絆創膏を持っていることと、貼ることの違い。聖書解釈とその結果について思うこと。

2013年11月12日火曜日

キリスト教信仰 生き方について思うこと

t f B! P L
「神学論争」という言葉がある。
 Weblio類語辞典によると、「結論の得難い議論のこと」となっている。いつまでたっても結論が出ない不毛な議論、という否定的なニュアンスで使われることもある。そのニュアンスに異を唱える意見もみられる。
 私個人はと言うと、キリスト教の聖書解釈における神学論争自体を、否定的に捉えているつもりはない。けれどその論争に費やす労力を思うなら、できるだけ遠慮したいと思っている。

 しかし結論が得難いのは、なにも聖書解釈だけの話ではない。例えば神道とかヒンズー教にみられる多神教と、キリスト教とは相容れない。キリスト教やユダヤ教やイスラム教は一神教だけれど、やはり相容れない。宗教でなくても、例えば日本国憲法改憲についても意見は分かれるし、安楽死の是非についてもそうだ。

 そういう議論を深める場合、例えば知識や経験が増えることで、あるいは誤解が解けることで、意見を変えることはある。けれどそれは単に知識不足だっただけのことだろう。そうでなく個人が長年培ってきた信念や価値観は、何度かの議論でそうそう変わるものではない。むしろ変わらないと思った方がいいかもしれない。だからこそ議論の多くは平行線のまま、物別れに終わってしまうのではないだろうか。
 以前も「クリスチャンはクリスチャンと結婚すべきか」という話を書いたけれど、私は実際にその議論の場にいた。それは長い議論だった。けれどその結果どうなったかと言うと、何も変わらなかった。各人の対立が際立っただけだと思う。

 結局のところ、人は自分の信じたいものを信じるのではないだろうか。例えばクリスチャンはヒンズー教の信仰を間違いだと信じているけれど、同じようにヒンズー教徒はキリスト教を間違いだと信じている。憲法改憲派は護憲派を説得しようとするけれど、逆もまたそうだ。それぞれの信じていることが絶対的な真実なのであって、それを他人に指摘されたところで、簡単に変えるものではないと思う。むしろ反対されることで、より強硬に主張するようにもなる。
 そしてそれは、クリスチャンの聖書解釈にも当てはまるだろう。

 私は少なくともここで聖書解釈議論をするつもりはない。むしろ聖書解釈は、ある程度の幅があっていいとさえ思っている。もちろん「伝道しなければ地獄に堕ちる」みたいな恐怖に陥れる解釈は論外だけれど、さほど結果を左右しない事柄であるなら、違っていてもいいのではないだろうか。それより私が重視したいのは、「その解釈の結果どうなるか」「その解釈の結果何をするか」だ。

 人の価値は、知識や経験よりも、その行動にあると私は常々思っている。例えば「擦り傷には絆創膏を貼ればいい」と知っていることと、実際に絆創膏を貼ってあげることとは違う。聖書を完璧に暗唱していることと、その言葉通りに行動することとは違う。

 この「絆創膏を貼る」をキリスト教の最も基本的な教理だと仮定すると、「縦に貼るか」「横に貼るか」は解釈の微妙な差、「貼らずに塩を塗る」が論外な解釈だと言える。擦り傷を負った人からすれば、縦に貼られようが横に貼られようが、どっちだっていいはずだ。少なくとも塩を塗られるよりずっとマシだろう。本当に必要なのは絆創膏を貼られることであって、貼り方は問題ではない。

 私は、熱心に主に仕えていると思いながら、いつの間にかまったく的外れなことになってしまっている、以前の私自身のような人々へ、何かの「気づき」を提供できればと思っている。その為に、時として私自身の聖書解釈を持ち出す必要がある。けれどそれは私にとって、実はあまり重要なことではない。重要なのは、「その信仰の行いは本当に正しいのですか」「その苦しみは本当に価値のある、神の為の苦しみですか」と問いかけることにある。

 この問いかけを必要とする人がいないことを、あるいは少ないことを願うばかりである。

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