「神学論争」という言葉がある。
Weblio類語辞典によると、「結論の得難い議論のこと」となっている。いつまでたっても結論が出ない不毛な議論、という否定的なニュアンスで使われることもある。そのニュアンスに異を唱える意見もみられる。
私個人はと言うと、キリスト教の聖書解釈における神学論争自体を、否定的に捉えているつもりはない。けれどその論争に費やす労力を思うなら、できるだけ遠慮したいと思っている。
しかし結論が得難いのは、なにも聖書解釈だけの話ではない。例えば神道とかヒンズー教にみられる多神教と、キリスト教とは相容れない。キリスト教やユダヤ教やイスラム教は一神教だけれど、やはり相容れない。宗教でなくても、例えば日本国憲法改憲についても意見は分かれるし、安楽死の是非についてもそうだ。
そういう議論を深める場合、例えば知識や経験が増えることで、あるいは誤解が解けることで、意見を変えることはある。けれどそれは単に知識不足だっただけのことだろう。そうでなく個人が長年培ってきた信念や価値観は、何度かの議論でそうそう変わるものではない。むしろ変わらないと思った方がいいかもしれない。だからこそ議論の多くは平行線のまま、物別れに終わってしまうのではないだろうか。
以前も「クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきか」という話を書いたけれど、私は実際にその議論の場にいた。それは長い議論だった。けれどその結果どうなったかと言うと、何も変わらなかった。各人の対立が際立っただけだと思う。
結局のところ、人は自分の信じたいものを信じるのではないだろうか。例えばクリスチャンはヒンズー教の信仰を間違いだと信じているけれど、同じようにヒンズー教徒はキリスト教を間違いだと信じている。憲法改憲派は護憲派を説得しようとするけれど、逆もまたそうだ。それぞれの信じていることが絶対的な真実なのであって、それを他人に指摘されたところで、簡単に変えるものではないと思う。むしろ反対されることで、より強硬に主張するようにもなる。
そしてそれは、クリスチャンの聖書解釈にも当てはまるだろう。
私は少なくともここで聖書解釈議論をするつもりはない。むしろ聖書解釈は、ある程度の幅があっていいとさえ思っている。もちろん「伝道しなければ地獄に堕ちる」みたいな恐怖に陥れる解釈は論外だけれど、さほど結果を左右しない事柄であるなら、違っていてもいいのではないだろうか。それより私が重視したいのは、「その解釈の結果どうなるか」「その解釈の結果何をするか」だ。
人の価値は、知識や経験よりも、その行動にあると私は常々思っている。例えば「擦り傷には絆創膏を貼ればいい」と知っていることと、実際に絆創膏を貼ってあげることとは違う。聖書を完璧に暗唱していることと、その言葉通りに行動することとは違う。
この「絆創膏を貼る」をキリスト教の最も基本的な教理だと仮定すると、「縦に貼るか」「横に貼るか」は解釈の微妙な差、「貼らずに塩を塗る」が論外な解釈だと言える。擦り傷を負った人からすれば、縦に貼られようが横に貼られようが、どっちだっていいはずだ。少なくとも塩を塗られるよりずっとマシだろう。本当に必要なのは絆創膏を貼られることであって、貼り方は問題ではない。
私は、熱心に主に仕えていると思いながら、いつの間にかまったく的外れなことになってしまっている、以前の私自身のような人々へ、何かの「気づき」を提供できればと思っている。その為に、時として私自身の聖書解釈を持ち出す必要がある。けれどそれは私にとって、実はあまり重要なことではない。重要なのは、「その信仰の行いは本当に正しいのですか」「その苦しみは本当に価値のある、神の為の苦しみですか」と問いかけることにある。
この問いかけを必要とする人がいないことを、あるいは少ないことを願うばかりである。
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私のレスポンスから出て来た部分も有ろうかと思いつつコメントさせていただきます。
返信削除「結局人は自分の信じたいものを信じる」という言葉は某クリスチャンブロガーも書いておられ、私もそういう部分は有ると思っています。ヒンズー教徒とキリスト教徒の例を出しておられますが、私自身もそういう説明に自民党員と共産党員を用いることが度々有ります。更に、私が別な視点からのコメントをするのも、何かの「気づき」を提供できないかと思ってのことです。
つまり、聖書箇所へのアプローチは異なる場合が有りますが、発信する姿勢は私も同じ意図によるということです。
まあ、絆創膏の例示で言えば、絆創膏を持っていてもそれが防水タイプか通気タイプかなどの区別もついているかということが実際に貼る時には必要なことも有ります。
初代教会の牧者・長老の務めは聖書の解釈がキリストの示した方向に沿っているかということを判断して、異なったものを退けるというものであったことや、ベレヤの信徒が聖書を調べたことが肯定的に捉えられていることから考えると、生真面目なキリスト教徒が聖書解釈の意見交換に俊なのは、いわば霊的DNAの働きとでも表現できるような側面が有るという部分もご寛容をもって受け止めていただければと思ったりいたします。
信仰は「心だけの問題」とする主張と、「人生の全て」とする主張で、大きく違って来るでしょう。
返信削除確かに、現実生活において神の御力を感じ、証となるべき事が出てき来たならば、それは大勢の人々に影響を与え、確かに神とともにある人はその生活自体が違う、とでも表現できるような体験談として語られるでしょう。
特異な体験談は確かに信仰を助長するし、教会にとっては面目躍如とでも言うべき証のトピックスでしょう。
しかし表面上、全ての人に「等しく」ないお取扱い。信仰深い方だからとか、日々聖書を読み祈り、御心を求めているなどの、漠然とした「敬虔さ」をもって比較対称にするのは、おかしいのでは。
どうも「現世ご利益」的な信仰(宗教)と変わりなく、それを教会単位で小グループなどに分け成長を促すなど、もうキリストの十字架で全て解決したんだから、ほっといてと言いたいですよね。「そのままで良いんだよ」ですよね~!
あの学びこの学びその学びどの学び・・・・・ウィークデーは仕事仕事の毎日で疲れ果てています。週末であっても、公務員でなければ「休み」などありません。
すぐ「お客さん」からのTELで対応。週末は家族の事で家の事で対応しなければ。
確かに教会は大事。しかしその前に家族が大事!あたりまえ!
頭を冷やせ!!
マリック様
返信削除コメントありがとうございます。
確かに家族の方が大切で、それは当たり前のことだと思います。
けれど、そのことがわかっていて、自分も家族を大切にしているつもりだけれど、実は教会とか奉仕とかを大切にしていた、ということもあるかなと思います(私がそれでした)。
そのことに気づいたなら、もしかしたらそれこそが「神の恵み」なのかもしれませんね。