エスカレートしなければ認識されない破壊的カルトと、その陰で被害に遭う人々の悲劇

2013年11月16日土曜日

カルト問題

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 ある宗教団体にカルト疑惑がかけられた。団体職員に対するマインド・コントロール等を外部から訴えられ、裁判にもなった。けれど結果、訴えは退けられた。理由は「訴えを裏付ける証拠がない」からだった。

 その真偽はわからないけれど、一つ気になったのは、「じゃあどういう証拠があったら裏付けとなるのか」という点だった。仮にそこが破壊的カルト団体だとして、多くの信者がいいように使われて反社会的活動を繰り返しているのだとしたら、いったいどういう証拠でその犯罪性を立証したらいいのだろうか。

 私がよく書いている「牧師による独裁的教会運営」にしても、その構造や仕組みは説明できるかもしれないが、確かな証拠をもって立証するというのは難しい気がする。例えば長時間奉仕(労働)にしても、客観的には信徒が自らの意志でそうしているように見えるし、ある意味そうだからだ(そこには教義や教典を巧みに用いた「見えない強要」がある)。

「破壊的カルト」とか「マインド・コントロール」とかを日本に広く知らしめたのは、おそらく95年に「地下鉄サリン事件」を引き起こしたオウム真理教だと思う。その破壊的カルト性はご存知の通り、すでに立証されている。けれどそれは裏を返すと、あそこまで反社会的、暴力的、破壊的かつ大規模な団体でなければ世間の注目を浴びにくい、という現実を示している。

 しかもオウム真理教の場合は沢山の証拠が挙げられている。例えばサリンやそれを散布する為のヘリコプター、拉致監禁された大勢の被害者、その時使用されたLSD、教祖と弟子の問答テープ、信者たちの証言等、挙げたらキリがない。

 それだけ証拠があれば、立証するのは容易かもしれない。けれどそこまで大規模でなく、刑法的な犯罪性もなく、ある意味「やり過ぎでない」団体の場合はどうだろうか。例えば表面的には社会貢献をうたい、実際そのような活動もしている小中規模のキリスト教会はどうだろうか。たとえそこが非常に独裁的で、信徒が騙されていると気づかないまま「信仰的虐待」を受けているとしても、外部の人間がそれを問題視することはないだろう。むしろその教会の活動だけを見て、良しとするかもしれない。

 そういう教会は、もしカルト疑惑をかけられたとしても、うまくすり抜けてしまうと思う。明らかな犯罪行為があれば別だけれど、そこまで「やり過ぎでない」なら、そもそも何の証拠も存在しないだろうからだ。信徒が「牧師に奉仕を強要された」と言っても、「信徒が自らしたことだ」と簡単に反論されてしまう。オウム真理教みたいに教祖と弟子の問答テープが残っていれば、その会話からマインド・コントロールのパターンを見出すかもしれないし、見えない強要が見えてくるかもしれないけれど。

「でも、オウムみたいな犯罪集団でないならそれほど害もないでしょう」という意見があるかもしれない。それはそうかもしれない。けれど、独裁的教会にいた人間としては、そう簡単に割り切れるものではない。肉体的にも精神的にも、ダメージは「ない」のでなく確かに「ある」のだ。教会を離れた人は大勢いるし、「神なんていない」とまで言い切るほど傷つけられた人もいる。オウム真理教が信者に対して行った諸々が犯罪なら、独裁的教会のそれも同じだと私は思う(痛みを「程度」で割り切れるのは、痛んだことのない人間ではないだろうか)。

 オウム真理教も最初は小さな団体だったという。けれど徐々に拡大し、発展する中で、その破壊性をエスカレートさせていった。そして取り返しのつかない事態となってはじめて、その危険性を認識された。もっと早く芽を摘んでいれば、というのは結果論でしかない。それは仕方のないことかもしれない。けれど大勢が被害に遭わなければ解決されないとしたら、それは悲劇としか言いようがないと私は思う。

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