「裁き」と「許し」の関係。「正しすぎる」ことについて思うこと。

2013年11月30日土曜日

生き方について思うこと

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 猪瀬知事の五千万の「借入」が問題となり、連日のように報道されている。私はさほど関心を持って見ている訳ではないけれど、この手の報道に「またか」という感想は持っている。

 ただ、この「またか」は著名人の不祥事に対するものというより、そういう不祥事に対する報道側(あるいは世論?)の、容赦ない徹底追及に対してである。記者会見の場で時折見られる、報道側の多勢に無勢の総攻撃というか、ほとんど暴言というか、そういう鬼の首でも取ったみたいな勢いは本当に恐いなあと思う。

 もちろん、本当に問題なのは不祥事であって、不正が隠されているなら明るみに出されるべきだろうし、正しく取り扱われるべきだと思う。今回の猪瀬知事の「借入」に関してもそうだ。けれど、そのやり方はどうなのだろうか。

「正論を武器にして他人を傷つける人たち

 少し前にこの記事が話題になったけれど、私は大いに共感した。
 正論はもちろん「正しい」のだし、それをぶつけられる人が「悪い」のだろうけれど、それがここぞとばかりに人を攻撃する理由として使われるとしたら、その正しさというのはどこかが間違っている気がする。

 伝道者の書7章16節にこんな言葉がある。
「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない。なぜあなたは自分を滅ぼそうとするのか。」(新改訳)

 解釈はいろいろかもしれないけれど、「いつも正しいばかりが良い訳ではない」というような意味かなと私は思っている。「正論を武器にする」というニュアンスにも通じると思う。

 それに、「正しさ」というのは人や立場や状況によって変わることもある。極端な話、ある人の「正義」は他の誰かにとって「悪」ともなる。そういうことを考えると、自分側の「正しさ」を振り回しすぎるのも良くないかな、と思わせられる。

 それは「裁き」と「許し」のバランスにも関係があるのではないだろうか。不正は、ある「正義」のもとで裁かれなければならない。けれど然るべき方法で許される必要もある。もし正義を突き付けられ裁かれるだけで、許されることがないとしたら、刑務所は必要なくなるだろう。皆死刑だからだ。
 人が自分の非を認めたり、より良くなろうとしたり、更生したりするのは、裁かれてというより、許されてということの方が多い気がする。

 昨年映画化されて話題となった「レ・ミゼラブル」の主人公、ジャン・バルジャンの更生も、「許し」が大きなキッカケとなっている。有名すぎる話だけれど、最後に引用したい。

 バルジャンは貧困に耐え切れず一本のパンを盗んだ罪で、19年間服役させられていた。出所後も冷遇され続けたけれど、ある司教が、彼を屋敷に温かく迎え入れてくれた。しかしその夜、人間不信のバルジャンは、司教の銀の食器を持ち逃げしてしまう。翌朝、彼を捕えた憲兵が司教のもとを訪れる。「この男があなたの銀食器を盗んだようです」しかし司教は答える。「それは彼にあげたものです。それにこの2本の銀の燭台もあげたのに、兄弟、あなたは忘れて行きましたね」

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