「未信者の世界」と「信者の世界」の区別(続き)

2013年11月19日火曜日

キリスト教信仰

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「未信者の世界」と「信者の世界」の区別がある、と以前書いた。それについてもう少し書きたい。

 その両者の区別は、クリスチャン生活(特に教会生活であろう)が長く、深くなるにつれ、際立ってくるものだと思う。とくに知識も経験もあり礼拝など忠実に守っているクリスチャンほど、未信者(あるいは一般社会)との乖離が大きくなりやすいだろうと思う。

 もちろん、だからと言ってまったく会話が成り立たない宇宙人みたいな存在になる訳ではない。むしろ初対面とか当たり障りのないコミュニケーションとかでは、何の支障もないのが普通だと思う。私が言っている「違い」が際立つのは、話が信仰の部分に入っていく時だ。

 実際に私が経験したケースで言うと、「人は生まれながらに罪があるって聖書に書いてあるみたいだけど、生まれたばかりの赤ちゃんに何の罪があるっていうの? おかしくない?」とか「2000年前に死刑になった人と何の関係があるのよ?」とかいう聖書系の話題や、「なんでクリスチャンって酒もタバコもやらないの? 付き合い悪いよね」とか「なんで日曜に休んじゃダメなの」とかいうクリスチャンライフ系の話題などがある。そういう場合はどうしても信仰の話や聖書の話、神の話になり、しかも何とかわかってもらおうと熱く話してしまうことが、私は多かった。それはある意味「伝道」の機会であって良いことだと思うけれど、結局何の理解も得られず、「ダメだ、こいつとは話にならん」みたいな顔をされて終わってしまうことが多かった。

 そこはもうちょっとうまくやれよ、という話かもしれない。けれど少なからず信仰熱心な人(愚直なまでにと言っていいかもしれない)ほど、そうなりやすいのではないかと思う。そして結果的に、「こちら側とあちら側」みたいな溝を作ってしまうことになる。

 これは基本的に、価値観の違いによるものではないか。聖書に親しみ、その価値観が浸透すればするほど、良くも悪くも一般社会からの乖離が進んでしまう、そういう側面があるのではないか。

 これには日本という国柄も関係していると思う。欧米諸国であれば、話はまた変わるだろう。
 カナダ人の知り合いが何人かいて、そのうち何人かは、カナダでも近所に住んでいたという。「こいつとは学校も教会も一緒だったんだ」というような話が出ていて、まるで近所だったから同じ書道塾に通ってたんだよ的な感覚で、教会について言及していたのが印象的だった。
 彼らがクリスチャンなのかノンクリスチャンなのか結局よくわからなかったけれど、どうも話の端々から、神様がいるのは当たり前、という前提があるのはわかった。教会とか神様とかに対する見方が全然違うんだな、と感じた時だった(もちろん全てのカナダ人がそうなのではないと思う)。

 日本だと、宗教というと何となくいかがわしいもの、怪しいものという見方が少なくないと思う。あるいは心の弱い人、問題を抱える人の頼るもの、という見方もあると思う。だから信仰熱心な人を見て「ああ、住む世界が違うな」と引き気味になるのは、まあ普通の反応と言えるのではないか。

 だからクリスチャンの側にも、ノンクリスチャンの側にも、両者を断絶する要因があるのだと思う。

 前回と同じような結びになってしまうけれど、クリスチャンとして成熟すればするほど一般社会から断絶されていく、ということであるなら、その成熟というのはちょっと考えなければならないと思う。一生懸命伝道するのも大切なことだと思うけれど、一般社会から乖離しない成熟の仕方、伝道の仕方を考えるのも、同じくらい大切ではないかと思う。

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