ニセモノは本物みたいに見える。それは教会の見た目の麗しさに紛れている。

2013年11月7日木曜日

キリスト教信仰

t f B! P L
 私のありのままの教会体験を書いたり話したりすると、「そんなのひどすぎる」「とても教会とは思えない」というようなご意見を頂くことがある。
 確かに、私は教会・クリスチャン・信仰の陥りやすい危険性について(反省を込めて)ずっと書いてきているから、そういう意味で視点が偏っているというか、悪い点ばかりを挙げ連ねているというか、そういう風に見えると思う。

 しかしこうやっていろいろな問題点を指摘できるのは、それが間違いだと気づいたからに他ならない。気づく前は、間違っているだなんてまったく思っていなかった。奉仕が苦しかったり、リーダーに言われる一つ一つに傷ついたりというのは「神の民として通るべき苦しみ」みたいなものだったからだ。だからスポーツ選手が厳しい訓練に耐えるように、クリスチャンも様々な苦しみに遭って忍耐を学ぶべきだ、むしろ必要なことだ、と思っていた。

 また、良いと思われることも沢山あった。本当に神様がパワフルに働いていて、預言や奇跡が頻発し、困難な状況が打開され、人々が癒され回復しているように見えた(それらについては今までも個別に書いてきたが、まだ書く必要があるだろう)。信徒は皆献身的で優しかったし、楽しいイベントもあった。会堂も現代的で、最新の設備が整っていた。充実した教会生活を送っているように思えた。
 ある新来の方などは、「聖書を文字通り実行している教会ですね。今まで見たことがありません」と褒めちぎっていた。

 だから、表面から見る限り、悪く思う要素はなかった。むしろ良いこと、正しいこと、隠された真実なことに思えた。
 大勢の人間がそれに関わり、正しいと確信していたのも、そういう感覚を助長しただろう。終戦間際、多くの若い日本兵たちが命じられるまま自ら命を絶ち、それを聞く今日の私たちは「何故そんな」と思うけれど、彼らにはそれが正しいことに思えたのだ。それと同じようなことだろう。

 もちろん、私がずっと書いてきた問題点は間違いなく存在していたし、今も世界中で存在しているだろう。けれどそれは、そう簡単には見えない。多くの正しく思えることに紛れて、何となく違和感があるけれど、気にならない。そういうことなのだと思う。

 ニセモノは、そうとはわからないように偽装するからニセモノなのだ。

 また、私は教会に間違いがあることを問題とは思っていない。完全に正しいということはないし、人は間違うこともあるからだ。正しさを求め続けるべきだろうけれど、それに完全に到達しきれないのが人間の限界なのだとも思う。
 では何が問題かと言うと、教会が多くの偽装・偽善の陰で信徒を傷つけ、痛めつけ、結果的に神様から遠ざけることにある。
 私の教会の話を聞くと、「でも正しいことも沢山あったのでしょう。多少の間違いは仕方ないのでは」という感想を持つ人がいるけれど、実際に教会に行けなくなった人たちの前で同じことが言えるのか疑問だ。
 繰り返すけれど、教会に間違いがあるのは問題ではない。けれど間違いを隠すことには、大きな危険があると私は思っている。

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