行動のない「祈っています」は、真実か否か。

2013年11月9日土曜日

キリスト教信仰

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 クリスチャンどうしが交わす言葉に、「祈っています」というのがある。
 相手に神様の祝福があるようにとか、何か良いことがあるようにとか、抱えている問題が解決するようにとか、そういう意味合いで使うことが多いと思う。それは純粋な「祈り」の行為というよりは、相手に対する気遣いと言ったほうがいいかもしれない。もちろん本当に祈るとしても、それを相手に伝えるということは、やはりそこに気遣いがあるからだ。

 また、それは誰かの誕生日に渡す「寄せ書き」などによく見られる台詞だ。ぶっちゃけ、無難な言葉だ。少なくとも私は、特に書くことが思いつかないときは「祝福をお祈りしています」などとよく書いてきた。
 
 けれどそれは、「無難な言葉で片づけた」みたいな悪い意味合いでもないと思う。何故ならそれは前述の通り「気遣い」であり、クリスチャンの「社交辞令」みたいなものだからだ。それに相手の為に祈るということ自体、決して悪い結果をもたらすものではない。

 ところが昔、知り合いが、「祈ってるよなんて気軽に言わないでほしい」と言っていた。真剣に悩んでいる時にそんな言葉は無責任だ、という訳だ。その気持ち自体はよくわかる。私も困っている時に「祈ってるよ」と言われて、「どうせ他人事なんだろう」と腹立たしく思ったことがある。
 けれどその言葉の背景にある(一応の)「心配り」を思うなら、やはり感謝して受け取るべきだろうとは思う。

 それはそれとして、「祈っています」をすんなり受け止められる時と、受け止めがたい時とがある。前者は単なる社交辞令で済む場合、後者は済まない場合だ。たとえば誕生日の寄せ書きなら「祝福を祈っています」で済むけれど、詐欺に遭って全財産を失った人に対しては、それでは済まない。「祈っています」と言うだけでは無責任な気がする。昔のテレビドラマ「家なき子」の名台詞、「同情するなら金をくれ」と似たような気持ちを、相手に抱かせるのではないか。

 この「祈っています」に腹を立てるのは、相手がその言葉以外、自分に何もしてくれないからだろう。誕生日のお祝いなら「祈っています」で充分だけれど、飢え死にしそうな時には何の役にも立たない。相手のことを本当に思うなら、何らかの行動があってしかるべきなのだ。だから行動のない言葉だけで済まそうとすると、前述の知り合いのような気持ちにもなる。そういう意味で、「祈っています」はそれ相応の行動が伴うべき言葉だと思う。
 もっとも、これは信仰の話というより一般常識の話であろうが。

 また、「祈り」というのはクリスチャンにとって、その信仰の根幹にあるものだと思う。神様を信じるからこその行為であろう。だからこそ自分自身の為に祈ると同時に、他者の為にも祈るのだ。しかしこの「互いの為に祈る」という行為が、社交辞令としてなら受け取れるが、本当に困った時には受け取れないのだとしたら、それは信仰の在り方としてどうなのかと私は疑問に思う。

追記)
 要は祈るなら行動もしろという話だけれど、もちろん中には、何の行動もできない事柄というのはあると思う。

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