたことだ。一見矛盾しているようだが、要は「精一杯働き、結果は祈るのみ」というようなことだったと私は認識している。それはそれで間違っていないと思う。けれどこの「精一杯働く」の程度が、問題となることがある。

 私は、一般の会社で勤務しながら教会スタッフとしても働く、という時期が長かった。だから仕事帰りに教会に行ったり、週末は全部教会で過ごしたりというのが常態化していた。自分の純粋な休日というのはほとんどなかったのだけれど、それはそれで納得していた。
 それは第一に、神様の為にできることがあるなら全力でしたい、と願っていたからだと思う。
 そして第二に、牧師からそう言われていたからだった(直接的な強要ではなかったが)。

 牧師は「自分は誰よりも神様の為にハードワーカーでありたい」と普段から言っていて、それは暗に「だからスタッフもハードワーカーで当然だ」という誘導を含んでいたように思う。だから牧師に近いスタッフほど、牧師のスケジュールに合わせなければならない分、その奉仕(労働)時間は長かった。徹夜になることも多かったし、徹夜したから終わりという訳でもなかった。いつも仕事が終わらなくて、いつもやり残しを抱えていたような状態だった。

 それで自分の会社勤務もあるのだが、これに支障が出ないはずがない。会社を急に休まなければならないことも多々あったし、勤務中に教会のことで対応しなければならないこともあった。恥ずかしい話だけれど、朝起きられなくて遅刻ギリギリ、というのは日常茶飯事だった(後から知ったことだけれど、他のスタッフにも朝寝坊がいつも悩みの種だったという人がいた)。私自身はかなり派手に遅刻してしまったこともある。

 そういう、クリスチャンとして証にならない勤務態度を反省する日々だったけれど、かといって改善できる訳でもなかった。理由は「ハードワーカーでなければならない」からだ。
 そこまで働かなければならない理由は、牧師に言わせれば「今しているこれらの奉仕はすべて神様が願っていることだから、辞める訳にはいかない。遅れる訳にもいかない」というようなことだ(この原理については「独裁的教会運営の構造」という記事に書いている)。

 それでも奉仕が終わらない、遅れる、という状況があって、私は何度か牧師に泣きついたことがある。その度、牧師は優しい顔で「いつもありがとう」と言うのだが、それに続いて言うのが、「しかし御霊に満たされることで限界を越えられる。特別な力が与えられる。だからもっと祈るべきだ」というようなことだった。
 それで自分の不信仰や「霊性の低さ」を不甲斐なく思い、祈るのだけれど、仕事は待ってはくれない。やはり働くことになる。

 そういう訳で、「ハードワーク→証にならない会社勤務→とりあえず祈る→ハードワーク」という無限ループの中にいた。それは今客観的に見ると、出口のない迷路みたいなものだったかもしれない。

 もちろん、キリスト教界には純粋に神様の為に働いていて忙しい人はいるだろうし、その忙しさを否定する気はない。しかしその忙しさの結果、その人がどうなるかは注意が必要だと思う。成長するのかしないのか。より良い変化があるのかないのか。一般社会に対して証になるのかならないのか。健康かどうか。その答えがすべて「否」であるなら、その忙しさはいったんストップしてでも見直す必要があると私は思う。

追記)
 教会が解散し、今は遅刻の心配もなく働いている。軽い運動もしているので、以前よりだいぶ健康的になった気がする。神の為というより、自分の為に生きているのかもしれないけれど。

2013年11月3日日曜日

「真の福音と偽りの福音」紹介

 以前ここで紹介したインドの Christian Fellowship Church の、別の記事を紹介したい。題名は「真の福音と偽りの福音」。

「真の福音と偽りの福音」の記事はこちら

 クリスチャンの表面的な分類は教団教派などだが、より聖書的な分類は神の為に生きるか、自分の為に生きるか。前者は人が見る分類で、後者は神が見る分類。
 自分中心に生きる者の福音は「人中心の福音」、神中心に生きる者の福音は「神中心の福音」。前者は偽りの福音、後者は真の福音。
 自分の信じる福音がどちらかは、他者にはわからない。自分だけが、その真相を知っている。
 ・・・というのが概要だ。

 特に心に留まったのはこれだ。「多くある聖書解釈の中で自分の解釈が正しく、他者の解釈は間違っているという確信そのものが自分中心であり、神を中心としていない

 じゃあどう解釈したらいいんだろう、というのが最初の疑問だった。教会解散以来、どの聖書解釈が正しいのかと、私は問い続けてきたからだ(今に至るまで答えを得ていないけれど)。しかしこの記事を読んで気づかされたのは、「聖書をどう解釈するか」と「神の為に生きているかどうか」は全然関係ないということだ。そして神様が気になさっているのは、その後者の方ではないだろうか。
 たとえ絶対的に正しい聖書解釈をしていたとしても、それがそのまま、神の為に生きることにはならない。またたとえ解釈上の間違いがあったとしても、神の為に生きられないことにはならない。

 そう思うと、「聖書の〇〇は、△△の根拠により、××だと解釈するのが正しい。だから(他の個人や団体)は間違っている」と相手を論破するのは、一見信仰的・敬虔に見えるけれど、単なる自己満足に過ぎないのではないか。その解釈をもって、神の為にどう生きるかの方が本当は問われているのではないかと思う。
 もちろん、私自身はそんなことを偉そうに言える立場にはない。

 神の為に生きるクリスチャンはほとんどいない、とこの記事は言っている。それはおそらく的を射ていると思う。クリスチャンであってもただの人間だし、(許された)罪人であることに変わりないからだ。しかしそういう私たち人間が、自分中心な生き方でない生き方を選択できるようになる為にイエス・キリストが来られたと信じているにも関わらず、それでも自分の為に生き続けるとしたら、それは神の御心が全然わかっていないとしか言えないだろうと思う。

追記)
 この「人中心の福音」の説明を読むと、まさに「繁栄の神学」のことを言っているとわかる。神を召使のように使い、繁栄以外あり得ないと根拠もなく信じる、いやらしい拝金主義としか私には思えない。

2013年11月2日土曜日

カルト化教会を抜け出す方法

 自分がカルト化教会にいると仮定し、そこから抜け出す方法について考えてみた。

 ただし、自分の教会がカルト化していると認識できるのは、その教会にある程度献身しており、専任の奉仕があり、責任ある立場にあって、かつ教会のカルト化という問題に理解があるからだと思う。そこまでコミットしていない人なら見えないことは沢山あるから、「抜け出す」ほど深刻な事態にはならないし、そもそもそんなこと考えないかもしれない。
だからこの仮定は、献身者とかスタッフとか働き人とかと呼ばれる、教会に多くの時間を捧げている人たちに向けたものだと思う。

■円満な方法:遠方に引っ越す

 単に逃げるだけじゃないかと思われるかもしれないけれど、円満に教会を離れるにはこれが最も良い方法だと私は思う。
 仕事の都合、学校の都合、親の都合、実家の都合など、様々な都合が引っ越すキッカケとなるだろう。そのタイミングで教会を離れれば、誰にも咎められない。歓送会など開いてもらって気持ちよく出られるし、他の信徒との交流も続けられる。
 ただこの問題点は、引っ越すタイミングを自分で決めにくいということだ。もちろん転勤になったとか嘘をつけばいいのだが、嘘をつけない人には難しい。
 もう一つの問題点は、教会自体は何も変わらないということだ。独裁的だったりカルト的だったりという体質自体はその後も続く。もっとも、自分が出た後どうなろうと関係ないと割り切れるなら、それでいいかもしれない。

■絶対やってはいけない方法:リーダーとケンカする

 この「ケンカ」とは、「準備のないケンカ」であり、突発的、衝動的なものだ(ケンカに準備も何もないかもしれないけれど)。
 成り行き上、リーダーと衝突することはあると思う。意見の相違はあって当然だし、一緒に何かをすればぶつかって当たり前だからだ。けれど変に従順な信徒は、そこで簡単に折れるから問題にはならない(それが聖書的従順だと信じている)。
 けれど信念やポリシーや、のっぴきならない事情がある信徒は折れない。あくまで主張を曲げない(曲げられない)。その相手である独裁的・カルト的リーダーも自分の主張を曲げないだろうから、平行線のままケンカだけがエスカレートしていくことになる。
 その結果どうなるかと言うと、信徒の方が追放処分となる。理由は不従順とか不信仰とか罪とか、そういう不名誉なことに一方的にされてしまう

 これは信徒にとって損なだけだ。教会を抜け出せたという点では良いのだが、以降出入り禁止にされるし、他の信徒との連絡も禁じられる。何より不信仰のレッテルを貼られるし、方々の教会にそれを言い広められることもある。下手すると、キリスト教界からの追放にもなり得る(そういうケースは実際にある)。

■辞めますと言って辞められないのか

 ここまで読んでいただいて、「辞めたい時に辞められるはずでしょ」と疑問に思われたかもしれない。もちろんそうやって辞められる教会もあると思う。けれど、そうできない教会はある。

 ポイントは「その教会にとって(というよりリーダーにとって)有用な人間かどうか」にある。何かずば抜けた能力があるとか、特徴があるとかで「必要性な存在」となっている信徒は、リーダーが手離さない。もしその信徒が「疲れたから辞めます」とか言うと、「途中で投げ出すのは不信仰だ」とか「今は辛抱してそれを続けることが主の御心だ」とか「御心に背いたら祝福がない」とか言われる。それでもあくまで辞めると主張すると、前述のような追放処分となる。ひどい痛手を負うことになるだろう。

 逆に(リーダーにとって)有用でない人間は、それほど引きとめられない。けれど有用でないなら、そもそも重要な立場にはなっていないだろうと思う。

■私が思う正攻法:覚悟と準備をもって不正を暴く

 これは衝動的なケンカの反対である。入念に慎重に準備する期間と、最後までやり切る覚悟が必要だ。
 しかしこれは感情に任せてリーダーと対立することではない。批判したり裁いたりすることでもない。どちらかというと淡々と、リーダーの(あるいは教会運営上の)明らかに法に触れる行為や、そうでなくてもクリスチャンの倫理に反する行為の「証拠」を集めていく作業だ。録画や録音、ミーティングの記録や会計記録、誰かの証言などが有用だと思う。そしてその証拠をもって、批判とかでなくあくまで事務的に、その不正の責任を負わせることだ(書くのは簡単だけれど、これを実行するのは大変な労力だと思う)。
 
 しかしそういう証拠を突きつけて、リーダーと直接対決するのは得策ではない。そういうリーダーは保身のためなら何でもするし、何とでも言うからだ。感情的にやり合うのも、大きな負担になる。
 それより、まずはそういう証拠をもって第三者に相談するのがいいと思う。法に触れているなら警察に相談できるし、そうでなくても弁護士に相談することで、自分では思いつかない方策を教えてもらえたりする。あるいはカルト問題に詳しい牧師やクリスチャンに相談してもいいかもしれない。いずれにせよ、味方を作ることは重要だ。

 その結果、やはりリーダーと対立することにはなるだろう。けれど、証拠固めと第三者のサポートがある以上、一方的な追放とか不信仰呼ばわりとかは避けられると思う。その結果どうなるかは何とも言えないけれど。

 もっとも、これは教会を「抜け出す」方法というより、教会を改革する方法だろう。大変な労力がいる。時間もかかる。そこまでの犠牲は、普通なら払えないと思う。
 そういう場合は、やはり「引っ越す=教会と物理的な距離をとる」が一番いいのかもしれない。逃げるのは卑怯だと思われるかもしれないが、そもそもそこまでして教会に付き合う義務はないだろう。
 
■根本的な問題

 ここまで教会を抜け出す方法、改革する方法について簡単に書いてきたけれど、一番最初に必要なのは、抜け出さなければならないという必要性に気づくことだと思う。自分の仕えている教会がカルト的で、偽りの御心によって搾取され、訓練と称する虐待に遭っているのだと認識できなければ、何も始まらないからだ。

 しかし私の経験によると、そこまで深く献身し仕えている信徒は、自分の教会やリーダーの問題点には気づきにくい。どこかで疑問や違和感を感じているとしても、それを取り上げることは不信仰なことに思えるだろう。「敬虔な」信徒ほど、そんなことできないのではないかと思う。

2013年11月1日金曜日

「見せかけのリバイバル」紹介

 インドの Christian Fellowship Church というところが、「見せかけのリバイバル」(日本語訳)という記事を出している。多くのクリスチャンがニセモノに惑わされている、という内容だ。著者はザック・プーネンという、元海軍士官の聖書教師という肩書きの方。どういう教会か、どういう人かという背景はよくわからないけれど、この記事に関していえば非常に的確だと私は思う。ぜひ紹介したいと思ったので、以下に記事へのリンクを用意させていただいた。

「見せかけのリバイバル」全文(日本語版PDF)はこちら

 2ページ目の後半部分に特に共感した。
「大きな罪を犯した説教者たちが、旧約聖書のダビデ王などの失敗を挙げて自身を正当化する」という。まさにこういう事態を見てきたので、リアリティを持って読んだ。そういう説教者は自身を正当化するためなら何でもする。聖書を都合よく引用し、人を悪霊呼ばわりし、嘘をつき、それでもどうにもならないとわかると、身を隠す。

 彼らは意識的にか無意識的にか、旧約聖書の人々の失敗が私たちにとって戒めであることを語らない。
 旧約のいろいろな罪の事例は「そうであってはならない」という反面教師であり、失敗例であり、かつ「旧約」という制限の中の話であって、現在とは全く「土俵が違う」ということを忘れている。私たちは旧約の彼らと同じようには扱われないだろう。それどころか、旧約時代より恵みが多いという意味で、現代の私たちの方が責任は重いはずではないか。ダビデが許されたから、私たちも同じ罪で同じように許される、という話にはならない(もちろん十字架は全ての罪を許すのだけれど)。

 1ページ目の最後の項目は、そういう手前勝手な説教者の心理を的確に表していると思う。
「説教者にとって地域教会に仕えるより、自分の王国を築くことの方が重要となっている」

 そういう「教会作り」に巻き込まれるのでなく、この著者が言うように私たちは聖書を読み、そこから学び、正しい判断ができるようになるべきだと思う。