「真の福音と偽りの福音」紹介

2013年11月3日日曜日

キリスト教信仰

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 以前ここで紹介したインドの Christian Fellowship Church の、別の記事を紹介したい。題名は「真の福音と偽りの福音」。

「真の福音と偽りの福音」の記事はこちら

 クリスチャンの表面的な分類は教団教派などだが、より聖書的な分類は神の為に生きるか、自分の為に生きるか。前者は人が見る分類で、後者は神が見る分類。
 自分中心に生きる者の福音は「人中心の福音」、神中心に生きる者の福音は「神中心の福音」。前者は偽りの福音、後者は真の福音。
 自分の信じる福音がどちらかは、他者にはわからない。自分だけが、その真相を知っている。
 ・・・というのが概要だ。

 特に心に留まったのはこれだ。「多くある聖書解釈の中で自分の解釈が正しく、他者の解釈は間違っているという確信そのものが自分中心であり、神を中心としていない

 じゃあどう解釈したらいいんだろう、というのが最初の疑問だった。教会解散以来、どの聖書解釈が正しいのかと、私は問い続けてきたからだ(今に至るまで答えを得ていないけれど)。しかしこの記事を読んで気づかされたのは、「聖書をどう解釈するか」と「神の為に生きているかどうか」は全然関係ないということだ。そして神様が気になさっているのは、その後者の方ではないだろうか。
 たとえ絶対的に正しい聖書解釈をしていたとしても、それがそのまま、神の為に生きることにはならない。またたとえ解釈上の間違いがあったとしても、神の為に生きられないことにはならない。

 そう思うと、「聖書の〇〇は、△△の根拠により、××だと解釈するのが正しい。だから(他の個人や団体)は間違っている」と相手を論破するのは、一見信仰的・敬虔に見えるけれど、単なる自己満足に過ぎないのではないか。その解釈をもって、神の為にどう生きるかの方が本当は問われているのではないかと思う。
 もちろん、私自身はそんなことを偉そうに言える立場にはない。

 神の為に生きるクリスチャンはほとんどいない、とこの記事は言っている。それはおそらく的を射ていると思う。クリスチャンであってもただの人間だし、(許された)罪人であることに変わりないからだ。しかしそういう私たち人間が、自分中心な生き方でない生き方を選択できるようになる為にイエス・キリストが来られたと信じているにも関わらず、それでも自分の為に生き続けるとしたら、それは神の御心が全然わかっていないとしか言えないだろうと思う。

追記)
 この「人中心の福音」の説明を読むと、まさに「繁栄の神学」のことを言っているとわかる。神を召使のように使い、繁栄以外あり得ないと根拠もなく信じる、いやらしい拝金主義としか私には思えない。

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