テレビやインターネット等のメディアに対する警戒心を、クリスチャンは割と強く持っているのではないかと思う。
テレビは通常時間帯に暴力表現や性的表現の強いものを流すし、インターネットは更に容易にそういった情報にアクセスできてしまう。メディアとの付き合い方は、クリスチャンとして熱心(?)であればあるほど、頭を悩ますのではないかと思う。
おそらくそういう背景があってのことだと想像するけれど、そういうメディアの視聴制限をかなり強く主張するクリスチャンの人たちがいる(主に海外の方々のようだ)。彼らは独自の研究をしているらしく、「メディアには巧妙に悪魔の声が刷り込まれている」と言う。
彼らの主張をビデオで観たけれど、その「刷り込み」の手法というのは、どうやら「サブリミナル効果」のようだ。よく知られている映画やドラマ、コマーシャル映像等に、ほんの一瞬、あるいは非常に小さく、あるいは象徴的に、暴力表現や性的表現やその他の良からぬ表現が混ぜられているという。あるいは有名アーティストの楽曲を逆再生すると、「殺せ」などの「悪魔の声」にもなるという。
要は、「知覚できない刺激は潜在意識に強く働き、その人の行動を左右する」という、90年代に流行ったサブリミナル効果理論であって、悪魔がそれを利用して人に罪を犯させようとしている、という主張だろうと思う。
「サブリミナル効果」と聞いて一般的に想起するのは、映画フィルムの合間に「コーラを飲め」というメッセージを挿入しておいたらコーラの売り上げが伸びた、とする1957年のジェームズ・ビカリー氏の実験だろう。それがキッカケでサブリミナル効果は世間の注目を浴び、禁止されるに至っている。だから何となく危険なもの、怖いものという認識があるのだと思う。
けれど、その後のさまざまな実験結果によると、サブリミナル効果によって人の行動がコントロールされるとは実証されてはいない。そして前述のビカリー氏本人も、自分の実験結果について確証がないと発言している。だから少なくとも現時点では、サブリミナル効果は存在そのものが怪しい、そしてフィクションの題材として好まれる、いわゆる「偽科学」の域を脱していないのだと思う。
そういう土台のあやうい理論をもっともらしく取り上げ、おどろおどろしい演出で、「メディアには悪魔の声が刷り込まれている」と熱く語る様子を見ると、何となく、昔テレビで見た「あなたの知らない世界」を私は思い出してしまう。
あるいは百歩か千歩か一万歩か譲って、サブリミナル効果に人をコントロールする力があるとし、それを操る悪の組織があり、人々を罪に陥れようとしていると仮定してみよう。そうするとそもそも、悪の組織はそんな手の込んだ真似をする必要はないということになる。なぜなら人は放っておいても罪を犯すものだからだ。それに「悪魔の声」をメディアの隙間に隠す必要もない。それは巷に溢れているからだ。
もう一つ、「そういうコントロール下にあるから罪を犯してしまうのだ」としたら、それは性善説であって、聖書が言っていることとは違うような気がする。
サブリミナルがあろうがなかろうが人は罪を犯すものだし、クリスチャンはそれを避けようとして、結果的に、そういう刺激の強い種類のメディアを避けようとするのだろう。そういうことを知恵として、あるいは良識として子供や後輩に教えるのは良いと思う。けれど人を脅かすようにして「この作品はダメ」「あの歌手はダメ」「テレビはダメ」と強制するのは、いわゆるメディア規制ではないだろうか。そしてその考え方が目指すのは、情報統制ではないかと思う。
そういうメディア規制や情報統制、思想弾圧をしている国々を、我々のような資本主義社会は批判的に見ているはずだ。しかしそれをクリスチャンが自らやろうとするのであれば、キリスト教は魅力のないものどころか、きわめて危険な宗教と思われるのではないだろうか。
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