「未信者の世界」と「信者の世界」の区別

2013年11月14日木曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
「未信者の友人を祈って(教会に)誘います

 と、いうような台詞を教会でよく聞いたことがある(この友人のところは家族とか同僚とかに置き換えてもらって結構だし、誘いますのところは伝道します等に置き換えていただいてかまわない)。かくいう私もよく言っていた。
 未信者をいきなり誘うのはいろいろ抵抗があるから、まずは祈ろう、みたいな感覚だと思う。祈ることで、実際にその人と会う時に神様が働かれますように、みたいな願いもあると思う。

 私個人のこととして書くけれど、こういう場合、未信者の友人と自分との間に、何か大きな壁みたいなものが存在しているように感じた。いざその友人に話に行くとなると、なぜか「臨戦態勢」みたいになるのだ。普段は自然に話している友人なのだからそんなに気張る必要は全然ないのだけれど。
 しかし、これはよくよく考えると当たり前なことではないか。たとえば恋人にプロポーズするとなったら、普通なら緊張して気張るだろう。ケンカ中の友人と和解しようとしたら、最初は抵抗を感じて素直になれないことがある。だからクリスチャンが未信者に聖書の話をしようと思ったら、同様の感覚を持ってもおかしくないだろう(「百戦錬磨の伝道者」ならそんなことないかもしれないが)。むしろ普通のことと言える。

 けれど、私が感じた問題はここからだった。そうやって「未信者の友人の為に祈って伝道しよう」(下線部は適宜代入可)みたいなことを繰り返しつつ年月を過ごすうち、どうも、「未信者の世界」と「こちらの世界」みたいな区別を感じるようになったのだ(それには教会で過ごした年月の長さと濃さが大いに関係していると思う)。

 それを最初に感じたのは職場でだった。当然のことだけれど、職場の同僚たちと、教会の信徒どうしでするような会話はできない。「礼拝のあの賛美のこの歌詞、感動しすぎて泣いちゃいましたよ」みたいなことは常識的にも儀礼的にも言えない(少なくとも私は言えないのだが、中には例外的に、平気で言える人がいるかもしれない)。
 もちろんクリスチャンでなかった頃は、友人たちとは普通に話していた。それがクリスチャンになり、何年か経つうち、そういうギャップが生まれ、ある時はっきり自覚するに至ったのだと思う。

「そりゃ当然だ。教会と一般社会では態度を使い分けるのが常識だ」と言われるかもしれないし、私自身そうだと思うのだけれど、どうも私にはそれが難しかった。「クリスチャンとしての自分」と「そうでない自分」を使い分けるのに、何とも言えない違和感があった。

 社会心理学的には、人間は「社会・友人・家族」という3つの社会環境を持っており、それぞれで顔を使い分けている、と言われる。それは基本的に間違いないと思う。職場での気遣いを家庭に持ち込む必要はないし、逆に家庭でのリラックスを職場に持ち込むのはまずい。しかし「職場の自分」も「友人間の自分」も「家庭での自分」も基本的に同じ自分であって、それほど大きく変化しているものでもないと思う。
 その点、「クリスチャンとしての自分」と「そうでない自分」というのは、それ以上のギャップがあるような気がする。それは(こう書くと語弊があるかもしれないけれど)、もはや「本性を隠している」くらいのレベルのギャップではないだろうか。

 私が感じた「未信者の世界」と「こちらの世界」の区別は、そこに原因があるように思えてならない。生きている世界が違うというか、土俵が違うというか、そういう風にも感じる。
 私が「祈って未信者に伝道する」時に感じた「臨戦態勢」の感覚も、もしかしたら出所は同じだったかもしれない。

 聖霊派の教会は(全部かどうか定かでないが)よく一般社会を「この世」と呼ぶけれど、あれは明らかに「住む世界が違う」というニュアンスを含んでいると思う。

 それが悪いことなのかどうかはよくわからない。クリスチャンとノンクリスチャンでは価値観がかなり違うはずだから、当然と言えば当然の成り行きかもしれない。しかしそういう価値観のズレが、それまで付き合っていた友人たちとの断絶を起こすのだとしたら、それはちょっと考えなければならない事態ではあると思う。

追記)
 何だか結論のないまま終わってしまったけれど、この件は継続的に考えるということで。

QooQ