神をも恐れぬ「悔い改めショー」

2013年11月10日日曜日

キリスト教信仰

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■「悔い改め」

 キリスト教には「悔い改め」という行為がある。クリスチャンにとって重要な行為の一つだと思う。神に悔い改めるならどんな罪も許される、というのが教義だからだ。

「悔い改め」の厳密な定義はここではしないけれど、簡単に言うなら罪の「告白」と「償い」、そして「完全なる方向転換」というプロセスが必要になると思う。聖書にもそういう悔い改めをする人々が登場している。

 おそらく全てのクリスチャンが、入信時に「悔い改め」をしていると思う。そしてその後の信仰生活も、悔い改めの連続であろうと思う。人間は完全でなく、間違いを犯すものだからだ。だからいつも悔い改めを忘れないのが、一般的なクリスチャンのあるべき姿だと私は考えている。

■悔い改めの「実」

 しばしば勘違いされることだけれど、悔い改めとは単に「ごめんなさい」と謝ることではない。その後の「償い」と「方向転換」もセットとなっている。
「償い」というのは場合によっては困難だったり、行き過ぎて律法主義的になってしまったりということもあるけれど、「方向転換」という、「その罪から完全に離れた生活」をするというプロセスは、絶対必須だと思う。それは悔い改めの「実」とも呼ばれる。悔い改めは、この「実」が具体的に現れることで、はじめて全うされたと言えると思う。

■その始まりとプロセス

 もちろん一概には言えないけれど、悔い改めは多くの場合、「自分自身の罪深さを絶望的に認識する」という苦痛に満ちた発見から始まると思う。「自分はなんてことをしてしまったのだ」「自分のこの罪深い性質は本当にどうにもならない」という悔恨と絶望が、はじめて真の意味で、人の心を神に向ける。そしてまず神に対して悔い改め、その結果として許され、新しくされるのだ(その後、関係者に対する謝罪などが必要となるかもしれない)。

 だから悔い改めの一連の行為の大部分は、「神」対「自分」という、非常に内省的な時間に終始するのが一般的だと思う。そして内省的だからこそ、その後に対外的に現れる、悔い改めの「実」が重要となる。何故なら他者はその「実」を見てはじめて、その人が本当に悔い改めたかどうかを判断できるからだ。

 そういう意味で、悔い改めは言葉でなく、行為であると私は考えている。

■それが見せ物となる時

 ところで私の知っている牧師は、礼拝や祈り会の中で、大々的に「悔い改め」をやることが多かった。
 例えば、「今、先輩の牧師先生たちに対する霊的傲慢の罪が示された」などと言って、会衆の前で号泣し、跪いて激しく悔い改めの祈りをする。それを見ている会衆(特に私)は正直「なんのこっちゃ」なのだが、言われるまま、一緒に悔い改めをしたりする。
 当時はそういう姿を見て「真摯な牧師なのだ」と思ったものだが、今思うと、どこまで本当だったのだろうと疑問になる。何故なら、その例で言えば、霊的傲慢について告白しなければならない相手は私たち会衆でなく、その先輩牧師たちだからだ。そしてそれが礼拝の場で示されたにしても、まずは時間をかけて内省すべきだからだ。そういうプロセスもなくいきなり礼拝の場で、無関係の会衆を巻き込んでの「悔い改め号泣タイム」を始めるのはどうかと思う。

 もちろん、そういうケースが絶対にないとは思わない。旧約聖書には、リーダーが全国民に対して悔い改めを呼びかけ、自らも灰を被って悔い改めるという描写がある。そういう国レベル、集団レベルでの悔い改めも時には必要だろう。けれど、いつもいつもという訳ではないはずだ。まして自分一人の悔い改めの内省を、会衆に披露しながらすべきではないだろう。
 それはどうも私には、「悔い改めショー」にしか見えない。自分の誠実さと謙遜さを、周囲にアピールしたいだけではないだろうか。
 そしてその為に神への悔い改めを利用しているとしたら、それは神をも恐れぬ極めて不遜な行いだと言わざるを得ない。

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