神の為のハードワークか、そうでないハードワークか

2013年11月4日月曜日

キリスト教信仰

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「神の為に精一杯働き、また精一杯祈る。働くときは祈りを信じず、祈るときは働きを信じない」

 というのは私が教会でよく言われていたことだ。一見矛盾しているようだが、要は「精一杯働き、結果は祈るのみ」というようなことだったと私は認識している。それはそれで間違っていないと思う。けれどこの「精一杯働く」の程度が、問題となることがある。

 私は、一般の会社で勤務しながら教会スタッフとしても働く、という時期が長かった。だから仕事帰りに教会に行ったり、週末は全部教会で過ごしたりというのが常態化していた。自分の純粋な休日というのはほとんどなかったのだけれど、それはそれで納得していた。
 それは第一に、神様の為にできることがあるなら全力でしたい、と願っていたからだと思う。
 そして第二に、牧師からそう言われていたからだった(直接的な強要ではなかったが)。

 牧師は「自分は誰よりも神様の為にハードワーカーでありたい」と普段から言っていて、それは暗に「だからスタッフもハードワーカーで当然だ」という誘導を含んでいたように思う。だから牧師に近いスタッフほど、牧師のスケジュールに合わせなければならない分、その奉仕(労働)時間は長かった。徹夜になることも多かったし、徹夜したから終わりという訳でもなかった。いつも仕事が終わらなくて、いつもやり残しを抱えていたような状態だった。

 それで自分の会社勤務もあるのだが、これに支障が出ないはずがない。会社を急に休まなければならないことも多々あったし、勤務中に教会のことで対応しなければならないこともあった。恥ずかしい話だけれど、朝起きられなくて遅刻ギリギリ、というのは日常茶飯事だった(後から知ったことだけれど、他のスタッフにも朝寝坊がいつも悩みの種だったという人がいた)。私自身はかなり派手に遅刻してしまったこともある。

 そういう、クリスチャンとして証にならない勤務態度を反省する日々だったけれど、かといって改善できる訳でもなかった。理由は「ハードワーカーでなければならない」からだ。
 そこまで働かなければならない理由は、牧師に言わせれば「今しているこれらの奉仕はすべて神様が願っていることだから、辞める訳にはいかない。遅れる訳にもいかない」というようなことだ(この原理については「独裁的教会運営の構造」という記事に書いている)。

 それでも奉仕が終わらない、遅れる、という状況があって、私は何度か牧師に泣きついたことがある。その度、牧師は優しい顔で「いつもありがとう」と言うのだが、それに続いて言うのが、「しかし御霊に満たされることで限界を越えられる。特別な力が与えられる。だからもっと祈るべきだ」というようなことだった。
 それで自分の不信仰や「霊性の低さ」を不甲斐なく思い、祈るのだけれど、仕事は待ってはくれない。やはり働くことになる。

 そういう訳で、「ハードワーク→証にならない会社勤務→とりあえず祈る→ハードワーク」という無限ループの中にいた。それは今客観的に見ると、出口のない迷路みたいなものだったかもしれない。

 もちろん、キリスト教界には純粋に神様の為に働いていて忙しい人はいるだろうし、その忙しさを否定する気はない。しかしその忙しさの結果、その人がどうなるかは注意が必要だと思う。成長するのかしないのか。より良い変化があるのかないのか。一般社会に対して証になるのかならないのか。健康かどうか。その答えがすべて「否」であるなら、その忙しさはいったんストップしてでも見直す必要があると私は思う。

追記)
 教会が解散し、今は遅刻の心配もなく働いている。軽い運動もしているので、以前よりだいぶ健康的になった気がする。神の為というより、自分の為に生きているのかもしれないけれど。

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