人生をマラソンにたとえてみる。人生のゴールと死の関係について。

2013年11月18日月曜日

生き方について思うこと

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 昨今のランニング・ブームに乗っかっている訳でもないけれど、私もランニングをしている。

 教会スタッフ時代はまったく余裕がなかったので、実に久しぶりの運動習慣である。始めた頃は全然走れなくて絶望的だった。けれど何ヶ月か続けるうち、走るペースも距離もぼちぼち伸びてきた。今は楽しくさえある。

 汗を流して体を動かすのは良いものだと思う。否定的なことなど考えている場合でなくなり、嫌なことも自然と忘れさせてくれる。健康的になったとも思う。

 ところでランニング(あるいはマラソン)には戦略が必要だと最近気づいた。至極当たり前なことだけれど、ペース配分をしっかり考えないと、予定通りの走りができない。例えば10キロ走りたいのに、私のような運動不足者が短距離走のペースで走り出したら、すぐに息が上がってしまう。とても完走できない。それに問題は走り出しだけでなく、途中でどうペースを調節するか、きつくなったらどうするか等も、ある程度想定しなければならない。もちろん時間が無限にあるなら、持続可能なペースで終始走るという手もある。

 そういうことをランニングしながら考えていると、人生はマラソンみたいなものかも、というアイディアが浮かんだ。それを走り通すには、ペース配分と計画が必要だと思うからだ。

 例えばものすごく忙しい状態が長く続くのは、人によっては良くないだろう。心や体を壊すかもしれない。けれど逆に暇な状態が長過ぎるのも辛い。坂道を駆け上がるみたいなフンバリどころと、平坦な道をゆったり走る時と、バランスが必要かもしれない。とにかくそういう何だかんだを走り抜け、完走することを目指すのが、人生かもしれない。

 ところで人生を完走するとは、どういうことだろうか。ある個人の人生のゴールとは、何なのだろうか。体が機能を停止する瞬間まで、生きていればいいということだろうか。パウロが「私は走るべき行程を走り終えた」と書いたのは、どういう意味だったのだろうか。

 うまく言えないけれど、死ぬまでとりあえず生きることと、人生のゴールを迎えることとは、必ずしも一致しないような気がする。
 よく「人生を歩む」とか表現するけれど、「歩く」と「走る」はえらく違う。そして走り抜くというのは、何かの目標を達成するという意味合いが、より強いように思う。

 人生に何かの目標を定め、それを達成するのに必要なあれこれを計画し、実行していくことも、生き方の一つだと思う。もちろん何の目標もなく生きたっていいと思う。何かを達成してもしなくても人は死ぬからだ。

「何かを成し遂げても、どうせ死ぬなら意味がないのでは。それに生涯かけても成し遂げられないかもしれないし、そうだとしたら、逆に人生を無駄にしたことになるのでは」という意見があるかもしれない。
 それに対しては、私の好きな俳優ロバート・レッドフォードが『大いなる陰謀』の作中で言ったセリフをもって答えたい。「しかし、何かはした」

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