何に心を動かされるべきか。神か金か感動談か。

2013年11月17日日曜日

キリスト教信仰

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■ある家族
 他教会のクリスチャンがやってきて、身内の窮状を涙ながらに語った。どういう経緯でやってきたのか知らないが、牧師は訳知り顔でウンウン頷いている。会衆はそれを聞いて大いに同情した。私も例外ではなかった。

 牧師が「祈りましょう」と呼びかけ、それはそうだと会衆全員で祈る。祈りの後、「必ず神様が働かれますよ」「きっと素晴らしい御業があらわされます」などと皆で励まし、その場は終わった。

 翌週から、そのクリスチャンは家族を連れて教会にやってきた。あれよあれよという間に、新しい「神の家族」の誕生である。いろいろと辛い目に遭ってきたその家族は、温かく迎え入れられ、少なからず慰めを得たようだった。牧師は「教会が全力でサポートしますよ」と断言した。

 繰り返すが、そうなった経緯については何も知らない。けれど牧師いわく、「その家族を受け入れるよう神によって心を動かされた」らしい。確かにその牧師は礼拝の中で、その家族一人一人を抱きしめて涙ながらに祈っていた。

■ある婦人
 それとは時期が違うけれど、ある信徒が、知り合いの婦人を教会に連れてきた。その婦人も他教会の熱心なクリスチャンで、長いこと大病を患っていた。いろいろな「いやしの集会」に足しげく通ったが、病状は悪化する一方だった。その信徒は「ここなら必ず癒される」という信仰をもって連れてきたらしい。けれど牧師はというと、祈りこそすれ、特別ケアする様子もなかった。細かい話はいろいろあるけれど、とにかく先の家族とは大きく扱いが異なった。直接聞いていないけれど、おそらく「神によって心を動かされなかった」のかもしれない。

■異なる扱い方
 上記の家族と婦人とは、どちらも同情に値したし、何らかのサポートを必要とする点でも同じだった。ただ一つ、私が気づいた違いは、前述の家族の方がたいへん裕福だったということだ。

 その牧師の「人の扱い方の違い」は、他のケースでも見られた。同じような問題を起こしたAさんは許すが、Bさんは許さない。同じような境遇にあるCさんの必要は満たすが、Dさんのそれは撥ね付ける。礼拝で感動的な証をしたEさんの為には全力で祈るが、実は同じ種類の問題で悩んでいるFさんのことは知らんぷり。

 その異なる扱いの全てが、「神によって心を動かされたか否か」で決まるとしたら、その神様というのはえらく不公平な方ではないだろうか。
 もちろん、聖書には「あなたの信仰があなたを癒した」とか「あなたの信仰の通りになる」とかいう表現があるから、信じる側の態度が求められるというのは間違っていないと思う。けれどそれは「信仰の在り方」が問われているのであって、牧師にうまく取り入る器量があるとか、感動的な証ができるとか、お金があっていろいろ接待できるとか、そういう牧師の目に留まる何かではないような気がする。

■牧師の立場を想像してみると
 もちろん人間には相性というものがあって、自然とうまくやれる相手もいれば、努力してもうまくいかない相手もいる。この世で一番難しいのはどんな学問よりも人間関係ではないかと私は常々思うのだけれど、牧師もそれを実感として知っているのではないかと思う。
 だから同種の悩みを持つAさんとBさんに、牧師が同じように接せられるかというと、それは無理があるかもしれない。そしてそのわずかな違いを責めるのは理不尽というものだろう。
 ただ、残念ながら、だからといって不公平が許される立場にないのが牧師という存在ではないだろうか。

■神に心を動かされるとは
 今現在、私自身はこれに対して答えを持っていない。もちろん神に心を動かされたと信じていろいろ活動してきたけれど、それがどこまで真実だったのか、今となってはよくわからない。
 けれど、少なくとも上記のような心の動かされ方に疑問があるのは間違いないだろうと思う。

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