「神の為に精一杯働き、また精一杯祈る。働くときは祈りを信じず、祈るときは働きを信じない」
というのは私が教会でよく言われていたことだ。一見矛盾しているようだが、要は「精一杯働き、結果は祈るのみ」というようなことだったと私は認識している。それはそれで間違っていないと思う。けれどこの「精一杯働く」の程度が、問題となることがある。
私は、一般の会社で勤務しながら教会スタッフとしても働く、という時期が長かった。だから仕事帰りに教会に行ったり、週末は全部教会で過ごしたりというのが常態化していた。自分の純粋な休日というのはほとんどなかったのだけれど、それはそれで納得していた。
それは第一に、神様の為にできることがあるなら全力でしたい、と願っていたからだと思う。
そして第二に、牧師からそう言われていたからだった(直接的な強要ではなかったが)。
牧師は「自分は誰よりも神様の為にハードワーカーでありたい」と普段から言っていて、それは暗に「だからスタッフもハードワーカーで当然だ」という誘導を含んでいたように思う。だから牧師に近いスタッフほど、牧師のスケジュールに合わせなければならない分、その奉仕(労働)時間は長かった。徹夜になることも多かったし、徹夜したから終わりという訳でもなかった。いつも仕事が終わらなくて、いつもやり残しを抱えていたような状態だった。
それで自分の会社勤務もあるのだが、これに支障が出ないはずがない。会社を急に休まなければならないことも多々あったし、勤務中に教会のことで対応しなければならないこともあった。恥ずかしい話だけれど、朝起きられなくて遅刻ギリギリ、というのは日常茶飯事だった(後から知ったことだけれど、他のスタッフにも朝寝坊がいつも悩みの種だったという人がいた)。私自身はかなり派手に遅刻してしまったこともある。
そういう、クリスチャンとして証にならない勤務態度を反省する日々だったけれど、かといって改善できる訳でもなかった。理由は「ハードワーカーでなければならない」からだ。
そこまで働かなければならない理由は、牧師に言わせれば「今しているこれらの奉仕はすべて神様が願っていることだから、辞める訳にはいかない。遅れる訳にもいかない」というようなことだ(この原理については「独裁的教会運営の構造」という記事に書いている)。
それでも奉仕が終わらない、遅れる、という状況があって、私は何度か牧師に泣きついたことがある。その度、牧師は優しい顔で「いつもありがとう」と言うのだが、それに続いて言うのが、「しかし御霊に満たされることで限界を越えられる。特別な力が与えられる。だからもっと祈るべきだ」というようなことだった。
それで自分の不信仰や「霊性の低さ」を不甲斐なく思い、祈るのだけれど、仕事は待ってはくれない。やはり働くことになる。
そういう訳で、「ハードワーク→証にならない会社勤務→とりあえず祈る→ハードワーク」という無限ループの中にいた。それは今客観的に見ると、出口のない迷路みたいなものだったかもしれない。
もちろん、キリスト教界には純粋に神様の為に働いていて忙しい人はいるだろうし、その忙しさを否定する気はない。しかしその忙しさの結果、その人がどうなるかは注意が必要だと思う。成長するのかしないのか。より良い変化があるのかないのか。一般社会に対して証になるのかならないのか。健康かどうか。その答えがすべて「否」であるなら、その忙しさはいったんストップしてでも見直す必要があると私は思う。
追記)
教会が解散し、今は遅刻の心配もなく働いている。軽い運動もしているので、以前よりだいぶ健康的になった気がする。神の為というより、自分の為に生きているのかもしれないけれど。
健康的な毎日を過ごされるようになって本当に良かったですね!
返信削除こちらのブログに出てくるカルト的な教会の記事を、信じられない気持ちで読ませていただいております。
本当にキリスト教でしょうか?本当に宗教と言えるのでしょうか?
そんな教会から円満に離れるために、あれこれ策を講じなければならないなんて・・・
他の教会に自分への中傷をばらまかれても、他の教会員から交際を絶たれても、
いいではありませんか!
自分の中の信仰を本当にご存知なのは神様だけなのですから。
それこそ、人を見ずに神を見るという、基本中の基本に戻ることができれば、
そんな宗教ともキリスト教とも言い難い教会から離れるためには、極端なようですが「バカヤロ―退会もしくは転会」でもいいのではないでしょうか。
私の眼には、記事に出てくるカルト教会がサタンそのものに見えて仕方ありません。
今は、そのサタン教会も解散されたとのことですが、まさに神様の御意志であったと思います。
その教会に集われた方々が、真の教会に出会えますようお祈りしております。
匿名様
返信削除コメントありがとうございます。
お祈りも感謝します。
仰る通り、自分の信仰は、人にどうこう言われようと神様ご自身がご存知ですよね。
ただ、教会から自分だけが追放されるというのは、多勢に無勢で、その孤独感や消耗感、傷心は筆舌に尽くし難いものがあるかと思います(私自身はそれを経験していませんので、想像でしかありませんけれど)。実際、多くの方がそのような目に遭い、教会に足を運べなくなったり、離れてしまったりしています。また、長い年月をともに過ごした仲間たちとの断絶というのも、大変苦しいものだと思います。
ですから「サタン教会から出ていく」というとシンプルで良いことのように思われますが、実際には複雑な事情があるかと思います。あしからず。
始めまして。
返信削除知人の教会ですが、毎週土曜日に何かしら行事があり、そのせいで日曜日は役員が必ず遅くまで残っているそうです。
確かにその教会のHPを見ると毎週予定があります。(うち二回は子供向けの集会でしたが・・・)
役員決めの時期になると、信徒同士で裏で話ているそうです。
びっくりした私が「そんなのおかしい」といったのですが知人は「○○先生はアイデアマンだから」「○○先生はアイデアマンだから」と繰返すばかり。
よく分からない理屈ですが、アイディアを出したら実行せずにいられない、だから役員・信徒はそれに協力すべきということでしょうか。
しかしその教会は、教団のなかではかなり大きく、その牧師自身かなりの力を持っていて、TVなどにも出ています。あちこちの伝道集会にも呼ばれています。
ちなみに私も母教会から出ています。
このままここにいたら殺されると思いました。
しかし、そのとき思ったのが、「このまま死んだら、教会の人は私を認めてくれるかな」と思ったのです。その瞬間気がつきました。
「神様は私が苦しんでいるのを喜んでおられない」と。
知人の教会で疲労している人たち、また知人自身がある意味のマインドコントロールから抜け出すのを願うばかりです。
美羽様
返信削除コメントありがとうございます。
「神様は私が苦しんでいるのを喜んでおられない」というのは大変重要な発見だと思います。私は自分ではそれに気づけませんでしたから。そして多くの人が、自分では気づけないのだと思います。
私もはっとしました~!
返信削除私も教会を最近去りました~~。
それで良いんですよ!
返信削除「自分のために生きる」=それが「神のために」生きている事になるんです!
結局は縦の関係、自分と神の関係だからです。
それが、縦だけだと自己中心で閉塞的で、横のつながりこそ大切なんです、成長のためには必要なんですと、「教会教会」って言いますが、その言葉おかしくないですか?
やれ「神の家族だ」「ぶどうの木と枝だ」と、パウロの言葉を引用します。
しかし当のイエスはそんな事言ってました?
「横の関係」と割り込んできた時点で「宗教」ではないでしょうか?
勘違いをされないように申しておきますが、教会不要論ではなく、自分と神の関係や家族との関係以上に、「教会」こそが神の物だから、神のために生きる事は教会優先なのだとするならば、それはおかしいと言う事です。
匿名様
返信削除コメントありがとうございました。
マリック様
コメントありがとうございました。仰る通りだと思います。