人生の「勝ち負け」を越えて見える風景

2013年11月28日木曜日

生き方について思うこと

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 よく人生には「勝ち組」と「負け組」がいるとか言われる。けれど、何を基準にその勝敗がつけられるのかよくわからない。

 良い仕事につき、高い給料をもらい、良いところに住んで面白おかしい生活を送ることが「勝ち」で、そうでない生活が「負け」という二元論ならわかりやすい。けれど、そんな単純なものでもないだろう。

 たとえば「良い仕事」一つとっても、何が良くて何が悪いかは簡単に決められない。大企業で高い役職に就いたから「良い」とは限らない。魅力的に見えない仕事が「悪い」とも限らない。

 多くの人は、そういうことに気づいているだろうと思う。つまりお金とか地位とか名誉とかで幸せが決まるのではない、と。沢山の映画や物語も、そのようなメッセージを発し続けている。
 
 けれど、それでも「勝ち組」と思われる方が気分がいいし、できれば貧乏よりは贅沢がしたいし、というような「苦痛を避けたい」動機から、それを避けるのに最も便利そうなお金や地位や名誉を何とか得ようともがくのだと思う(それは私もまったく同じだ)。

 そういう意味で、「お金より大切なものがある」というありがちな台詞は、私には何だかウソっぽく聞こえる(同意したい気持ちもあるが)。

 そういうことを考えてみると、人生の勝ち負けというのは、なおさらわからなくなる。

 私は人生の多くを「教会」に捧げてきたと思っている。そこには多くの良いことがあったと思うけれど、同時に多くの過ちもあった。それでどうなったかと言うと、いわゆる上述の二元論的な「勝ち負け」で言えば、とても勝ちではなくなっているのが現在の私だ。

 けれどそれで人生が終わりかと言うと、そういう訳でもない。以前にも書いたことがあるけれど、どういうことになろうとも人生は続く。生きている限り。

 よく不祥事が発覚した政治家や著名人が「人生詰んだ」と表現されるけれど、(事実かもしれないが)非常に残酷な仕打ちだと私は思う。そんなことは当人たちが一番よくわかっている訳で、それでも生きていかなければならないのだし、地面に這いつくばってでも前に進まなければならないからだ。他人がそれを自業自得だと断じるのは一瞬だけれど、当人が直面するそれは残りの生涯全てとなるかもしれない。そういうことをちょっとでも想像するなら、「人生詰んだ」などと簡単に言うべきではないと思う。

 どうであれ人生が続くというのは、時として残酷かもしれない。自分の過ちや失敗を悔い続ける、痛みに満ちた歩みかもしれない。けれどそういう深い悔恨の中でこそ見える風景もあるのかな、と私は思う。そしてそれは、人生の「勝ち負け」とは全く異なる風景かもしれない。そうであればいいと思う。

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