被害が伝わらないという二次被害。カルト化教会の被害について。

2013年11月5日火曜日

カルト問題

t f B! P L
独裁的・カルト的キリスト教会の過剰奉仕、虐待的指導といった隷属から抜け出せない構造について、今まで何度か書いてきた。それに対して、「辞めたければ辞めればいいのに」「何も気にすることはないでしょう」というようなお言葉を頂いた。

そういうコメントを頂けること自体は大変感謝なことで、私は励ましとして受け取らせて頂いている。
けれどやはり、その恐ろしさというか巧妙さというか、そういう実感は伝わりにくいのかな、とも思う。

そこで、この「辛いけれど辞められない」という状態を少しでも表現することができればと思いつつ書いてみたい。

■字面だけではわからないニュアンス

まず、そういう教会のリーダーの言うことは、字面だけ見ると何の問題もないものが多い。

「人格以上の働きはできない」
「精一杯働き、結果は主に委ねる」
「神の為に全てを捨てることは、全てを得ること」
「できないと言うと本当にできなくなる」
「従えない時にあえて従うのが本当の従順」

などなど、むしろ立派な、格言的なことを言っていると思う。真面目な信仰者であれば、「よし、がんばろう」となるだろうし、実際私はそうだった。確かに大変なことも沢山あるけれど、これが神様の御心なのだからそれ以上の祝福があるはずだ、と信じることができた(だからこそ継続できたと思う)。

けれどそれらの言葉には、「どれくらい」という程度が示されていない。前回も書いたけれど、「精一杯働く」というのは連日徹夜、自分の会社勤務も犠牲にしなければならない程の労働を指す場合がある。「従い得ない時に従う」というのは、どんな理不尽な命令にも完全服従することを意味している。

言っていることは正しい。しかし度を超えている、ということだと思う。

けれどこれは私自身も今だからわかることであって、当時は「度を超えている」という認識はなかった。あくまでリーダーの為でなく、神のために働いているつもりだったし、神の為ならどこまでもやらねばならないと思っていたからだ。

そしてそれを拒否することは不信仰を意味し、不信仰とされることは、(私にとって)クリスチャン失格を意味していた。だから、辞められない。

仮にそういう状況を、リーダーに不満として訴えるとする。リーダーはこう言うだろう。「私の言っていることが間違っているのか。ではどこが間違っているのか言ってみなさい」
しかし前述のように、発言自体は間違いではないのだ。

これは、そういうことに理解のない第三者に相談してしまう時にも起こる。危機的状況がまったく伝わらず、「いったい何が問題なのか」と不思議がられる。下手すると、単にワガママな信徒が、まっとうなリーダーに楯突いている、それではリーダーが可哀想だ、ということになってしまう。

これは、権威主義的なリーダーが対外的には好印象を与えているということも作用している。「あの立派な牧師がそんな問題を起こすはずがない」ということで、逆に信徒の方がおかしいと疑われてしまう。

結果、被害状況がまったく伝わらない。信徒からすると、二重三重の痛手を負うことにもなる。

■あくまで神のせいにする巧妙さ

以前も書いたけれど、そういうリーダーは、明確な強要はほとんどしない。それよりは、「神が願っていることだから」という強調の仕方で、信徒が従わざるを得ない状況に持っていく。いわゆる事実上の強要なのだ。
だからそれを強要とは証明できない。なぜなら信徒が自ら従ったのは事実だからだ。

リーダーは仮に不利な状況になったとしても、「信徒が自ら神に従ってやったことだ」という言い訳でスルーできてしまうだろう(しかしそれは、虐待の責任を神に押し付けているだけだ。そんなことが見過ごされていいはずはないし、神ご自身は決してそれを見過ごさないと私は信じている)。

■伝わらなくても

体験していないことを、人はなかなか理解できないものだ。それは仕方のないことだと思う。けれど、じゃあ理解する為に同じ体験をしなければならないかというと、そういう話でもない。

けれど、聖書に書かれている沢山の失敗例が私たちにとって戒めであり、反面教師であり、初めから避けるべきとわかっている事柄であるのは間違いない。そういう先人たちの犠牲から学び、より賢く生きようとするのもまた、人間に与えられている素晴らしい能力の一つだと思う。
私は私の失敗談から、少しでも多くの人が少しでも賢く生きられるようになればと願うばかりである。

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