教会との距離感の取り方

2013年11月10日日曜日

キリスト教信仰

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 教会とどう付き合うかは、クリスチャンであれば各々考えるところだろう。特に教会員であれば、その教会との距離感は、人生を左右する。そしてその距離感は、各人の立場や信仰や価値観などを反映している。

 例えば牧会に携わる牧師は、教会との距離感はほぼゼロではないかと思う。牧師はいろいろな意味で教会活動の中枢を担うから、それに薄く浅く関わるというのはあり得ない(もちろん不可能ではないはずだけれど)。
 また教会役員とか長老とかいう立場の人たちも、同様に教会に深く関わらなければならない。牧師と同様、教会との「距離」はそもそも存在しないかもしれない。
 一方、一般信徒については、いろいろなケースがあると思う。非常に献身的に関わる人もいるだろうし、ほとんど日曜だけの付き合いという距離を取っている人もいるだろう。
 フルタイムで教会で働くスタッフ(牧師もそうかもしれない)は、距離感で言えば特殊な立場にあると思う。何故なら教会が職場だからだ。

 いずれにせよ、究極的には、各人が自ら願ってそうしている部分が大きいと思う。牧師にしても役員にしてもその役に就きたいと願ってのことだろうし、そうでなくても、その立場を厭わなかった結果だろうからだ。一般信徒も基本的にそれは変わらない。よっぽどカルト的・独裁的で「事実上の強制」がなされる教会なら別だけれど、本当に願わないことは誰もしていないはずだ(ある程度の責任感が動機となることはあるだろうけれど)。

 教会とどういう距離感を持てばいい、という正解はないと私は思っている。それは各人の生き方であり選択であるべきだからだ。しかし、バランスについてはよくよく考えるべきだと思う。
 例えば教会の奉仕の為に、家族との時間を犠牲にするという話をよく聞く。仕事の為に家族との時間を削らなければならないサラリーマンは大勢いるから、「それの何が悪い」と言われるかもしれない。けれど教会が職場でない以上(職場であってもそうだが)、それと同列で考えるべきではない。

 それにいくら教会全体が「神の家族」であっても、それは血縁の家族とは根本的に違う。中には「教会は自分の家族と同じだ」と言い張る人もいるけれど、例えば身内の誰かが事故で人を死なせてしまったとか、突然失踪したとか、あるいは不治の病に罹ったとかという時、それに最後の最後まで付き合い、経済的にもその他のことにも無制限の責任を負うのは、神の家族でなくやはり血縁の家族だ。どれだけキレイ事を並べたとて、他人のためにできることには限度がある。
 それを考えるなら、例えばある週末を(自分の家族を含む)教会全体で一緒に行動したとして、それで「家族の時間を持った」とは言えない。それはあくまで家族全員が、教会行事の為に、家族との時間を犠牲にしたに過ぎない。

 もちろん独身で、まったく天涯孤独の身であるなら、自分の時間を何にどれだけ捧げても問題はない。けれどそうでないなら、そして「十戒」の第5番目が「父と母を敬え」と言っているその真意を汲むなら、教会の誰かでなく、まずは自分の家族を大切にし優先すべきだ。

 だから教会との距離感は個人の自由で良いと思うけれど、その結果、自分の家族に犠牲を強いているのだとしたら、その距離感には見直しが必要だと思う。自分の願いを優先しすぎている可能性があるからだ。

追記)
「教会との距離感」という言葉を聞くだけで、「神の御心に反している」とか「全てを捧げていない」とか「不信仰だ」とか言うとしたら、カルト的傾向が強い証拠だと私は思う。

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