何らかの宗教を信仰することが理解できない、という人はいると思う。特に日本人に多いかもしれない。彼らは無神論者というのだろう。彼らからすると、神も仏も悪魔もインチキなのだろうと思う。
その気持ち自体を否定するつもりはない。何を信じるも信じないも、個人の勝手だと思うからだ。そしてそういう自由が保障されている現在の日本は、本当に良い国だと思う。
けれど、あくまで私個人の感覚として言えば、人間以上の何かの存在がこの世界の全ての秩序を造ったと考える方が、それが単なる偶然の産物だと考えるより、はるかに合理的で論理的だとは思う。例えば私は人体の構造やその細部の機能を学んできたけれど、細部に至るまで「実にうまくできている」としか言いようがない。これがたまたまできたものと考えるのは、ちょっと無理があるような気がする。
そういう私感や可能性の問題は置いておくとして(完全には置けないだろうけれど)、神がいると信じることで、そこまで損することはないのではないかと私は思っている。
もちろん、例えばキリスト教会に行けば献金することになるだろうし、仏教のことはよくわからないけれどお布施みたいなこともするのだろう。いろいろな宗教行為で時間が取られるというのもある。けれどそこまで何かの宗教にコミットしなくても、神や仏や何かを信じることはできる。そしてそのこと自体は、案外良い効果をもたらすこともあると思う。
作り話かもしれないけれど、こんな話を聞いたことがある。(細かいところはうろ覚えだけれど)イギリス軍の小隊が、戦争中に敵国の捕虜となり、収容所に収監された。非常に劣悪な環境の中、次第に荒んでいく兵士たちの正気を保ったのは、架空の「お姫様」の存在だったという。きっかけは、一人の兵士がふざけて、目に見えないお姫様を自分たちの監獄に招待した、というふうに振る舞ったことだった。高貴なレディの前で失礼があってはならない、ということで見えない相手に対して紳士的に振る舞い、丁寧な言葉遣いで話しかけていた。周りの兵士たちも(面白がってかもしれないが)次第にそれに乗っかり、最後は全員でその「お姫様」に仕えるようになった。結果、監獄の中で軍隊としての規律が回復していったという。そういう彼らの様子を見た看守たちは、「身分の高い女を隠しているな」と本気で思ったらしい。
この話はフィクションかもしれないけれど、全くあり得ない話でもないと思う。
極限状態に置かれた人たちが、やむを得ない事情があるとはいえ、常軌を逸した行為に走るということがある。例えばマイケル・サンデルが「功利主義」の説明で引用した、1884年のミニョネット号の難破事故と、その生存者たちによるカニバリズム事件もその一つだろう。それに比べると上記のイギリス兵たちは、逆に極限状態でモラルを保ち続けた好例を示していると言えるだろう。
それと同じような意味合いで(と言ったら真面目なクリスチャンの方に怒られるかもしれないけれど)、神がいると信じることで、何らかのモラルを維持し、より良い影響を他者に与えることができるとしたら、それは決して悪いことではないと思う。
それに、人は基本的に、何かを信じなければ生きられないような気がする。上記の無神論者というのも、結局は「神はいない」と信じているのだろう。何故なら神が絶対にいないとは、誰にも証明できないはずだからだ。
どうせ何かを信じるのなら、神はいると信じて、その神が示す規範に従って生きるのも選択肢の一つだと思う(もちろんその規範に従う価値があると思えなければ成立しないけれど)。そしてそれは、決して悪い結果を生むものでもないだろうと思う。むしろそれによって道を踏み外すことから守られ、助けられることもある。
もちろん初めに書いたように、無神論でも構わないと思う。ある意味そういう人は強いのだろうと思う。何故なら神はいないとし、どんな時も自分自身の力や判断に頼り、道を開き、その全ての責任を一身に背負うというのは、決して簡単なことではないと思うからだ。
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