単なる「努力」にすり替わる「神の恵み」

2013年11月20日水曜日

キリスト教信仰

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「神の恵み」というのがあって、クリスチャンには馴染みの深い言葉だと思う。要は「神様が人間に対して良くして下さった何か」というようなことだろう。細かい定義は教派等によってイロイロだろうから、例によってしない。けれど間違いなさそうなところで簡単に分類すると、次の二つになると思う。

■一般的な恵み
 これは全人類に等しく与えられている恵みで、例えば地球環境が人間の生存に適している、という類のものだと思う。「善人にも悪人にも雨を等しく降らす」というような表現が聖書にある通りだ。
 この意味で、全ての人が神の恵みを受けていると言える。

■特別な恵み
 これはクリスチャンや教会に対して、その個別の状況や必要に応じて特別に与えられる恵み、というようなものだと思う。これは未信者にはない、クリスチャンの特権とも言えると思う。
 けれどこれをどう扱うか、何がこの種の恵みなのか、よくよく注意しなければならない。

 例えば、私が知っているケースで言うと、新会堂を探していたらちょうどいい物件を見つけられて、かつオーナーと何度か交渉したら家賃を減額してもらえたとか、作ったポスターが今までになく斬新だったとか、非常に険悪な関係だった人たちを牧師の仲介で和解させられたとか、そういう良い結果・望ましい結果は全て神の恵みということになる。
 そういう話を礼拝やミーティングの場で大々的に(多少の誇張を込めて)して、みんなして「ハレルヤ」「すばらしい」と大喜びするのは、ちょっとポジティブ過ぎというか、単純過ぎる気がする。

 もちろん広義には、あらゆることは神の恵みの中にある、と言えると思う。しかしそうであるなら、そしてヨブが痛みの中で告白したことを思うなら、苦しいことや辛いこと、理解できない不幸もまた神の恵みなのではないだろうか。

 しかし、良いことは何でも神の恵み、ということで喜んでいるだけならまだ単純でいいと思う。これが、例えば上記の「不動産物件を何度か交渉して減額させた」というのを当然の「神の恵み」とすると、大変な事態にもなる。何故ならその手の交渉術、実務力、ビジネススキルがなければ神の恵みは見られないということであり、その交渉に失敗することは神の恵みがないということで、「祈りが足りない」「不信仰だ」「何か罪があるだろう」と責められることになりかねないからだ。

 こうなると、もはや「恵み」でなく「努力」だろう。しかしそういう思考パターンの中にはまり込んでしまうと、そんな簡単なこともわからない。

 じゃあ何が特別な「神の恵み」かと言うと、実は私にはよくわからない。長年上記のような「良いことは何でも恵み」パターンの中にいたからかもしれない。
 けれど一つ、私にとってまさしく神の恵みなのは、そういう間違ったパターンに気づかせてもらえた、ということだ。

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