私のありのままの教会体験を書いたり話したりすると、「そんなのひどすぎる」「とても教会とは思えない」というようなご意見を頂くことがある。
確かに、私は教会・クリスチャン・信仰の陥りやすい危険性について(反省を込めて)ずっと書いてきているから、そういう意味で視点が偏っているというか、悪い点ばかりを挙げ連ねているというか、そういう風に見えると思う。
しかしこうやっていろいろな問題点を指摘できるのは、それが間違いだと気づいたからに他ならない。気づく前は、間違っているだなんてまったく思っていなかった。奉仕が苦しかったり、リーダーに言われる一つ一つに傷ついたりというのは「神の民として通るべき苦しみ」みたいなものだったからだ。だからスポーツ選手が厳しい訓練に耐えるように、クリスチャンも様々な苦しみに遭って忍耐を学ぶべきだ、むしろ必要なことだ、と思っていた。
また、良いと思われることも沢山あった。本当に神様がパワフルに働いていて、預言や奇跡が頻発し、困難な状況が打開され、人々が癒され回復しているように見えた(それらについては今までも個別に書いてきたが、まだ書く必要があるだろう)。信徒は皆献身的で優しかったし、楽しいイベントもあった。会堂も現代的で、最新の設備が整っていた。充実した教会生活を送っているように思えた。
ある新来の方などは、「聖書を文字通り実行している教会ですね。今まで見たことがありません」と褒めちぎっていた。
だから、表面から見る限り、悪く思う要素はなかった。むしろ良いこと、正しいこと、隠された真実なことに思えた。
大勢の人間がそれに関わり、正しいと確信していたのも、そういう感覚を助長しただろう。終戦間際、多くの若い日本兵たちが命じられるまま自ら命を絶ち、それを聞く今日の私たちは「何故そんな」と思うけれど、彼らにはそれが正しいことに思えたのだ。それと同じようなことだろう。
もちろん、私がずっと書いてきた問題点は間違いなく存在していたし、今も世界中で存在しているだろう。けれどそれは、そう簡単には見えない。多くの正しく思えることに紛れて、何となく違和感があるけれど、気にならない。そういうことなのだと思う。
ニセモノは、そうとはわからないように偽装するからニセモノなのだ。
また、私は教会に間違いがあることを問題とは思っていない。完全に正しいということはないし、人は間違うこともあるからだ。正しさを求め続けるべきだろうけれど、それに完全に到達しきれないのが人間の限界なのだとも思う。
では何が問題かと言うと、教会が多くの偽装・偽善の陰で信徒を傷つけ、痛めつけ、結果的に神様から遠ざけることにある。
私の教会の話を聞くと、「でも正しいことも沢山あったのでしょう。多少の間違いは仕方ないのでは」という感想を持つ人がいるけれど、実際に教会に行けなくなった人たちの前で同じことが言えるのか疑問だ。
繰り返すけれど、教会に間違いがあるのは問題ではない。けれど間違いを隠すことには、大きな危険があると私は思っている。
私も幾つかの教会を巡って来ましたので、色々ありました。確かに教会は間違いを含みますし、寄り合いは人間同士のイザコザがつきものでしょうね。
返信削除しかしながら、やはり牧師のやりたい放題というか、教祖化しているのは、何を勘違いしてるのかな?と思います。リ-ダ-シップよろしく権威化して、思い通りにやるのは、ビジネスであり、商売人です! そういうのはもはや教会ではなく、はっきり宗教ビジネスであり、ねずみ講みたいであり、さっさと退出すべきです!
今は多くの教会が色々な教えの風にふ吹きまわされて、そうなって来ています。私たちは冷静に見分けるべきです!
マリック様
返信削除コメントありがとうございます。
仰る通り、教えの風に吹きまわされ、見当違いなことになってしまっていることがあると思います。冷静な判断というのは難しいものですが、それができるかできないかは大きな違いをもたらすと思います。
こんにちは。かなり前に書かれた記事のようですが、コメントさせて頂きます。
返信削除私は単立ペンテコステの教会に通う者です。学生時代、超教派の団体に所属していたことがあり、その時私は異端じみた教派所属ということでよく批判の対象になっていました。しかし当時の私はなぜペンテコステというだけで批判の対象になるのか分からず、学生の段階でありながら、自身の所属教派の教義について団体を取り仕切る大人達から説明を求められるのが非常に苦痛でした。
私の母教会は「聖霊の満たし」と称して人がバタバタ倒れることもなければ、「この地に豊かな祝福が訪れる」といった曖昧な預言者もどきが講師として招かれることもなければ、牧師が「信仰」の名の下に信徒を奴隷のごとく利用するカルト的要素もありません。日本の教会が一般的に抱える問題やこの教会特有の問題はありますが、それは、偽物が混じっているからではなく、人間が持つ性質の限界に伴う問題、という領域を超えないと私は判断しています。
しかし、ある別のペンテコステ教会の集会に参加した時、言葉では表現し難い違和感を覚えました。大声で盛り上りつつ聖書の言葉を用いた説教は全く意味不明、礼拝後の祈りの時間には倒れたり泣いたりと、群集心理が働いたトランス状態とも言える異様な光景でした。ただ会堂外から立ちつくして見ていたのを覚えています。また、ある別の教会の10周年記念イベントでは、暗い会堂内にナイトクラブの様なミラーボールが周り、「ユースパスタ」なる人は「ジーザス」が「チャーチ」を祝福されたと感謝し、最後には牧師夫妻に教会から腕時計をプレゼントするという謎のイベントがありました。牧師夫人は「神様が云々」と泣きながら言っていましたが、主役はあなたじゃないよと教えてあげたかったです。
ペンテコステを標榜する教会(?)のこのような姿を見るにつれ、問題の多い教派だということが実感として分かるようになりました。ここでいう問題とは、人間の性質に伴う問題、という意味ではなく、本物に偽物が混ざっているという致命的な問題です。ブログ内で書かれていた通り、偽物が混じっている教会に対し、「でも正しいこともたくさんあったのでしょう」という反論は全く無意味です。なぜなら、いくら正しいことが含まれていても、本物に見せかけた偽物は本物ではなく偽物だからです。そこに居続ければ、致命的な傷を負いかねないと思います。
幸いにもそのような教会と関わりを持たれたことのない方には、教会につながること=善、教会につながらないこと=悪という図式が成り立っていると思いますが、私はそれが正しいとは思いません。そのような類の教会に正しい道を伝えるというような特別な使命が与えられていない限り、異端に向かわせる教会には行かない方が良いのです。
偽物が混じった教会を見分ける、これも聖霊の働きと私は解釈します。あるいは、常識が戻ってきたと表現されるかもしれません。いずれにしても、教会の名を使った偽物が現に存在するということは広く認識される必要があると思います。(他教派ではすでに有名かもしれませんが。)その意味で、具体的な問題点を指摘されているこのブログは有用です。
問題なのは間違った教理の教え、助長、を育てていく事になるということです。
返信削除新しい人達がこれがキリスト教なのだと勘違いされることに懸念してます。教会には いいひと
と呼ばれる人達が沢山います。(牧師を含め)私たちはいい人になりたくて教会にいくんじゃない。キリストを知ったから教会に行くのであって、間違った教理を叩きこまれるのなら、時間と金の無駄です。だから私たちは憤りをかんじてるんです。気づかずに7年も費やした期間に悔やんでいるんです。彼らに愛がなかったか?と言ったら、人間完璧ではないので、彼らを図るつもりもない。ただ、間違った電車に乗ったらどんなに私はこの方向に行きたくないとわめいても、あるいは逆の方向に走ってみたところで、執着駅は結局のところいっしょである。間違ったと気づいたら、途中で降りるか、電車を止めるか、でしかない。もちろん止めることは至難の技ではあるが、二つにひとつである。そうでなければ、同じ所にたどり着くだけだ。どの駅で間違いに気づくかはあなたにかかっているが、途中下車する勇気も大事。