「目覚めよ」とその牧師はよく言った。
しかし、何から目覚めなければならないかはイマイチ明確でなかった気がする。いわゆる「霊的な覆い」からの目覚めという意味だったかもしれない。あるいは「敵(悪魔)の策略」に気づいて逃れることだったかもしれない。とにかく何らかの盲目状態・睡眠状態から「覚醒」することを意味していたのは確かだろうけれど、(繰り返すが)何から覚醒しなければならないのか、私は当時も今もよくわからない。
その曖昧さの大きな原因は、「霊的」という言葉にあると私は思う。何でも「霊的」と言えば信仰的に思われるし、何だかよくわからないことも「神様からの啓示だから」と言えば何となくスルーできる。言葉遊びみたいなものだ。
と、いうような問題に気づかず、当時は「目覚めていなければいけない」と真剣に思っていた。そしてその為には、よく祈るとか、よく奉仕するとか、とにかく教会に関係した何かをしていなければならない気がしていた。
しかし今になってよくよく考えてみると、「目覚めよ」というのはなかなかトリッキーな言葉だ。
何かから「目覚める」という時、そこには、今まで知らなかった事実を知る、気づかなかった何かに気づく、という「発見」が伴っているはずだ。そしてその「発見」というのは、「目覚めよ」と言った人間が提示した何かによるものだ。
例えば、長年病気を患っているAさんに、Bさんがこう教える。「その病の原因は『家系の呪い』によるものだよ。だから先祖が犯した罪を突き止めることが解決につながるよ」
それがAさんにとって「発見」となり「目覚め」となるのは、Aさんがそれを事実だと信じたからに他ならない。信じたからこそ、「そうか、そうだったのか」ということで、必死になって先祖史をひっくり返し、熱心に神に祈るのだ。ちなみに、それが事実かどうかはまったく別問題である。
だから「目覚めよ」には、「〇〇を信じよ」というニュアンスが含まれている。「私はこんな新しい事実を知っている。これは神の奥義だ。だから信じなさい」という意味を込めて、「目覚めよ」という言葉は発せられる。
そしてそれを言うのが教会の牧師とかリーダーとかなら、信徒は基本的に信じることになる。少なくとも、初めから完全に疑ってかかることはない。それに「霊的」とかいう言葉が付け加えられるから、ますますよくわからなくなって、「そんなものか」と曖昧に処理してしまうことにもなる。
そういう「目覚めよ」系の牧師は、信仰熱心でない信徒に「目覚めてない」とダメ出しする傾向がある。しかしそれは信仰的にダメだとか、敬虔でないとか、罪深いとか、「霊的に」覆われているとか、そんな意味ではない。単に牧師の言うことを鵜呑みにしない、(牧師にとって)ちょっと扱いづらい信徒だという意味だ。
本当に目覚めなければならない人ほど、案外その必要性に気づいていないものだと思う。
相手の目の中の塵についてどうこう言う前に、自分の目の中の梁に気づきなさい、と聖書が警告しているのももっともなことであろう。
現在私の所属する教会では、「QT」(静思のとき)と言う、グループ分けしてリーダーを中心に毎月1回、ディボーションをして神と共に歩んだ証を、分かち合う時と言うのを持っています。多分経験があおりと思われますが。
返信削除この分かち合いそのものについては、別に異議なしです。
そこで、あるグループのリーダをしています。
しかしそれが「リビングライフ」と言う、韓国系月間ディボーション誌を推奨しての事で、牧師から私にも一度プレゼントされましたが、使用する気は毛頭ありません。
男性であり、年齢・信徒歴(他教会も含めてですが)・奉仕に対する姿勢等を勘案してリーダーに選んでいると思いますが、私には確固たる信念があります。
いくら福音派系の教会であろうとも、キリスト教の間違いを踏襲するつもりはないし、牧師の方針や指示であろうと、必要がないと思う物は受け入れません。
ここで詳細を語る事はかなり難しくなりますので、止めておきます。
とにかくわが国のキリスト教は、本当におかしな思想・教理・教条・信条が多く、それが大手を振ってまかり通っています。大体、指導者である牧師から流されるのが普通ですから、牧師には重大責任があるのです。
羊である我々は、情報が豊富で錯綜している時代に生かされています。
インターネットを通してしか、本当の事を見つける手立てがありません。
その中から、取捨選択をして常に何が真実かを見極める。
自分の目で見て、耳で聞いて、念入りに調べて、何がおかしいかを信念として持っていなければ、教会と言う集団の中で流されて埋没し、時にははじき出されるかも知れないですが、そう言う行動こそが、
聖書で言う「目を覚ましていなさい」ではないのかと思います。
牧師や指導者の通り一遍の、金目当ての支配文言ではないのです!