次世代育成か、次世代虐待か

2013年11月25日月曜日

キリスト教信仰

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 次世代の育成は、あらゆる分野で必要だろうと思う。次代を担う者がいなければ、何であれ立ち行かなくなってしまうからだ。例えばある高校に3年間生徒が集まらなかったら、そのままなら閉校になってしまう。実際、日本のいろいろな種類の伝統工芸が、後継者育成に困っていると聞く。

 以前何かで聞いたことがあるのだけれど、日本のキリスト教界も、牧師不足が深刻だそうだ。無牧の教会は今後ますます増えていくらしい(どこの統計だか忘れてしまった)。

 だから日本の牧師が次世代育成を目標に掲げるのは、そういう時流から考えても理にかなっていると思う。けれど、どう育成するかで未来は大きく変わるだろう(しかしその前に、教会に若者が全然いなかったら育成のしようがない。そういう場合はまずそこから考えるべきかもしれない)。

 また、「(リーダーは)次世代をこう育成すればいい」というのは私にはよくわからない。その代わり、「(リーダーは)こうしてはいけない」というのは少しはわかると思う。だから反面教師として、何か書けたらと思う。

・リーダー個人の自己実現に利用しない

「独裁的教会運営の構造」でも書いているけれど、「神の御心だから従え」という論法で、単にリーダー自身が実現したい事業を信徒にさせようとすることがある。そういう事業に、「実践的訓練」と称して若者たちを動員するのは、実は訓練にならないと思う。何故なら目的が訓練でなく、事業の成功にあるからだ
 訓練であれば、失敗したり間違えたり、うまくいかなかったりという経験が、若者たちにとって良い学びとなるかもしれない。しかしあくまで事業を成功させようとするなら、基本的に失敗は許されない。下手すると、若者たちは厳しい叱責や懲罰に晒されることにもなる。
 
 若者たちが正式に雇用された従業員であるなら、まだ許されるかもしれない。けれど未成年の大学生や中高生に「子供扱いしない」と言って大人の事業に従事させ、かつ失敗を認めず、かつ無給で済まそうとするなら、それは労働法上問題にもなるだろう。

・リーダーは委ねたら口を出さない

「この仕事は君に任せたよ」と言っておいて、結局あれこれ口を出すリーダーというのがいる。そういうリーダーは、実際には自分が全てをコントロールしていないと気が済まない(あるいは心配でいられない)。そういうリーダーのもとでは、若者は自立した行動はできないし、大きな決断もできない。言われたことをするだけだからだ。だからその結果にも責任を持ちきれない(当然だ)。
 人は自分で決断したことをやって失敗するからこそ、自分の責任を痛感するのだと思う。

・リーダーは若者を囲い込むべきでない

 上記にも通じるが、「委ねきれない」という心理は「信頼できない」のと同じだと思う。だからそういうリーダーは、基本的に若者たちを(口では何と言っても)信頼していないように思える。そこには「自分が導かなければダメだ」「放っておいたらダメになる」というような心理も働いているだろう。だから、いつまでたっても若者たちをリリースできない。それは若者たちの自立の機会を奪うことでもある。まったく次世代育成にならない。
 くわえて、「自分が中心にいたい」という心理もあるかもしれない。私が知っている牧師はこう言っていた。「若者たちが自ら立ち上がり、主に仕え、彼らが日本を変えていくのを見たい。そして、その最前線に自分はいたい
 かなり矛盾しているような気がするのは私だけだろうか。
 リーダーの立場を譲るべきだと確信したなら、潔く譲るべきだろう。そしてそれができなければ、次世代育成などできないと私は思う。

 こういう間違った「育成」のもとにいる若者は、いつまでたっても自立できないどころか、いいように利用されているだけのような気がする。結局リーダーのやりたいことに付き合わされ、うまくできないと叱責され、反発すれば「主のための訓練だと思って耐えろ」と撥ね付けられる。それに耐えられず辞めるなら、教会追放が待っている。若者にとって、それはまさに逃げ場なしの八方ふさがりにしか見えないだろう。
 そうであるなら、それはもはや「次世代育成」でなく、「次世代虐待」でしかないのではないだろうか。

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