教会との距離感の取り方(続き)

2013年11月11日月曜日

キリスト教信仰

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「教会は最大の神の武器だ」とある牧師が言っていて、「だから教会は敵を打ち破って勝利する」というような話を展開していた。

というわけで「この世の常識」を打ち破り、サタンを打ち破り、神の王国(自分の教会)を拡大し、この世の哀れで盲目な未信者たちを救うことが、その牧師の目的だったようだ。

この「教会=武器」の聖書的根拠は、マタイの福音書16章18節の、ペテロに対するイエス・キリストの言葉にあると思う。「あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」(JA1955)

この「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない」を言い換えると、「教会は打ち勝つ」となる。

この解釈そのものの是非は置いておくとして、この解釈(とその牧師のやり方)をその通りに実行するとなると、教会は敗北できなくなる。だから事業で失敗できないし、大規模な集会で粗相があってはならない。いつも何もやっても、ある程度の成功がなければならないということになる。
実はこの時点ですでに「何が敗北か」「敵は誰か」という点が曖昧になっているのだけれど、当事者たちはなかなか気づけない。というのは、(ここでも何度も書いてきたように)彼ら信徒やスタッフは文字通り「身を粉にして」働いていて、ゆっくり考える暇がないからだと思う。
また、例えば何かの仕事で失敗すると、「敵であるサタンが妨害しているからだ。もっと祈って働いて打ち破らなければダメだ」と言われる。つまりどんな種類の不都合もサタンのせいになるので、あらゆる仕事が「聖戦」に仕立て上げられる。信徒は否が応でもそれに取り組まなければならなくなる。そして、敗北があってはならない。

ちなみにここで言う「敗北」とは、「(牧師の)思い通りにならないこと」を指す。

この構造のそもそもの問題は、「主に仕える=教会に仕える」となってしまっている点にあると思う。
クリスチャンであれば、「主に仕える」ことに基本的に抵抗を覚えることはないだろう。しかしそこで「主に仕えることは教会に仕えることだ」と教えられてしまうと、もはや教会に仕える以外になくなってしまう。そして信仰熱心であればあるほど、教会に全てを注いでしまうことになる。自分の仕事、生活、お金、そして家族も。

しかし聖書を読むと、実に多彩な神の御心があることがわかる。前回も書いたように、家族を大切にし、時間を共有することも御心だし、自分の仕事を持って生活を確立することも御心だ。適度に休むことも、人生を楽しむことも御心だと私は信じている。

そのどれもが、主に仕えることだ。そしてその中の一つに、教会に仕えるというのもあるのだと思う。しかしそれが逆転してしまい、教会だけが御心だと主張するのは、逆に神の御心に反しているのではないだろうか。

そういう視点を持って教会との距離感を考えてみることは、全てのクリスチャンにとって大切なことではないかと私は思う(もちろん教会に一生懸命仕えることだって良いことだ)。

もっとも、これは健全な教会に集っておられるクリスチャンの方々には、至って当たり前な話だと思う。そしてそれが当たり前だと自然に思えることは、大変幸いなことだと私は言いたい。

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