2015年1月31日土曜日

クリスチャンと「癒し」の関係

 神様が今も「癒し」を行うかどうかについては、同じクリスチャンでも教団教派によって立場が分かれる。両者が議論したら永遠に平行線をたどることになると思う。

 ここでよく取り上げる聖霊派は、現代の「癒し」をかなり積極的に肯定している。以前も書いたけれどこんな感じだ。
「アフリカでは癒しがバンバン起こっている」
「アメリカの〇〇聖会では病人が癒されまくっている」
「東南アジアでも奇跡的な癒しが起こり始めた!」

 なぜか全部海外の話で、日本ですごい「癒し」が起こったという話はほとんど聞かない。個人的には聞いたことがあるけれど、あくまで「聞いた」だけであって、事実関係は確認できていない。

 たとえば、「すごい癒し」ではないけれど、こんな話がある。
 長年腰痛がひどかったけれど、〇〇先生に祈ってもらったら骨盤の歪みを指摘された。それで座って両足を伸ばしてみたら、本当に脚の長さに左右差があった。けれど〇〇先生に祈ってもらったら瞬間的に左右差がなくなり、腰痛が楽になった(気がした)。ハレルヤ!
 という。

 これはけっこう聞く話である。ということは日本では、神様は骨盤の歪みによる腰痛だけは積極的に癒される、ということだろうか。他の病気はさほど癒されないのだろうか。腰痛にご利益のある神様なのだろうか。

 ちなみに、脚の長さの左右差はほとんどの人にある。それと脚の長さは座った状態では測らない。元々の姿勢の歪みや座る時のクセ、お尻の筋肉の左右差などが影響して、正確に測れないからだ。脚の長さは通常うつぶせで、訓練を受けた人が測る。
 だから座って測ると、長さの左右差はその時々によって変わってしまう。差が大きいこともあれば小さいこともある。それに祈る時間、意図的に片方の足が引っ張られていれば、徐々に姿勢が変わって一時的に伸びて見えることもあるだろう。

 そういう知識がないと、純粋な人は「脚が瞬時に伸びた」と思い込んでしまう。だからこの「脚が伸びる祈り」は、言葉が悪いけれど、手品好きが定番として披露する手品に似ている。簡単にできてよく驚かれる。

 現にこの「祈り」で腰痛が治ったという人も、そのうちまた腰痛を訴えるようになる。そして同じ「祈り」を受けて「また治った!」というのを繰り返す訳である。それはほとんどプラセボ効果的な現象であって、「癒し」とは言い難い。だいいち本当に癒されたのなら、すぐに再発するなんてことはないだろうに。

 というわけで聖霊派の皆さんは「癒し」が現代も起こると真面目に信じている向きがある。べつにそれを否定しようとは思わない。本当にあるかもしれない。
 けれど上記のような「検証不能な海外のすごい話」とか「脚が伸びるトリック的な祈り」とかを見ると、なんだかすごく怪しく思えてくる。

 でもマジメに信じる人は信じる訳で、やはり真剣に「癒し」を求めている。特に深刻な病気を抱えている方にとっては切実な問題である。それでもっと長時間祈ったり、「癒し」関連の書籍を読み漁ったり、「癒し」の集会に足しげく通ったりする。けれど現実には癒されない。でも「癒し」はあると信じているから諦めない。牧師も信徒も応援して祈ってくれる。それでまた新しい「癒し」に飛びつく、ということを延々繰り返すことになる。

 それでも癒されないとどうなるか。彼らにとって神様は癒しを行う正しい方なので、癒されない原因は神様でなく自分自身にある、と考える。何か罪があるのか、祈りが足りないのか、何か特別な行為が必要なのか、というような発想になる。
 それで「癒しのミニスター」に触れてもらったハンカチを後生大事に持ってみたり、「家系の呪い」を断ち切ってみたり、「病の霊の結界」を断ち切りに行ったり、みたいな奇行に走ってしまう。

 よく聖霊派の牧師は、「癒しには祈り手の信仰と受け手の信仰の両方が欠かせない」と言う。どちらが欠けても癒しが起こらない、という訳だ。けれど聖書を見ると、必ずしも信仰のある人が癒されるのではないことがわかる。それは恵みであって、受けるに値する人が受けるのではない。

 だから「癒し」を信じて果てしない奇行に走ってしまうクリスチャンは、まずそのへんの聖書理解から考え直す必要がある。
 またそれだけ「癒し」を求めているなら「長血の女」の話は当然知っているだろうけれど、この長血の女が自分自身であり、彼女を長年苦しめてきた医者たちが上記の牧師たちであるということに気づくべきだと私は思う。

2015年1月29日木曜日

クリスチャンによるクリスチャンのため(だけ)のクリスチャン映画。映画『神は死んだのか』から。 

 クリスチャン映画『神は死んだのか』の感想は以前にも書いたけれど、時間が経って見方が変わったので追加したい。

 私はさほど前情報なく同映画を観た。だから初めは「無神論vs有神論」の高尚な議論が中心なのかと思っていたけれど、フタを開けるとクリスチャンによるクリスチャンのため(だけ)のクリスチャン映画であった。だから議論的にも立場的にも無神論の方がそもそもの出発点において不利な作りになっていた。

 これはフィクションとしては悪いものではない。不利に見えた主人公側が最終的に有利になる、というのがストーリーの王道だからだ。たとえば水戸黄門の敵キャラは悪徳商人とか悪代官とかが多く、身分を隠した黄門様より偉いけれど、「印籠」後は立場が逆転する。助さん格さんも強すぎる。主人公側に負ける要素がない。視聴者はそういう安心感を持って観ているし、初めやられていた主人公側が圧倒的に逆転する、そのカタルシスを毎回楽しみにしている。

 映画『神は死んだのか』にも同様の流れがあって、初めは主人公=一介の学生=孤立無援=激しい葛藤=勝ち目なしの設定で、敵役=ベテラン大学教授=全生徒が味方=余裕綽々=負ける要素ナシとなっている。けれど最終的には主人公は超理論武装(どうやってあれだけ準備した?)で大逆転、一方の教授は無神論というよりただの子どもっぽい嫌神者であることが露呈して敗北する。

 クリスチャンによるクリスチャンのため(だけ)のクリスチャン映画であれば、それで良い。けれど「無神論vs有神論」の議論の行方は? みたいな宣伝だとこの映画の本質をとらえていないことになる。何故ならこの映画では上記のようにクリスチャンは有利に、未信者は不利に設定されているからだ。

 この映画に出てくる未信者はとにかくイヤな人間、不幸な人間、正直でない人間として描かれている。
 まず主人公の恋人。何年も交際していたらしいけれど、主人公が単位を落とすかもしれない状況になると、あっさり別れてしまう。まだ何も決まっていないのに決断が早急すぎる。未信者は薄情だと言いたいのだろうか。

 次にフリーの女性記者(?)。クリスチャンに対して批判的な記事など書いていたらしいけれど、途中で癌だと分かる。すると彼氏に捨てられ、仕事もできなくなり、自暴自棄になっていく。未信者には不幸なこと、悪いことが起こると言いたようである(その逆にクリスチャンは逆境に陥っても最後は幸福になれる、と描いてる)。

 そして無神論者の権化である哲学教授。初めは無神論に絶対の自信があるように見せているけれど、結局ホーキングの言葉を引用するだけで、それ以外の論理的根拠を何も持っていない設定になっている。これでは議論にならない。
 くわえて敬虔なクリスチャンだった母を病気で亡くした過去があって、そのせいで神を逆恨みしているつまらない人間、ということになっている。そのうえ奥さんはクリスチャンで、矛盾だらけの存在である。
 結局のところ彼は無神論者でなく嫌神者なのであって、初めから「無神論vs有神論」の議論の土俵には立てていない。そこを突かれて議論に負けるのだけれど、これは議論とは言わない。

 挙句にこの大学教授、最後は不運な交通事故に遭って死んでしまう。死ぬ間際、たまたま居合わせた牧師によって悔い改めるのだけれど、まるで未信者は不幸な目に遭って死ぬ羽目になる、と言いたいようである。
 そして上述の女性記者同様、死の恐怖に直面すると誰でも神にすがりたくなるという場面を用意して、「ほら、みんな神様が必要でしょ」という話に持って行く。

 べつに無神論者を擁護する気はないけれど、これではあまりにクリスチャン贔屓というか、未信者差別というか、フェアでない作りになっている。これはクリスチャン映画だからそれでいいのだけれど、「無神論vs有神論」の公平な議論を期待して観るものではない。

 またこの映画を取り上げて「聖霊様イチオシの映画です」とか言っているクリスチャン(?)がいるけれど、何度も書いている通りこれはクリスチャンによるクリスチャンのため(だけ)のクリスチャン映画であって、一般向けでは全然ない。そして一般に向かない映画が「聖霊様イチオシ」になるはずがない。何の伝道にも証にもならないからだ。
 もしこれが伝道映画だとしたら、クリスチャンになると必ず幸福になれる、良いことが起こる、賛美集会でハッピーになれる、という誤解を与えることになる。そうだとしたら軽い詐欺行為であろう。だから伝道映画ではないと私は言うのである。

 これはクリスチャンの立場から描いたほとんど未信者イジメのクリスチャン映画であって、最終的に悪代官を罰する水戸黄門と同じ構造のフィクションである。そういう理解を持って観るならクリスチャンとして単純に楽しめる映画なのは間違いない。未信者には勧められないけれど。

2015年1月27日火曜日

クリスチャンが陥りやすい「善意の押し付け」について・その2

 前回は「イスラム系テロリストが改心して救われるように祈ろう」に対する違和感について書いた。
 その関連で書くけれど、現在クリスチャンに改宗するムスリムが急増している、と聞いたことがある。

 にわかに信じがたい話だけれど、複数のルートから同じ話を聞いたから、信じている人は少なくないようだ。それによると、多くのムスリムが「夢や幻」によって直接的にキリストを啓示され、改宗しているとのこと。ダマスコに行く途中のパウロ(サウロ)にキリストが現れて改心させた話を引用して、「それと同じことが起きている。熱心な迫害者に直接キリストが現れ、熱心なキリスト者に変えている」と主張する。

 そういう人が「多い」ということだけれど、どこの誰かという話は全然聞かない。それだけの大改宗が起きていれば注目を受けそうだけれど、そんなこともない。

 同じような構造の話は他にもあって、たとえば、

「死者が次から次へとよみがえっている!」
「病人がどんどん癒されている!」
「リバイバルが起こりまくっている!」
「聖霊様の傾注がハンパない!!」

 というのがあるけれど、それが詳しくどこの地域で、よみがえったのが誰々さんで、足が生えてきたのが誰々さんで、医療機関もそれを証明している、みたいな確かなリソースはどこにもない。というかそういうリソースがあれば報道機関が黙っているはずがない。

 だから「クリスチャンに改宗するムスリムが急増している」と聞いても、同じような構造の話ではないかと思ってしまう。

 だいいちキリストが直接的にムスリムに現れて救いへ導いているとしたら、神ご自身が大宣教命令を撤回したことになる。「人間に任せてたら時間かかるから自分でやるわ」とか言って現れたことになるからだ。

 もちろんキリストがパウロに現れたのは聖書の事実だと思う。けれどそれは大宣教命令前の話である。それでも現代においてキリストが個人に現れる可能性がないとは言わないけれど、なんでムスリムにばかりピンポイントで現れるのだろうか。神様にしては不公平ではないだろうか。

 それに、これを逆の立場で考えてみたらどうだろうか。
 たとえばアラーの神が現れて「私こそ神だ。信じなさい」と言ったらクリスチャンは信じるだろうか。
 仏様が現れて同じことを言ったらクリスチャンは信じるだろうか。
 他のイロイロな宗教のイロイロな神様が劇的に現れて劇的なことを言ったら、クリスチャンは信じるだろうか。

 そう考えると、キリストが現れたからと言ってすぐ信じるムスリムがいるとも思えない。信仰心とはそんな単純ではないだろう。

「キリストが現れた」と聞いて「すごい」と思うのは基本的にクリスチャンであろう。けれど自分たちにとって「すごい」ことが他宗教の人たちにとっても「すごい」とは限らない。そういう想像力が欠如しているから、「キリストの直接啓示によってクリスチャンになるムスリム急増」という話に簡単に跳び付くのではないだろうか。

 そしてそうだとしたら、やはり独り善がりな「善意の押し付け」でしかない。もうちょっと自分軸から離れて、他者に配慮する余裕を身に着けるべきだと私は思う。

2015年1月26日月曜日

クリスチャンが陥りやすい「善意の押し付け」について

 25日の夜、イスラム国によるラジオ放送が、湯川遥菜氏の殺害を伝えた。24日の夜には湯川氏の遺体と見られる写真を持った後藤氏の画像がyoutubeに投稿された。湯川氏が本当に殺害さたのか、そして後藤氏がまだ生存しているのか、まだ何も確認されていない。
 
 初めからそうだと思うけれど、これは宗教や政治の話でなく、単なる犯罪である。仮に動機が宗教や政治だとしても、誘拐や殺人に至るなら明らかにやり方が間違っている。彼らがイスラム教徒だとしても、その犯罪行為はイスラム教の主義主張とは全然関係ない。
 
 日本のキリスト教会を見てみると、「二人の無事を祈りましょう」という立場が多い。それはごく自然な反応だと思う。けれど中には「イスラム系テロリストが改心して救われるように祈ろう」というのがあって、私はその発想がちょっと気になった。
 
 もちろん、他宗教の人がクリスチャンになるのを願うのはクリスチャンとして当然のことだろう。神様もそれを願っていると思う。
 
 しかし同時に神様が大切にしているのは個人の自由意思、自由選択のはずだ。だから現にムスリムや仏教徒や無神論者が存在している。宗教のみならず人々はいろいろな主義主張を持って生きている。相容れない立場、対立する立場はどこにでもある。神様はある程度の許容量をもってそれらを許しておられる。
 
 と考えると、ムスリムの人に対してイスラム教は悪いもの、劣ったもの、間違ったものだと断定し、キリスト教は正しいもの、優れたもの、唯一絶対のものだと押し付けるのは自由意思の尊重とは言えない。
 
 かと言ってキリスト教が正しくないとか、イスラム教が正しいとかいう話ではない。何が正しいか正しくないかの話でなくて、他人が大切にしていることに敬意を払えるかどうかの話だ。
 
 そして敬意を払えるなら、「イスラム系がクリスチャンになるように」みたいな一方的な価値観の押し付けはできないはずだ。「そんな信仰間違ってるから捨ててしまえ」と言っているのと同じだからだ。
 
「じゃあムスリムの救いのために祈るなってことか」みたいなヘリクツは勘弁してもらいたい。もちろん祈るのは自由だ。
 けれど「ムスリムの救い」を本当に願うなら、祈る以外にも行動すべきだ。行動のない祈りは意味がない。そしてその行動とは、いろいろな形で彼らに近づくことだろう。接触を持てなければ何も伝えられないし、伝えられなければ救いも何もない。
 
 そしてムスリムの人に近づくとして、「そんな信仰捨ててしまえ」という態度で接するのはケンカを売りに行くようなものだからやめた方がいい。
 
 たとえばあなたをまったく尊重しない、不遜な態度のセールスマンがやって来て「この商品は良い、素晴らしい」とうまく説明したとして、あなたはそれを買うだろうか。その前にそのセールスマンを追い出さないだろうか。
 
 だから正しいかどうかの前に、相手を尊重できるかどうかが大切だと私は思う訳である。もちろんテロリストの主義主張や犯行は尊重できないけれど、少なくとも「〇〇がクリスチャンになるように」という発想の根底に、相手に対する善意の押し付けがないかどうかは考えるべきであろう。

2015年1月24日土曜日

教会を離れた人に何をすべきか

 教会を離れた人に対して教会やクリスチャンはどうするべきだろうか。
 よくあるQ&Aを見ると、答えは2つあるようだ。

 ちなみにここで言う「教会を離れた」は、仕事とか学業とか家族とかの都合でやむを得ず離れたのでなく、もっと感情的で個人的な、「行きたくない」という動機によるものである。

 そういう人への対処法として、とあるQ&Aが挙げる答えの1つ目は、「その人との個人的な関係を維持しておく」ことだ。
 教会に行きたくない、牧師の顔を見たくないという人でも、仲の良い信徒となら会いやすい。だから時々会うことで関係を維持しておき、その人がまた教会に行きたいと思った時に気兼ねなく戻れるようにしておく、ということらしい。

 もう1つは、「礼拝の大切さを教える」ことだ。
 クリスチャンは礼拝を通して神様と霊的につながり、力を受ける。だから礼拝しないことは神様から離れること、力を失うことだと教えるべきだ、という。

 どちらももっともらしく聞こえるけれど、ちょっと待てよと私は思う。

 1つ目の個人的関係の維持自体には、さほど異論はない。人と人の付き合いは自由であるべきだからだ。けれど教会を離れた人がそこの信徒に会うと、どうしても教会を想起してしまう。だからあまり会いたくないのではないだろうか。会うにしても、自ら「会いたい」のではないだろう。

 そしてその個人的関係が続くかどうかは、信徒の側のやり方次第だと思う。
 信徒の最終目標がその人との個人的関係の維持でなく、あくまで教会に戻すことにあるとしたら、きっと続かない。どれだけ受容と共感の態度で接しても、結局のところ信仰とか神様とか祈りとかをその関係に持ち込んでしまうからだ。でも相手はそれがイヤで離れたのである。

 だから信徒の側はよっぽど注意して接しなければならない。そもそも教会に戻ってもらおうなんて思っていたら無理だと思う。あくまで相手との関係を楽しむとか、相手そのものに興味関心があるとか、そういう付き合い方でないと続かないだろう。そしてその先には、必ずしも教会への復帰がある訳ではない。

 それくらいの覚悟と理解がなければ、個人的関係の維持はできない。そういうことがわかった上で挙げた対処法なのだろうか。

 もう1つの対処法、「礼拝の大切さを教える」だけれど、これはあくまで正論であって、異論をはさむ余地はない。
 けれどこの視点に欠けているのは、人間はいつも正論だけで動くのではないという事実だ。

 たとえばカルト化教会を抜け出た人は、教会や礼拝から離れることでかえって安息を得ている。はじめて自由になったと感じ、人間らしさを取り戻し、自分の生活を回復している。教会生活が長ければ長いほどそのギャップは大きい。

 これはおそらく経験した人でないとわからないけれど、「礼拝することで力を受けます」と言われてもまったく同意できない。むしろ礼拝と聞くだけで拒絶反応が出たり気分が悪くなったりする。どれだけ理屈をこねられても、現に教会から離れたことで力を取り戻したのだし、教会と聞くだけでその力を失いそうになるのだから、正論は正論、現実は現実で完全に別なのだ。

 もちろんこれはクリスチャンになりたての人の話ではない。信仰歴が長く、礼拝の大切さがよくわかっている人の話だ。

 それにこの2つの対処法はどちらも、教会を離れた理由をその個人に求めている。その人に何か問題があって、教会生活がしづらくて、それで離れたんだという理解になっている。教会の側の問題を認める姿勢がない。少なくとも積極的に認めて変えようという姿勢はない。

 だから「個人的関係を持っていつか教会に戻れるようにしてあげよう」「礼拝の大切さを教えてあげよう」という果てしない上目線なのだ。そもそもそれがイヤで教会を離れたかもしれないのに、そういう想像力が働かない。それは人を理解することでも愛することでもない。としたらその教会なりクリスチャンなりは自ら率先して聖書に反していることになる。

 という訳で、教会はもちろん信徒を大切にしなければならないけれど、離れてしまった人のこともそれと同等がそれ以上に大切にしなければならないと思う。
 そして教会をもっと良くしたい、改善したいと思っているなら、そのヒントは教会にいる信徒たちにでなく、離れて行った人たちにこそあるのではないだろうか。

クリスチャンの「祈り」あれこれ

 前回クリスチャンの祈りについて書いたので、その関連で「祈り」についてこまごま書きたい。

・社交辞令としての「祈り」
 
 前回も書いた通り、クリスチャンにとって「祈ってます」は社交辞令としても使われている。挨拶代わりである。と言っても完全なる挨拶ではなく、そこには本気で「祈ります」という気持ちとか、そのことを気にかけていますという気持ちも含まれている(はずだ)。
 
 けれど同時に、「祈ってますね」と言った後で本当に祈った、というケースはどれくらいあるだろうか。私は案外少ないのではないかと思う。「祈りのノート」みたいなものをいつも携行していて、マメに書いたり見返したりする人でなければ、実際には難しいはずだ。そしてそれ以前に、教会と関係ないところで祈る時間を確保すること自体がまずハードルとして存在しているだろう。

 だから、もちろん事の重大さによっても変わるだろうけれど、文字通り社交辞令となってしまう「祈ってます」は少なくないと思う。
 私自身を振り返ってもそうで、何度祈らない「祈ってます」を言っただろう。とんだ偽善者である。そしてそういう自分を棚に上げるようだけれど、だからこそその台詞には社交辞令的機能があるのだろう。

・絶対視される「祈り」

 逆に上記の「祈りのノート」みたいなものを携行している人もいる。

 実例を挙げると、百人前後の教会員それぞれの「祈りの課題」をノートに記載して、毎日毎日、何時間もかけて祈る人がいる。「とりなし手」とか「インターセッサ―」とかいう役割を自覚しているとのこと。
「神様が自分に祈るように命じている」ということで、ノートの内容を一通り全部祈らないと落ち着かなくて眠れない、だから1日も欠かさず全員のために祈る、という訳だ。

 これは大変ご苦労様なことで、頭が下がるのだけれど、なんだか苦行のような気がしてならない。

「毎日全員分とりなして祈らなければならない」のが義務なら、それをしないと祝福を失う、損失を被る、あるいは悪いことが起こる、ということになる。祈らないクリスチャンを神様は罰する、ということだ。そんなこと聖書は言っていない。

 あるいは「自分が祈らなければダメだ」と思っているとしたら単に傲慢である。もちろん「自分の祈りを神様は聞いて下さる」と信じていなければ祈れないけれど、「自分の祈りこそ皆に必要だ」というのはとんだ勘違いである。だったら永遠に生き続けて祈り続けなければダメだろう。

・掲載され続ける「祈り」

「祈りの課題」を毎週週報なんかに掲載する教会は多いだろう。「〇〇さんの癒しのために」とか「△△さんが救われるように」とか「××の祝福のために」とかイロイロある。

 人間忘れやすいので、そういう風に毎週注意喚起されるのは良いことだと思う。また皆で誰かのこと、何かのことを気に掛けるのも良いことであろう。

 けれど気づくと、何年も変わらず掲載され続ける課題もある。
 たとえば「新会堂が与えられるように」とかいうのがあるけれど、1年間まったく進展しなかった事案が、2年目3年目になって動き出すということは基本的にない。新会堂で言えば「与えられる」のを待つのでなく、何か実際に動き始めなければならない。

 また「〇〇さんの救いのために」祈り続け、30年とか40年とか経ってから実際に救われた、という話を聞いたことがある。それだけの期間祈り続けたのは尊敬に値するけれど、「〇〇さんが救われるのに私が祈って40年かかった」とか言うのは違う。救ったのは神様であって、40年祈ったあなたではないからだ。またあなたが40年祈ったから救われたのでもない。もしそうだとしたら、あなたが40年祈らなければ救われない人間が存在することになり、神を全能でなく無能にすることになる。

・特定の時間、方角で捧げなければならない「祈り」

 毎日何時から何時まで祈る、と決めている人がいる。それ自体悪くないし、習慣づけには良い方法である。

 けれどたとえば「この時間はイスラエルの夜だから、イスラエルを守るために祈らなければならない」というのは全然聖書的でない。その考え方の根本にあるのは「人間の祈りがないと神は悪魔に勝てない」という類の発想だ。また「神のために祈ってあげている」みたいな発想にも繋がる。

 あるいはイスラエルの12の門にそれぞれ「霊的な意味がある」と主張し、それぞれの門を名指して祈る人がいるけれど、ほとんど陰陽師の世界である。そのうち鬼門とか裏鬼門とか言い出しかねない。あるいは風水か。聖書よりオカルト誌の読み過ぎであろう。

2015年1月22日木曜日

「クリスチャンの為だから祈る」のと「クリスチャンの為にも祈る」の違い

 イスラム国による邦人誘拐事件が大きく取り上げられている。人質となっているのは二人の日本人男性、湯川遥菜氏と後藤健二氏。どちらも高額な身代金が要求されている。支払わなければ二人を処刑するという趣旨の動画も流された(すでに削除されている)。ご家族や関係者の心痛はいかほどか。日本政府の対応に注目が集まっている。

 ところでこの後藤氏がクリスチャンだとわかると、「祈りましょう」という話が一部の(?)クリスチャンの間で広まった。そしてそれに対して「なんでクリスチャンだからって祈るの。クリスチャンでなくても祈るべきでしょう」というもっともな意見も出た。同意する人も多いだろう。

「〇〇がクリスチャンだから祈りましょう」というのは結構聞く。
 たとえば〇〇さんはクリスチャン国会議員だから、
 〇〇さんは戦地で働くクリスチャン医師だから、
 〇〇さんはクリスチャン××だから、
 という感じで、「ぜひ祈りましょう」「祈って下さい」となる。

 もちろんそれは悪くない。自分と同じ信仰の持ち主が社会貢献しているから応援しよう、という単純な動機であろう(たぶん)。その人の活動によってクリスチャンが増えるかも、という期待もあると思う。

 またそこには(表現は悪いけれど)社交辞令的な面もあると思う。
 たとえば「〇〇さんってクリスチャンなんだって」と聞いたとする。聞いたあなたはどう答えるだろう。もちろん「ふうん」と聞き流してもいい。けれどクリスチャンっぽく見られたいと思ったら、「祈りましょう」と答えておくのが無難であろう。実際に祈るかどうかは別として。

 つまり「祈ってます」という台詞には、クリスチャンにとって日常の挨拶みたいなニュアンスもある(と思う)。

 だから上記の状況で「クリスチャンだからって祈るのはおかしい」という意見はちょっとズレている気もする。もちろん一理ある。クリスチャンがクリスチャンのためだけに祈るとしたら、誰が未信者のために祈るのか、と言いたいのであろう。たしかに私たちはどちらかと言うと未信者のためにこそ祈るべきだろう。

 けれど私が思うに、「〇〇がクリスチャンだから祈ろう」と言う人が、世界平和とか未信者の救いとか、身内以外のことのためにはまったく祈らない、なんてことはない。そういう人がいたらちょっと異常である。

 そこには時間的・物理的限界もある。私たちが日々入手できる情報には限りがあるし、祈るにしたって時間的にも体力的にも限界がある。世界中の全ての悲劇のためには到底祈れない。

 だから自分が知れる範囲で、正しい情報だと確認できる範囲で、祈るしかないと思う。
 それである時「〇〇さんクリスチャンなんだって」と知らされたなら、それはそれで祈る対象ができた訳で、「じゃあ祈ろう」となるのはごく自然なことだ。そこには相手がクリスチャンだから特別だみたいな意識は基本的にないはずだ。たとえば昨年の御嶽山の噴火の時は「ご遺族のために祈ります」と言う人が沢山いたけれど、遺族の方々の信仰は知りようがない訳だから、信者・未信者の区別などなかったはずだ。

 もちろんマララさんについて書いた時のように、クリスチャンじゃないとわかった途端関心を失う、みたいな人もいる。そういう人にこそ、「クリスチャンだからって祈るのはおかしい」と言ってあげるべきだと私は思う。

2015年1月21日水曜日

賢いクリスチャンとそうでないクリスチャンの分かれ目

 たとえば「異言」を語れるとか「預言」を語れるとか、「霊を見分けられる」とか「霊的に戦っている」とか言うクリスチャンがいる。それらの行為に対して「何言ってんの」「それ本当なの」とか疑いをかけると、彼らの答えはだいたい決まっている。

「これは回復された真理であって、霊的に覚醒していない人にはわからない」

 みたいなことを言う。
 ハナから自分たちが正しく、特別で、優っていると信じて疑わない。信じない人、疑う人は自分たちより下等という訳だ。そういう表現を直接的にしなくても、結局のところ同じようなことになってしまっている。

 そういう「特別な人にしかわからない」という概念そのものを聖書は否定していない。キリストは「新しく生まれなければ神の国は見えない」と言っている。けれどそこには人間としての優劣とか上等下等とか序列とかいうニュアンスはない。また努力とか祈りの長さとか敬虔さとかいう条件もない。それに異言とか預言とかいう現象の話でもない。

 ひるがえって上記の「賜物自慢」を見てみると、優越感や特別意識に満ちている。「自分たちは秘密の真理を回復された、特別な使命を帯びたクリスチャンだ」と自負している。というか自慢している。そしてそういう態度そのものが聖書の支持するクリスチャン像に反している。

 特別な人にしかわからないというのは、逆に言えば一般的には否定されるということだ。
 ここで彼らは「救いに至る門は狭い」とか持ち出してマイノリティの利点を説く。けれどいつも大勢が間違えていて少数が正しいとは限らない。もちろん大勢が騙されていることもあるけれど、少数が大きな勘違いをしていることもある。それは内容による。

 その内容だけれど、彼らが言う「異言」も「預言」も「見分ける」もその他諸々も、だいたいは内外の有名牧師・宣教師や有名教会の受け売りでしかない。誰々がこう言ったから、というのが彼らの主要な根拠となっている。

 自分で聖書をちゃんと読んでいるなら、たとえば「ダダダ」とかの単音の繰り返しが、言語としての「異言」であるはずがないのは明白だ。「預言」にしたって予測可能なこと、万人にあてはまることなら簡単に言える。私もウソの預言をしようと思えば、いくらでも本当らしくできると思う。「いや、私が受けた預言は個人的なことだったから本当だ」と言う人は、手品師の手法をちょっと学んでみることをお勧めする。

 そのへんの聖書学習とか一般常識的な吟味を無視して、「私は特別な真理を知っている」とするのは浅はかでしかない。それこそ神に対する冒涜であろう。神が言ってもいないことを「言った」と主張しているのだから。

 たとえば彼らは進化論を取り上げて、「猿が人間になる訳がない。進化論は明らかに間違ってる」と言う。もちろん猿は人間にはならない。種が違うからだ。その意味で進化論にも誤りはある。けれど全てが誤りではない。たとえばウィルスは絶えず変異し進化しているから、去年インフルエンザA型にかかって免疫を獲得した人も、今年の新しいA型にかかる恐れがある。細菌は抗生剤に耐性をつけるように自らを進化させている。ゴキブリも殺虫剤に耐性をつけた種が誕生している。環境に適応するための進化は、現に存在しているのだ。

 そういうことを学ぶなら、「進化論=間違い」という単純な決めつけはできなくなる。
「異言」にしたって賛否両論分かれた議論がずっと続いている訳で、それを単純に決めつけてしまうのは、やはり愚かなことだ。

「私は知っている」と思うより、「私は多くを知らない」とする方がイロイロな間違いに陥る危険が少ない。そしてそれこそがクリスチャンとしての賢さだろうと私は思う。

2015年1月19日月曜日

本当のことを言える相手

 本当のことを言える相手がいるだろうか。
 
「本当のこと」と言っても程度があるけれど、とにかく本当のことだ。
 
 教会の牧師や先輩信徒に「何でも正直に話してほしい」と言ってくるタイプがいるけれど、それで正直に話す人がどれくらいいるだろう。経験的にはほとんどいない。
 
 たとえば牧師にもタイプがあって、グイグイ押してくるのもいるし、手綱を長くして待っているのもいる。最初から親しげな態度でくる友達感覚のもいれば、学者肌でそもそも相談相手にならないタイプもいるだろう。
 
 しかしいずれのタイプにせよ、牧師に正直に話してみると、最終的には「聖書は」とか「神様は」とか「これからはもう罪を犯してはいけない」とかいう正論に持っていかれるケースが多い。牧師だから仕方ないかもしれないけれど。
 たとえばとても話づらい、自分の(聖書的な)罪に関する内容だとする。意を決して話してみると、最初は心理学的「受容と共感」で聞いてくれても、最後は「でも聖書はね・・・」となる。つまり結局のところ受容されないのである。最初の受容はとりあえずのポーズでしかない。
 
 こう書くと「罪を受け入れないのは当たり前だ」とか言われそうだけれど、そういう話でもない。なぜなら「罪を受け入れられない」のは相談者自身だってそうで、だからこそ苦しんで相談するのだから。悪いと思っていなければ悩まないし相談もしない。
 
 罪を犯してしまう自分を自分がまず受け入れられないのだし、他人も受け入れてくれそうにない。でも神に仕える牧師になら・・・と期待して話してみるけれど、上記のように期待を裏切られる結果となる。むしろ裁かれたような形になって、傷つくことになるかもしれない。
 
 またそこまで深刻な内容でなくても、牧師に話すとなるとどうしても構えてしまう人が多いだろう。正直に話していいと言われても、どこか飾った内容になるのではないだろうか。
 
 牧師の立場は、突き詰めると聖書的価値観である。だからどんなに優しそうでも親しみやすそうでも最後は「ダメなものはダメ」となることが多い。そしてそうなるとわかってしまったら、信徒はもはや本当のことは話せない。当たり障りのない関係を続けるしかなくなる。あるいは牧師に喜ばれそうな信徒を演じなければならなくなる。
 
 本当のことを話せる相手とは、自分自身の場合で考えてみれば簡単にわかると思うけれど、何を言っても裁かない、黙って聞いてくれる、どうなっても味方でいてくれる、というような相手だ。そうなると牧師や先輩信徒はほぼ除外される。そして同年代の親友と呼べるような人間だけが残るだろう。クリスチャンかどうかにかかわらず。というよりクリスチャンでない方がそういう相手になってくれる可能性が高いように私は思う。
 
 映画『リービング・ラスベガス』は、アルコール依存症のベンと娼婦サラの奇妙な愛の物語である。人生に絶望したベンは「死ぬまで飲み続ける」と決心していて、サラはそんな彼にウィスキーボトルをプレゼントする。結局ベンは死んでしまうので何の救いもない話だけれど、少なくとも彼はサラに本心を余すところなく話せたはずだ。何の遠慮も飾りもなく。そして本心でないキレイごとを並べて当たり障りなく生きるよりは、正直な生き方ではないだろうか。
 
 安心して本当のことを話せる環境が教会にないとしたら、クリスチャンはその存在意義についてよく考えなければならないと思う。「こうあるべき」というキレイごとばかりで表面を取り繕うとしたら、教会に何の価値があるだろうか。

2015年1月17日土曜日

クリスチャンに不可能がないなら世界はもっと良くなっているはず、という話・その2

前回は聖書を文脈無視する牧師による「クリスチャンに不可能はない」説について書いた。今回は信徒の側が陥る「できる・できない思考」について書いてみたい。
 
 教会での信徒の地位を決めるのは、たぶん信仰歴の長さとか人徳とか「賜物」とかだと思う。とりわけ「賜物」は重要で、たとえば「異言」が話せるとか、「預言」が語れるとか、「霊を見分けられる」とかだと地位がグッと上がる。すごく「霊的」と思われて、特別視されるからだ(もっともそれらの賜物自体が眉唾モノである)。
 他にも歌が上手だとか、楽器が上手だとか、話がうまいとか、何か特別に秀でた部分があると有利になる。
 けれどそれはぶっちゃけ、能力的序列でしかない。「できる」人がより高い地位に就くという、一般社会では当たり前な法則に従っているに過ぎない。そしてそれは「人の上に立ちたい者は皆に仕えろ」という聖書的基準に正面から逆らっている。
 
 けれどそういう序列を好むのもまた人間の性である。弟子訓練などの序列組織を取り入れてしまうのもそこにある。「できる・できない」の世界だ。しかしそこにこだわって「自分の教会での地位は高い」と思っている人ほど、いい年して人格的に成熟していないのをよく見る。
 
 たとえばある教会で賛美奉仕している人がいる。ちょっと名が知られているらしく、アメリカの教会に呼ばれて蹴った経験があるとのこと。だから自信があって「できる」と思っているのだろうけれど、その人の舞台での態度は「俺ってすごいでしょ」感丸出しである。映画で言えばセガールとかヴィン・ディーゼルあたりの俺様気取りに似ている。アクション映画ならそういう傲慢さがうまくハマるとむしろ良いのだけれど、キリスト教会の賛美リーダーがそれだと全然いただけない。見ている人を賛美から遠ざけてしまう。
 
 また、それとは逆に「何もできない」と言う人もいる。妙に卑屈になって「私は何もできない。何の賜物も能力もない。何の役にも立たない」とか言うけれど、ちょっと卑屈な気がする。実は何もやりたくないのか、他者と比較してひがんでいるのか、どちらかではないだろうか。
 
 私たちが自身に対して思う「できる・できない」は案外アテにならない。「賛美ができる」と思っていても、別の教会に行ってみたら全然ダメだったと気づくかもしれない。あるいは「人に聞かせる演奏なんてできない」と思っている人が、別の教会ではピアノが弾けるだけで重宝がられるかもしれない。
 
 それに「できる」から用いられるということでもない。たとえばちょっと勉強しただけで「カウンセリングができる」と自信満々になった人が、信徒に声を掛けて回る。自分が話を聞いてやって導いてやろうみたいに思っているけれど、余計なお世話だ。それは「できる」けれど「できていない」。
 
「できる・できない」は自分や他人が下す評価でしかない。それが大事でないとは言わないけれど、そこにこだわりすぎても仕方がない。私たちは「できる・できない」にかかわらずすべきことをするだけだし、やれるだけやってみるだけだ。そう思うなら「できる・できない」などそもそも何も関係ないことがわかる。

2015年1月16日金曜日

クリスチャンに不可能がないなら世界はもっと良くなっているはず、という話

 ピリピ4章13節を使って、「クリスチャンは不可能を可能にする」という論理展開をする人がいる。

 同節は「どんなことでもできる」と言っているから、文字通り解釈するならたしかに「不可能はない」ことになる。けれど現実にそんな人がいるだろうか。何でもソツなくこなす人はいるけれど、全部が可能とはいかないだろう。では聖書は無茶なことを言っているのだろうか。

 こういう論理展開をする牧師は、信徒が「できない」と言うのを許さない。「できないと言うな。聖書はこう言っているだろう」とか言ってピリピ4章を開かせる。だから信徒はいつも不可能に挑戦させられる。そしてそれが訓練だと信じさせられる。
 ちなみに、それがうまくできなければ反省会で公開処刑にされ、うまくできたら更にハードルが上がる。いずれにせよチェックメイトである。

 しかし聖書は(他のどの書物もそうだけれど)文脈で読まなければならない。そしてこの場合は、貧しい境遇にも豊かな境遇にも対処「できる」という話であって、オールマイティ的な「できる」ではない。しかし教える立場の牧師が文脈を無視するので、信徒の方も気づかない。

 オールマイティ的「できる」を主張する人は、不可能がいかにして可能になるかを実証するつもりでこんなクイズを出す。

「小さな食器洗濯機があって、2枚まで皿が入る。一度に洗えるのは片面だけ。洗うのに3分かかる。3分たったらひっくり返して、もう片面洗わないといけない。
 さて皿が3枚あって、9分で全部洗わなければならない。3枚とも両面洗うのは可能か?」
 という問題。

 ただこれは効率の問題であって、「不可能が可能になった」という話ではない。けれど「不可能に思えたことも可能になる」みたいに話を持って行かれるので、聞いている方は「どんなことも不可能ではない」ように思えてくる。要するに聖書の文脈から離れるようミスリードされてしまう。

 はじめから不可能と思ってはいけない、あるいは可能と思って事に当たらなければやり遂げられない、みたいな話はビジネス系の自己啓発本の常套文句だ。そしてそれ自体は一理ある。難しそうなチャレンジほど、「できる」と前向きに思って取り組まないとできない。

 それは一つの事実である。けれど、繰り返すが聖書の文脈とは関係ない。聖書は「頑張ればどんなことだってできる」なんて一言も言っていない。ピリピ4章13節は、単にパウロが「あらゆる(貧富の)境遇に対処する秘訣を知っている」と言っているだけだ。読み違えてはいけない。

 という訳で、同節を振り回して「できないと言うな」と言う牧師はニセ牧師であって信用してはいけない。ビジネスマンとしては良いかもしれないけれど、教会でものを教える立場にいてはいけない。

 あるいはもしビジネスマン的に自己啓発したいクリスチャンがいたら、そういう牧師に付き従えばいいだろう。けれどそれはあくまで自己啓発であって、信仰生活とも神様ご自身とも何の関係もないことはよく理解しておかなければならない。

追記)
 記事中のクイズの答えを一応書いておく。

①2枚の片面を洗う(3分)。
②1枚だけひっくり返し、もう1枚は取り出して3枚目を入れて洗う(3分)。
③先に取り出した1枚の裏面と3枚目の裏面を洗う(3分)。 
 

 あくまで効率の問題であって、不可能が手品のように可能になった訳ではない。こんなクイズ一つで「どんな不可能も可能になる」とか思わせようとしているなら、人を馬鹿にしすぎだろう。

2015年1月15日木曜日

「表現の自由」と「信教の自由」の議論以前の問題

 去る1月12日の夜遅く、仕事が終わって電車に乗ると、車内が妙に騒がしかった。見ると隣の車両をスーツの若者らがほぼ占拠していて、大声で笑ったり話したりしている。何かの専用電車に間違えて乗ってしまったかと思ったけれど、自分が乗った車両はいたって普通である。

 就活中の若者らがストレスが爆発して大騒ぎしてるのかな、くらいに思った。けれど皆、手に花束やら紙袋やら何やら持っている。あ、今日は成人式だったか、とそこで思い至った。新成人たちが大人の仲間入りをして、おそらく「初の」アルコールでいい気分になったのもあって、ハメを外していたのだろう。

 そういうのを見て「けしからん奴らだ」みたいな説教を始める人生の先輩もいるようだけれど、それはそれでウザい。人間だれしも若い頃があったはずで、さほど賢い生き方ができていた訳ではあるまい。むしろ消したい汚点が沢山あるのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。だから若い人たちのちょっと痛い光景を見ても、仕方ないよねと私は思う(ようにしている)。

 ところで成人式となると毎年各地で騒動が起きていたと思うけれど、今年はどうだったのだろうか。成人式で暴れる若者たちを見て「とてもじゃないが大人の仲間入りとは言えない」みたいなことを言う大人がいる。けれどそういう大人たちがどれだけ立派かと言うと、とっても怪しい気がする。去年もイロイロな不祥事があったけれど、まともに謝罪できた「大人」がどれだけいただろうか。

 そこからちょっと遡った1月7日、パリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」本社でテロ事件が起きた。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した同誌の関係者ら12名が、イスラム過激派によって殺害されたのだ。その後もテロは同時多発的な展開を見せ、世界中が注目することとなった。

 事件そのものは終息したけれど、関連した論争はまだ続いている。すなわち「表現の自由」が守られるべきか、それとも「信教の自由と尊重」が守られるべきか、というような議論だ。ちなみにシャルリー・エブド最新号は現地で行列ができるほどの人気で、eBayでも高値がついているようだ。

 そういう議論になるのもわかるけれど、そもそも同誌も過激派も「やりすぎ」ではないかと私は思う。問題の風刺画を含む何点かの絵を見たけれど、どれも風刺というより下品である。ムスリムではない私も不快に思った。
 しかし一方で、それに腹を立てて関係者を殺害してしまうのも明らかに「やりすぎ」だろう。自分たちが信じる偉大な預言者がバカにされた、その悔しさや憤りは多少はわかるけれど、かと言って殺していいはずがない。

 そういうことを考えると、どちらに対しても「いい大人なのに」と思ってしまう。もちろん話はそんな単純ではないのかもしれないし、パリの被害者と遺族の方々には言葉もない。けれど冒頭の新成人たちに比べて「大人」かどうかという点においては、大いに疑問だと私は思う。

追記)
 ちなみにシャルリー・エブドはキリストの風刺画も載せていて、これもやはり描写できないくらい下品である。でもキリスト教団体が過激な抗議活動に出たという話は聞かない。宗教の違いなのだろうか。
 聖霊派の一部のクリスチャンが「霊の戦い」で同誌を「打ち破った」かもしれないけれど、まあそれは現実世界には何の影響もないので無視していいだろう。

2015年1月14日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第51話

 さて、ついに『メボ・ルンド聖会』当日となった。
 
 教会は朝から大忙しである。スタッフらは皆正装で、それぞれ持ち場の準備に余念がない。溝田牧師がいつ姿を現すかわからないけれど、それまでに滞りなく終わっていないといけない気がして、皆緊張の面持ちである。
 
 キマジメくんもスクリーンに映るプロジェクターの画面を見ながら、歪みのない、左右の高低差もない長方形になるよう微調整していた。
 実は以前、同じようなシチュエーションで、「スクリーンの画面が曲がってるぞ」と牧師から執拗に注意されたことがあった。どう見ても曲がっているようには見えなかったけれど、椅子にふんぞり返った牧師の言うままに、プロジェクターを右にずらしたり左にずらしたりを延々30分くらい続けた。ついに「これでいいか」と牧師が言ってその作業は終わったけれど、結局作業前後で何が変わったのか、キマジメくんにはわからなかった。
「クリスチャンはどの分野でもプロにならなければならない。それが主の御心だ」と溝田牧師は言っていたけれど、プロジェクター設置のプロがどんなものなのかもキマジメくんには全然わからなかった。
 
 という訳で今日もプロジェクターと格闘したのだけれど、案外スムースに納得のいく表示になった。遠くから注意して見てみたけれど、歪みはないようだ。それで一安心したところで溝田牧師が現れた。「よしみんな、準備の手はいったん置いて祈ろう」

 その号令に従って皆が集まる。「輪になって」という指示の通り、皆で一つの輪を作る。「手を繋いで」と言われて手を繋ぐ。会堂の内壁に沿って大きな輪ができた。
「よし、じゃあ今日の『メボ・ルンド聖会』に主の大いなる打ち破りが起こるように祈ろう。癒しは主の御業だから、悪霊たちも嫌がる。だからどんな妨害をしてくるかわからない。私たちは身を引き締め、目を覚まして祈っていなければならない」
 牧師がよく通る声で言うと、「アーメン」と何人かが言う。そこで牧師の動きが止まった。
「今アーメンと言った者以外はアーメンじゃないのか? 同意できない者がいるということか? そんなことで主の兵士と言えるのか!?」
 牧師が早口でまくしたてる。慌ててそれに「アーメン」と言ってしまった人が複数いて、ほぼ同時に「あっ」という顔をして口をつぐんだ。
「それが目覚めていないということだ!」牧師が怒鳴る。「教会よ目覚めよ! 主の御名によって!」そして一人で異言で祈りだした。
 キマジメくんはどうしたらいいかわからなかった。他のスタッフらも同じようで、互いにチラチラ見合っている。しかしその中の何人かが牧師に続いて異言で祈り出すと、他のスタッフもそれに続いた。結局全員で異言の大合唱となった。
 
 その異言合唱の最中、牧師はスタッフの一人一人に手を置いて回った。「目覚めよ!」とか「ウェイクアップ!」とかイロイロ言っている。そして祈られたスタッフの一人が倒れると、それに続くように皆バタバタ と倒れ出した。そんなこんなで会場はいつもの祈りのミーティングみたいな熱気に包まれ、窓が曇る。
 全部終わったのは、祈り出してから1時間ほど経ってからだった。

「よし、これが教会の目覚めだ。人間は皆堕落するものだから、たえず祈って見張っていなければダメだ。だから身を引き締めろと私は言っているんだ」
 溝田牧師がそう締めくくる。
 そこで手が挙がった。「先生、質問なんですが」
 全員の目がその質問者に注がれた。例によってタタカイ兄弟である。
「何だね」と牧師。
「祈って見張るのはわかりますが、じゃあ先生のことは誰が見張るのですか?」
 その一言に、祈り終って脱力していたスタッフらの間に緊張が走った。キマジメくんにもその変化がはっきりわかった。溝田牧師はフンと鼻を鳴らし、タタカイ兄弟を見返した。
「私には海外のメンターが大勢いる。彼らが私を霊的に見張ってくれているから心配ない」と牧師。「そんなことよりタタカイ兄弟、君のその反抗的な霊性は、今日の聖会で癒される必要があるな。君のために、私が特別に祈ることにしよう」
「ありがとうございます」タタカイ兄弟はそれだけ言うと、会堂から出て行った。
 溝田牧師はかぶりを振る。「彼はまだ若いからな。何もわかっていないんだ」そして気を取り直したように、「さあみんな、最後の準備に取りかかてくれ。ミュージックチーム、もうリハーサル始められるのか?」
 言われたミュージックチームの若者たちが緊張の面持ちでハイと返事をした。キマジメくんはスクリーンのことで何か言われるかと思ったけれど、とりあえず何もなかった。聖会開始まであと2時間を切っていた。(続く)
 
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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2015年1月13日火曜日

感動の演出はあくまで演出であって、神の臨在とは関係ないという話

 前回ヒルソングのライブDVD "This is our God"の話が出たけれど、その関連で書きたい。

 マイケル・ググリムッチ氏の「末期癌でも癒しを信じて舞台で歌います」がウソだったのは前回書いた通りである。製作サイドがその事実を知っていたかどうかは定かでない。もし知っていて出演させたのなら、ヒルソングチャーチとしても謝罪しろという話になるだろう。逆に知らなかったのなら、教会としても騙されたことになるから、偽りを見抜けなかったことになる。となると超自然的な「霊を見分ける賜物」は彼らにはないことになる。

 いずれにせよ、彼らが感動的な「演出」を好んだのは否定できない。
 酸素を吸わなければ呼吸困難になるような末期癌患者を舞台に立たせるのは非常に危険なことであって、医者や家族が認めないのが普通であろう。舞台上で倒れてそのまま死んでしまうかもしれない(Healerを歌いながら死ぬなんて悪い冗談である)。
 そういう危険を冒してまでググリムッチ氏を登壇させたのは、やはりそこに「見せ場」を意識したからだろう。個人の命よりもライブの盛り上がりを選んだ、と言われても仕方がない。
 やはり彼らが望むのは「感動の演出」なのである。

 もっとも冷静な目で見れば、末期癌患者があんなにコッテリ太っているはずがないとか、あんな血色のいい顔色なはずがないとか、突っ込むべきところはあったと思う。
 
 もう一つ、彼らが「演出」を好んだことの根拠を挙げるとしたら、同ライブのエンディングである。
 ライブの最後は"With everything"という曲で、普通にバンドが歌った後、静まったところで牧師(?)の仰々しい祈りが入り、その後会場は静寂に包まれる。しばらくすると会衆の一部がまた"With everything"を歌いだし、それが瞬く間に全体に広がっていく。会衆によるアカペラ賛美が自然発生的に始まった、という形である。するとどこからかドラマーが戻ってきて、キーボードも戻ってきて、リード不在の賛美がしばらく続く。という流れである。

 私はこれは初めて見たときから「ちょっとな・・・」と思っていた。
 普通ライブでは、アンコールも含めたタイムテーブルがきっちり組まれていて、終了時間から撤収完了時間まで事前に計画されている。だから終わるとすぐに会衆は退場を促されるし、スタッフはさっそく後片付けを始める。よっぽど規模の小さいライブハウスなら多少の融通は効くかもしれないけれど、ヒルソングチャーチほどの規模だとそうはいかない。片付けにしたって相当時間がかかるから、ノンビリしている余裕はないはずだ。

 くわえてライブには大量のカメラが入っていて、前述の「自然発生的な」会衆賛美が始まるまでの静寂を、当たり前のように撮影し続けている。これは事前に計画されていないとできない動きだ。つまり撮影担当の人たちはこれから何が起こるのか知っていたことになる。

 という訳でこれは「自然発生的に会衆賛美が始まった」という「演出」と考えるのが妥当だろう。私が普段書いている表現を使うなら、感動の捏造ということになる。ただ、ググリムッチ氏のウソはちょっと看過できないレベルだったけれど、こういう教会の感動的演出は、もうそういうものだと捉えるしかないような気がする。なぜなら聖霊派教会は盛り上がるのに感動を必要としているからだ。
 
 そして演出だと理解した上であえて感動を求めるという人がいるなら、もうご自由にどうぞである。毎回「水戸黄門」の同じシーンで泣くようなものだけれど、心行くまで泣いたらいいのではないだろうか。

 けれど、そういう感動的演出を真に受けてしまう人がいるとしたら問題である。演出は演出であって、実は神の臨在とは何の関係もない、ということはちゃんと知っておかなければならない。それが聖霊派教会との付き合い方の基本だろうと、このDVDのことを思い出しながら考えてみた。

身内の不正は晒すべきか隠すべきか。「末期癌パフォーマンス」に思うこと

 海外のちょっと見過ごせないニュースが日本で全然報じられていない、というケースがあったので書きたい。
 
 本人が公式に認めているから実名で書くけれど、オーストラリアのクリスチャンシンガー、マイケル・ググリムッチ氏が2006年から2年間、自身を末期ガン患者だと偽っていたという。ヒルソングのライブDVD "This is our God" で、酸素吸入をしたまま「癒し」の信仰を宣言して"Healer"を歌うググリムッチ氏の姿を観ることができる。それが良く言えば「演出」、悪く言えばウソだったという訳だ。
 
 
 同氏がカメラの前で泣きながら謝罪する姿の真偽はともかく、公式にウソを認めて謝罪したのは事実のようだ。youtube上のコメントを見ても、ググリムッチ氏に同情的なものが多い。
「ウソでさえも神様は益に変えて下さる。この歌(Healerのこと)は本当に素晴らしい」みたいな感じである。
 
 以前から書いている通り、私はかつて熱心な聖霊派クリスチャンだったと思う。上記のDVDも持っていて(今も家のどこかで埃をかぶっている)、よく観たものだ。だからググリムッチ氏の名前自体は最近まで知らなかったけれど、末期ガン患者なのに酸素を吸いながら舞台に立って歌うクリスチャンのことはよく知っていた。非常にセンセーショナルな姿だった。
 
 だからそれが真っ赤なウソ(繰り返すけれど、良く言えば「演出」?)だったのはガッカリだ。私が普段書いていることが証明された形でもある。
 ちなみに同DVDを観て「神の臨在に溢れている」とか言っていた日本人牧師は一体どうなのだろうか。その感性(霊性?)は信用していいものだろうか。
 
 それはともかく、ググリムッチ氏のウソは残念ではあるけれど、彼が必要な謝罪と補償を済ませたのなら、これ以上何も言及することはないと私は思う。社会的制裁も受けているだろうし、「末期ガンでも主を賛美するパフォーマンスで目立ちたい」という発想の幼稚さを、誰より彼自身が痛感しただろうからだ。
 
 それより私が問題に思うのは、そういう見過ごせない情報が日本で全然報じられないことだ。関連ワードで検索しても日本では何も出てこないし、上記のDVD"This is our God"を販売しているキリスト教系サイトを見ると、「2年間ガンと闘ってきた・・・」なんてまだ書いてある。事実を知らないか、あるいは知っていて黙っているかのどちらかではないだろうか。
 
 私もtwitterの交流で最近たまたま知ったのだけれど、そうでなければ未だにググリムッチ氏を末期ガンのシンガーだと思っていたことだろう。そしてそういう人は多いはずだ。
 
 海外のことであっても、クリスチャンという身内の恥はさらしたくないという心理が働くのかもしれない。ただでさえ劣勢なキリスト業界のイメージダウンは避けたいのだろうか。それはそれでわからないではないけれど、だったら尚のこと、身内の不正は身内が正すべきではないだろうか。そういう自浄作用が働かないとしたら、キリスト教って何なんだろうという話になるだろうし、誰もわざわざ信じる必要性を感じないだろうと私は思う。

2015年1月11日日曜日

「分かち合い」に期待されるのは効率か、それ以外の何かか。

 全てのプロテスタント教会に当てはまるかどうかわからないけれど、「分かち合い」という時間を持つことがある。横文字で「シェアリング」と呼ぶところもあるかもしれない。
 
「分かち合い」では主に自分の話をする。ここしばらくの個人的な信仰生活とか、何かの感想とか反省とか。ちなみに礼拝中に会衆の前で「分かち合う」のは「証(あかし)」と呼ぶ。
 要は自分が思っていることを皆に「分かち合う」行為である。
 
 余談だけれど教会はこういう専門用語が多くて、初めての人は「何のこっちゃ」が満載である。しかも意味が微妙に統一されてなくて、混乱することもしばしば。
 さらに余談だけれど私の場合、「ミナニヨリキヨメラレル」と聞いて「南より清められる」だとしばらく勘違いしていた。方角的に南って清いのかな、じゃあ北はダメなのかな、北枕って言うしな、じゃあ東と西はどうなんだろう、とか真剣に考えたものである(アホだ)。それが「御名により清められる」だと気付いたのは、けっこう経ってからだった。
 
 そんなことはどうでもいいとして。
 それで「分かち合い」なのだけれど、たいていは信徒が輪になって順番に話す。たとえば「先週はどんな信仰生活を送ったか」あたりが定番のテーマとなる。

 ここで個性が現れる。やたら長い話、やたら短い話、ポイントがしっかり整理された話、グルグル回ってエンドレスな話などイロイロである。そして基本、信徒たちは「神の愛の家族」だから、どんな話でも互いにウンウンしながら聞く訳である。
 
 ただ実際問題として、また正直に言って、長い話がクドクド続くのはけっこう大変である。
 分かち合われる話に面白さを求めるべきではないけれど、それでも結論の見えない果てしない話を聞くのは労働と言っていい。そこには人間として当然の限度もある。いくら同情的・共感的態度で臨んだとしてもせいぜい30分くらいの集中が限度であろう。しかもその話がやっと終わったと思ったら次の人の話も長い、となるとまさに無間地獄の様相である。
 
 なんてことを書くと真面目なクリスチャンの方から怒られそうだけれど、ただちょっと正直に書いてみただけだ(実はそう感じているという人も少なくないはずだ)。そしてそういう冗長さが悪いだとか、問題だとかいう話でもない。
 
 もともと話上手な人などそうそういないし、人前で話すのに慣れている人もあまりいない。考えはあってもまとめて話すのが苦手という人もいる。話好き(あるいは自分好き)でどうしても話が長くなってしまうという人もいる。そういう不特定多数の人たちが集まって順番に話す訳だから、効率を期待する方がむしろ間違いであろう。
 
 だからそういう「分かち合い」の席は、時間を気にせず、とことん聞く、わからなくても聞く、疲れても聞いているフリをする、くらいの心持ちで臨むのが本来ではないかと私は思う。そしてそういうスタンスでいながら、あまりにも時間オーバーな場合に限って司会者が優しく声をかける、くらいの緩いルールがいいように思う。
 なぜなら基本的な「分かち合い」の場に求められる雰囲気はリラックスであり、何を話しても受け入れられる寛容さであり、話がわかりづらくてもつまらなくても親身になって聞いてもらえる親しさだと思うからだ。そうでなければ、誰が進んで自分の(あまり話したくない)話をするだろうか。
 
 しかし昨今、そんな「分かち合い」の雰囲気を根本的に変えようとする動きがある。
 実際に見たり聞いたりしたケースだど、「持ち時間は1人3分です。3分以内でまとめて下さい。3分経ったら途中でも次の人に回します」とか、「事前に紙に書いてきて下さい。内容をチェックしてから発表してもらいます」とか。すごいところだと「最後のお祈りは〇〇さん、10秒以内で済ませて下さい」みたいな話になる。徹底した効率優先である。
 
 忙しい現代社会において「時間」はたしかに貴重な資源である。無駄な部分が省略されるのは基本的に良いことだ。礼拝と礼拝の合間に「分かち合い」がされるなら、どうしても時間的に制限される。
 けれど人と人との繋がりは時間で制限できないし、すべきでもないと思う。「この人の話は長くて無駄だ」と思うのは一時的な感想であって、長い目で見るとそうでもなかったりする。むしろ無駄に思えた時間が掛け替えのないものだったりする。
 
 もちろん、長い話が全て有益とは限らないけれど。
 
 効率を優先するか、人との繋がりを優先するか、という話を「時間」という点だけで論ずるべきではないだろう。けれどどちらがキリスト教会の使命により近いかというと、答えは明白だろうと私は思う。

2015年1月10日土曜日

クリスチャンの「あるある」的に書いてみた(プレイズ&ワーシップ歌詞篇)

 福音派・聖霊派教会が好んで歌うプレイズ&ワーシップ系の賛美歌詞に多く見られすぎる表現を「あるある」的にまとめてみた。

・神様を恋人視しすぎ
 愛するイエス様、わたしのイエス様、あなたに愛を告白します、あなただけを愛します、永遠に愛し続けます、等。ラブレターにしても熱すぎませんか。

・ありのままで良すぎ
 そのままでいい、変わらなくていい、ありのままの自分を神様愛してくれる、などのオンリーワン系歌詞。考えてみるとキリスト教賛美は「アナ雪」のずいぶん先を行ってたんですね。
 
・天を見上げすぎ
 私の助けはどこから来るのか、天から来る、という訳で天を見上げる。もちろん物理的に空を見上げる訳ではない。

・すごく大変な中で天を見上げすぎ
 嵐の中、大波の中、火の中、試練の中、困難の中、悲しみの中でこそ天を見上げる。あの、大丈夫ですか?

・今こそ信仰に立ちすぎ
 信仰の決心を促す歌詞。今こそ信仰に立ちます、今こそ献身の時です、全てを捧げます、等。だいたい両手を挙げて泣きながら歌われる。普段あんまり信仰的に見えない人がこの雰囲気にのまれて急に熱心になることも。

・どこにいるのかわからなかった神様が実は近くにいすぎ
 いわゆる「フットプリント」系の歌詞。神様がどこにいるのかわからず、ひとりぼっちで苦しんでいると思っていたら、実は神様が自分を支えてくれていた系。神様ありがとう、気づかなくてごめんなさい、と泣きが入ることも。

・この愛を誰かに伝えたさすぎ
「神様の愛を誰かに伝えたい」系の歌詞を多分かなりの高率で歌っている。あれ、でも先週誰かに伝えましたか?

・恵みに驚きすぎ
 なんという恵み、なんという愛、なんと大きな喜び、という訳で驚きの連続です。

・勝利しすぎ
 万軍の主の勝利、イエスの勝利、十字架の勝利、天の大軍勢も加勢にやってくる。これだけ勝ってれば大丈夫でしょう。

・風雨にさらされすぎ
 聖霊の風、神の風、愛の風、恵みの風が吹きまくり、恵みの雨、後の雨、祝福の雨が降ってくる。もうズブ濡れですね。

・こんな私だけどって自分を卑下しすぎ
 こんな私を救ってくれてありがとう、価値のない私を神の子にしてくれてありがとう。セルフイメージ低すぎませんか。

・癒されすぎ
 癒しを受ける、主は癒し主、私は癒された、回復した。むしろ健康なのでは。

 以上、決して賛美をバカにしている訳ではないけれど、多く見られる歌詞表現を挙げてみた。え、不謹慎だ? これらの歌詞の通りに生きてらっしゃる人からそう言われたら、たしかに返す言葉がない。

2015年1月9日金曜日

「聖霊の力」という割には寂しい「結果」

「聖霊の力による教会成長」が聖霊派教会では強調されている。
 聖霊様と親しく交わることでその賜物が付与され、異言とか解き明かしとか、預言とか癒しとか奇跡とか、霊を見分けるとかができるようになる、それによって信者が増えて教会が成長する、という主張だ。

 その主張のもと、私は異言がしゃべれるようになった、解き明かしができるようになった、霊を見分けられるようになった、等と言う人々がいる。またその延長線上に「五役者の回復」もあって、「自称使徒」がチラホラ現れている。
 奇跡の類ではいつも書いているように天使の羽とか金粉とか、そういう現象が自慢げに紹介されている。

 そういう賜物や職位の回復があるかないかは別として、肝心なのはその結果である。
 賜物のオンパレードの目的は教会成長にあるはずだ。彼らの話を聞いてみると、初代教会時代の使徒たちも真っ青なくらい賜物が回復している。誰もかれも、幼い子どもまでもが異言や預言や解き明かしをしているようである。であるなら初代教会時代並みかそれ以上のペースで信者が増えているはずだけれど、そんな情報は聞かない。

 新進的(?)な若者向けの教会は信徒数が徐々に増え、サテライト教会を作るところもあるようだ。けれどあくまで微増であって、爆発的とはお世辞にも言えない。私がよく知る聖霊派教会でも10年かかって1割増くらいだった。

 それでも信徒数が減少に転じている教会が多い昨今においては、微増でも増えている教会はすごいのかもしれない。しかし彼らが強調するような「聖霊の力」が現れているにしては寂しい結果だ。聖霊の力ってそんなもんか、って話になってしまう。

 そのへんを指摘すると、彼らはこう言う。「日本は特に悪霊の力が強いのだ。私たちは日々、霊的な激しい戦いにさらされている」
 なるほど、うまい言い訳である。悪霊の影響は証明できないから数量的な検証もできない。

 けれどその言い訳が意味するのは、神の勢力と悪霊の勢力がほぼ拮抗しており、わずかに前者が勝っているという力関係だ。神様が悪霊たちと同じ土俵に立って戦っており、押しつ押されつの攻防を繰り返しているということだ。しかもそこに人間の「霊的戦い」という加勢がなければ勝てない訳で、そんな頼りない神様を私は信じているのではない。

 私が信じる神様はもっと圧倒的な方だ。悪霊など決してその足元にも及ばない。その言葉一つで世界が創られる。今もこの世界を維持しておられる。神様の許しがなければ誰も何もすることができない。

 だから「聖霊の力」を強調するのは自由だし、その「現れ」を自慢するのも勝手だけれど、それに見合った「結果」を提示できなければ意味がない。たとえ天使の羽が会堂いっぱいに降ってこようが、そこで救われる人々が爆発的に増えないならゴミでしかない。信徒の方もそのへんはシビアに見るべきだと思う。

追記)
 ちなみに教会成長は信者が増えることだけれど、昨今の聖霊派教会に見られるのは未信者の信者化というより、クリスチャンの流入である。放浪クリスチャンがより良い教会を求めて転々とし、結果、人気の教会に集中する。するとそこは人が増えるから「成長した」と言うけれど、そこの純粋な伝道成果は全然別である。

2015年1月8日木曜日

クリスチャンとインフルエンザの関係(あるいは無関係)

 インフルエンザが流行していて、身近にも多くなってきた。今回はインフルエンザとクリスチャンの関係について書いてみる。

 諸事情あって、日曜の礼拝をしばらく休んだとする。そこへ折からの流行もあってインフルエンザにかかったとする。疲れていて免疫力が下がっていたのも影響したかもしれない。それで高熱と関節痛に苦しみながら病院にかかり、薬をもらって家で休むことになる。

 その時、これは礼拝を休んでいたせいだ、神からの戒めだ、と考えるのは昨今の信仰的虐待の結果である。「神への奉仕を怠ったからバチが当たった」という発想であって、そんなこと聖書のどこにも書いていないからだ。キリストの弟子として礼拝は最優先、病気でも休むと祝福を逃す、とリーダーから繰り返し教えられた結果である。

 信仰的虐待は、家庭内暴力とかいじめとかと違って見た目のわかりやすさがない。信徒らは神様のために真面目にそれに従っていて、傍からだと純粋な自己選択に見える。「好きでそうしているんでしょ」と言われてしまう。

 けれど実際は、聖書を使った聖書モドキの教育を受けているのである。教会あるいは牧師にとって都合のいい信徒に仕立て上げられているだけだ。

 という訳でインフルエンザにかかると「自分が不信仰だからだ」「何か悔い改めるべき罪があるに違いない」「奉仕が足りないからだ」みたいな発想に自然になる。
 似たような話は沢山ある。たとえば以前も書いたけれど、ある宣教師が子どもを病気で亡くしてしまった時、「自分がある信仰の行いをしなかったから我が子が犠牲になった」と悔い改めたという。

 その発想の根底にあるのは「神は即座に厳しく罰する方」という間違った概念だ。彼らにとって神様は、怒るに遅く、恵みと憐れみに満ちた赦しの方ではない。わずかなミスさえ見逃さない厳しい裁判官であり処罰執行人である。けれどそれは新約時代に生きる旧約時代の発想だ。そんなトンデモな考え方をする宣教師がどんな学校を出たのか知らないけれど、できれば宣教を辞めていただきたい。

 言うまでもないけれど、インフルエンザは感染性のウィルス疾患である。空気が乾燥する冬場に一番流行する。満員電車を利用する人など、人混みに入ることが多い人はいつ感染してもおかしくない。クリスチャンかどうか、心がきよいかどうか、「霊性」が高いかどうかに関係なく感染する。いわば起こりやすい事故みたいなものだ。もちろん神の罰ではない。もし神が人を罰するのであればきっと即座に殺している。

 中世ヨーロッパではペストの流行を「神の罰」と考える向きがあった。他にもさまざまな自然災害が「神の罰」とされた。精神障害は悪魔憑きと呼ばれ、障害児は先祖からの呪いの結果とされた。もちろんどれも根拠のない言いがかりでしかない。その考え方は間違っていたと現代人は言う。けれど現代のクリスチャンの一部は未だ同じ発想で物事をとらえている。

 インフルエンザに感染したくなかったら、礼拝を毎週守るとか奉仕を頑張るとかでなく、人混みではマスクをつけて、手洗いうがいをマメにすべきだ。それこそ神からの知恵である。
 そして神様は寛大な方なので、その知恵をクリスチャンだけでなく広く人類に提供してくれている。

2015年1月7日水曜日

自然現象に見られる神の眼、神の手、地獄の門?

 今回は自然現象とキリスト教の絡みについて少し。

・「神の眼」「神の手」?

 ハッブル宇宙望遠鏡の画像をNASAのホームページで見ることができる。
 へび座わし星雲の画像は以下みたいな感じで、たぶん知っている人も多いだろう。



 一時期、一部のキリスト教会で類似の画像がもてはやされた。ちなみに上の画像は「神の眼」、下のは「神の手」みたいに呼ばれた。「神様は宇宙スケールの方。すげー!」という訳だ。

 この画像を絡めたメッセージが語られた。「神様は全宇宙を見通しておられる。その御手は地球など簡単につかめるほど大きい。この方が私たちの天の父なのだ」
 それで会衆一同大いに感動し、涙ながらに祈って神様に感謝する、というのが定番の流れだった。

 けれど神様を物理的な大きさで測るのは無理がある。神様は偏在しておられるからその位置を特定することはできない。あえてするなら「どこにでも」ということになる。
 もちろん「神の眼」「神の手」というのが比喩であって、全宇宙を支配しておられるという意味なのはわかる。けれど宇宙スケールでさえ神様を語ることはできない。なぜなら神様は宇宙をも創った方で、その被造物の中に留まっている訳ではないからだ。

 またこのメッセージは「自分から見てどうか」という視点に終始しているのが問題だ。
 わし星雲はガス星雲であって、刻々とその姿形を変えている。だから上記の画像はある時点、ある地点のハッブル宇宙望遠鏡から見たものに過ぎない。別の角度から見たらまた違ったものに見える。それを自分たちの立場から見て「神の眼・手だ」と言うのは単なる偏見でしかない。

「自分から見てどうか」という視点で物事を捉えるのは仕方ないことではある。けれど人間には想像力や他者への配慮という能力が与えられている訳で、自分以外の視点に思いを馳せることもできる。そういう能力を発揮しようとしないのは、クリスチャンとしてどうかという以前の問題であろう。

・地獄の門?

 トルクメニスタンに「地獄の門」と呼ばれる場所がある。


 1971年の落盤事故で地面に空いた大きな穴である。有毒性の天然ガスが絶えず噴出しており、やむなく点火してガスを燃焼させたところ、もう40年以上燃えているという。

 クリスチャンがこの穴を文字通り「地獄の門だ」とか言い出さないことを願う。黙示録に描かれている「底知れぬ穴」と関連づけて、荒唐無稽な空想話を展開されたら手も付けられない。「霊の戦い」をしに行くなら、「戦い」に夢中になって足を滑らせて穴に落ちないよう、気をつけていただきたいものだ。

2015年1月6日火曜日

「正しさ」は「傲慢」にもつながるという話。

 このブログでは、主に聖霊派教会の信仰の在り方の問題点を指摘している。そしてできれば聖霊派の方々に読んでいただいて、ああそういう見方もあるのだな、可能性もあるのだな、と考えていただきたいと思っている。

 内容は体系的にまとめていないけれど、記事ラベルの通り多岐に渡っている。けれど時々(本当に時々だけれど)、擁護的な立場に立って書くこともある。たとえばチャーチスクールは問題が多いけれど、その全てが完全に間違いだとか、絶対的に悪いだとか言えない部分がある(むしろ良い点もあるだろう)。また什一献金にしても、騙されてでなく純粋に信仰から捧げる人もいる訳で、それに対してノーと言う権利は誰にもない、というようなことだ。だから間違いが多いとしても全部ではない、というのが私の立場だ。

 けれどそういう風に擁護的に書くと、いやいや間違っているものは間違っている、ダメなものはダメだ、と言う人がいる。それはそれで自由だけれど、それもまた二元論に陥っているのではないだろうか。繰り返すけれど物事に完全な間違い、あるいは完全な正解というのは少ないからだ。数学の問題なら答えは一つだから二元論でいいだろうけれど、たとえば聖書解釈はそうはいかない。聖書にただ一つの明確で正しい、絶対間違えようのない解釈があるのなら、キリスト教が多数の教派に分かれる必要はない。一つの正しさに従って一つの宗教としてまとまれるはずである。けれど現にそうなっていないのは、完全に正しいとも完全に間違っているとも言えない解釈(あるいは立場)が複数存在するからだ。

 だから「これはおかしい」と断言できることは少ない訳で、問題を指摘するにしてもよくよく考えなければならないし、偏見を持ってはいけないのだと思う。むしろ「これもいいし、あれもいい」という寛容さが必要ではないだろうか(だからと言ってじゃあ何でもいいのかというのは極論だ)。

 それで私が「これはおかしい」と断定的に書くのは主に信仰的虐待と、その根拠となる聖書解釈についてである。聖書にこう書いてあるから、という理由で訓練と称する暴言・暴力が横行し、望まない奉仕をさせられる、というような理不尽についてだ。
 それは法治国家における宗教に隠れた不法行為であり、決してあってはならないことで、神様を貶めることでもある。だからおかしいと私は書き続けているのである。

 だから聖霊派教会が全ておかしい、そんなところに献身するのはバカだ、とは言えないはずだ。現にそういう教会で、誰に迷惑をかけるでもなく、損害をかけるでもなく一生過ごす人もいる。私自身はそういう人生は遠慮するけれど、否定するつもりはない。むしろその一貫性を尊敬する。

 そういう人に向かって「あなたはバカだ、人生間違っている」なんて言えるだろうか。言うのは自由だけれど、じゃあそう言うあなたはどれだけ「正しい」人生を送っているのか。あなたのそれも見方を変えれば間違っているのではないのか。と私は思う訳である(もちろん私にも間違っているところはあるだろう)。

 聖書は私たちに「正しすぎてはならない」と言っているし、「いけにえよりも憐れみを好む」とも言っている。もちろんカルト的牧師の信徒虐待は許してはならない。けれどそれと同じ厳しさと自分が思う「正しさ」を持って、キリスト教の全てを切り分けるのはいささか傲慢というものだろう。

追記)
 聖霊派と言ってもペンテコステ派とかカリスマ派とかイロイロあり、たぶん一部に福音派も混ざっていると思う。統一されたカテゴライズがある訳でもなく、かなりザックリで曖昧な表現になってしまって恐縮である。

2015年1月5日月曜日

神様の言う通り?

 牧師の「聖書はこう言っている」に「アーメン」と答え、「今神がこう導かれている」に「アーメン」と答える。その結果始まっていく奉仕でも「こういうものを作りなさい」「会計はこうしなさい」「こういう場合はこうしなさい」「こういう考え方をしなさい」等と言われてその通りにする。

「牧師=神の代弁者」という前提があってそうなっていくのか、あるいはそういう経験の積み重ねがあって「牧師=神の代弁者」という既成事実が完成していくのか、よくわからない。それは卵が先か鶏が先かの議論に似ている。けれど結果は明白で、カリスマ牧師(カリスマ派とは限らない)にどこまでも追従する信徒が出来上がる。

 牧師が神の代弁者であるなら、その言う通りにするのが一番である。何故なら神様は天地万物の創造者であり、全知全能であり、その判断に誤りがあるはずがないからだ。AかBがあって「Aがいい」と牧師が言えば、それは神様がAにしなさいと言っていることになる。だからAの方が不利に思えてもそれを選ぶ。結果はよくわからないけれど、これで良かったはずだ、だって神様がそう導いたんだから、と自分に言い聞かせる。そこには後付け正当化みたいな心理学的効果もあるだろう。

 その「牧師=神の代弁者」は次第に私生活にも侵入してくる。たとえば「私たちは地上にあっては寄留者。持ち家があると自由に動けなくなるから賃貸の方がいい」と言われて賃貸生活を選ぶ。そして住むならどこがいい、どんな間取りがいい、みたいな話にもなる。
 あるいは公的な場所にもTシャツにジャケットという服装で赴く。「大事なのは外見じゃない」と言われて自分もそうする。その服装はダメ、こっちの方がいい、と言われてクローゼットの中身が変わっていく。
 そんな風に何かにつけて牧師(神)の判断を仰ぐようになる。そこには神様の言う通りにしたいという動機もあるけれど、失敗したくない損したくないみたいな意思も働いているだろう。

 けれど本当はAかBだけでなく、CとかDとかEとかあって、Aのみが神の意志とは限らない。エデンの園には沢山の良いものと、ただ一つのダメなものとがあった。神様はどの木から取って食べてもいいと言った。ただ一本の木を除いて。

 牧師が言うのはその逆である。ほとんどのものがダメで、正しいものは一つしかない。それを選ぶ以外にない。と。

 私たちの生活にも沢山の選択肢が溢れている。中には明らかな間違いもあるだろうけれど、大抵は何を選んでも問題ない。短期的には良いけれど長期的にはそうでもない、あるいはその逆もある。

 カリスマ牧師の化けの皮が剥がれた時、そういう間違いに気づく。それでクローゼットの中を見てみると、あんまりいい服じゃないなあと気づく訳である。決して悪い服ではないけれど、自分には合わない。そこで自分らしさが失われていたことに思い当たる。神様が願っているのは自分らしくあることなのだけれど。

追記)
「政治と宗教の微妙な関係」という記事でも書いたけれど、牧師の発言に信徒が大きく影響される、というのはこういうことである。

2015年1月3日土曜日

もしもかぐや姫がカルト的牧師だったら

 昔々あるところに、竹取の翁とその妻がいた。
 ある日、翁がいつものように野山に入って竹を取っていると、根元の光る竹を見つけた。不思議に思って切ってみると、中になんと金の十字架を持った女の子が。子供のいない翁は喜んでその子を連れ帰り、妻と一緒に大切に育てることにした。

 かぐや姫と名付けられたその子は3ヶ月で妙齢の美しい娘に成長した。翁は慣習に従って髪結いの儀式を行おうとしたけれど、かぐや姫が難色を示した。「おじい様、髪結いの儀式は汚らわしい偶像崇拝です。やめて下さい」

 という訳で髪結いの儀式は中止となり、代わりにジーザス・セレブレーションという聖会が催された。南蛮渡来の宣教師が大勢招待されて、3日に渡って盛大に行われた。集まった人々はかぐや姫の美しさに圧倒されて、こぞって求婚しはじめた。しかしかぐや姫は喜ぶどころか大いに怒って、「私でなく主を見上げるべきです」と言う。「私は愛するジーザスと一緒にいればそれで満足です。みんなもそういう信仰を持つべきです。あ、でもこれは特別な啓示ですから、霊的に覚醒していない人にはわからなことですね。おかわいそうに」

 同じ頃、かぐや姫は南蛮のファッションデザイナーにスカウトされて、ファッションショーの奉仕を始めた。最新の着物を着て、大勢の観衆の前を歩くのである。「私を通して主が現されれば感謝です」と意気込むかぐや姫。

 ところで翁は先行き長くないのを考え、かぐや姫に結婚を勧めた。貴族からの求婚も絶えず、良家に嫁ぐチャンスがゴロゴロ転がっていた。しかしかぐや姫は翁をたしなめた。「おじい様、結婚は主からの贈り物です。この人と結婚しなさいと神様に言われるまで、私は結婚などできません」

 並みいる貴族たちの求婚をことごとく断るかぐや姫の噂は、やがて帝に耳に届いた。帝も一目でかぐや姫に惚れ込んだ。そして求婚するも、あえなく玉砕。かぐや姫が「帝も農民も主の目には同じ人間。何の違いもありません」と一蹴したからだ。

 けれど帝も黙っていない。翁に圧力をかけ、何としてもかぐや姫の了承を得るようにと脅してきた。それで翁と妻が毎晩泣いて懇願するようになり、さすがのかぐや姫もこれには参った。「ではジーザスとランチに行ってきます。そこでダディ―(注・神様のこと)の思いを窺ってきます」

 それで山に入ったかぐや姫が、1時間ほどで帰ってきた。
「かぐや、どうじゃった、その・・・ラ、ランチとやらは?」と翁。
「はい、ジーザスがサンドイッチとコーヒーでもてなしてくれました」
「それで、ダディ―さんは何とおっしゃるの?」と翁の妻。
「おじい様、おばあ様、落ち着いて聞いて下さい」

 かぐや姫の話はこうだった。もうすぐこの世が終わる。その前にダディ―がかぐや姫を迎えにくる。だからこの地上で結婚などできない。みんなもダディーを信じれば、かぐや姫と一緒に行けるかもしれない、と。

 その話は都中に広まった。心配になった民が大勢かぐや姫の話を聞きに来た。かぐや姫は毎日大勢の聴衆を前にマイク片手にダディ―について語った。「そこの人、腕組みしながら話を聞かないで下さい。ダディに対して失礼です」

 帝は大いに怒った。天のダディ―とやらに、かぐや姫を取られてはならない。迎えに来たら返り討ちにしてくれる。帝はかぐや姫の指定する満月の夜に備えて軍備を整え、陣を敷いた。

 さて、満月の夜である。翁の屋敷の周りは、帝の軍隊とかぐや姫の信者たちとでいっぱいとなった。兵士たちは武器を構え、信者たちは口々に叫ぶ。「かぐや姫、先に天で待っていて下さい! 信仰の短い私はきっとダディに連れて行ってもらえませんから」なんて言う信者もいる。

 満月が上り、夜が更ける。予想に反して静かな夜空である。「皆の者、油断するでない」と兵士たち。「いよいよジーザスが来られる!」と信者たち。
 けれどやがて、東の空が白みはじめた。地平線に光が走り、太陽が顔を出す。満月は次第に消えていく。

 かぐや姫が屋敷から姿を現した。「みなさん、ジーザスから新たな言葉をいただきました。天の準備があるから3日遅れる、とのことです。3日後、ジーザスが迎えに来られます」

 
 という訳で3日後、再び軍隊と信者たちが集結した。けれど夜になり、深夜になり、朝になった。今回も何も起こらなかった。かぐや姫が姿を現した。「また新たな言葉がありました。1週間遅れるそうです」
 けれど1週間後も何も起こらなかった。

 信者の何人かが、翁の家に殺到した。「この世が終わるって言うから、家財を全部売って寄付してしまったんだ。どうしてくれる!」
 対応に困り果てた翁に、かぐや姫は言う。「今回のことは信仰を試すためのダディーからの試練だったのです。私はその試練にパスしたってダディーが言ってくれました。だから何も謝る必要なんかないって、ダディ―が言ってくれました。だから文句がある人は好きに言わせておけばいいんです」

 その一部始終を聞いた帝はあきれ果てて求婚を取り下げた。「ありゃダメだ。とんだ嘘つき女じゃないか」
 対するかぐや姫も負けていない。「ほらやっぱり、帝の愛なんてそんなものなのです。ちょっとの試練ですぐに折れてしまうのですから。結婚は断って正解でした」

 その後、かぐや姫は遠い南国に引っ越した。「ダディーがここで私に何かさせようとしています。私はそれに従うだけです」
 それで南国でもダディ―について人々に語り、信者を増やしていきましたとさ。(終わり)
 

政治と宗教の微妙な関係

 年始早々だけれど、政治と宗教の関係について書いてみたい。
 
 本人が堂々と書いているから構わないと思うけれど、ここのカトリック神父さんがブログで政治的発言をしている。いわく、先の総選挙で安倍政権は議席を増やしたけれど、その支持者は決して多数派ではない、そこに救いがある、とのこと。どうやら反安倍政権の方らしい。
 
 安倍政権支持者が多数派かどうかとか、そもそも安倍政権がどうかとか、あるいはカトリックがどうかとか、私はそういうことに言及するつもりはない。ただ神父とか牧師とかいう立場の人間が公にそういうことを書くのはどうなのだろうか、と疑問に思った。
 
「個人の見解を述べたまでだ」と言えば済むのかもしれない。けれどたとえば、親しい間柄でも選挙で自分がどこに投票したかは進んで言わないのではないだろうか。友人間で影響力のある人とか、会社の上司とか、恩師とか、そういう人が特定政党支持の発言をすると、それに影響される人が少なくないはずだ。
 まして神父とか牧師とかになると、公私の違いにさほど関係なく、その信徒に与える影響は大きい。もちろん聖職者だから政治に関する私見を述べてはいけないという話ではない。けれどその神父・牧師との関係次第によっては、自分の意見を変える信徒も出てくるだろう。私が知っているプロテスタントの世界では、カリスマ牧師の一言が教会全体の意見にさえなりかねない。すると教会全体がある政治的意思を持って動くことにもなる。
 
 日本のキリスト教界は小さいのでさほど影響力はないだろうけれど、これがアメリカのメガチャーチの牧師の発言だったら影響はもっともっと大きいのではないかと思う。
 
 キリスト教聖職者の政治的発言には、他にも「神の意志」が絡むという問題がある。
 信徒にとって、聖職者の発言には神の介在を感じさせるものがある。万民祭司という言葉があるけれど、それでも聖職者に語られる何かがあるのではないか、あるいは長年信仰生活を送っている信仰者だからこその視点があるのではないか、というような考え方はある。
 すると極端な話、神がある政党や政策を支持している、という話にもなりかねない。それは政教分離を原則とする日本における政教一致の動きであろう(それが良いか悪いかはまた別の議論があるだろう)。
 
 けれどもし本当にそういう事態になるとしたら、原因は聖職者の側だけでなく、信徒の側にもある。自分の頭で考えない、聖職者の言うに任せる、という問題だ。
 という訳でまずは個人個人が自分の考えをしっかり持つのが大事だと思う。けれど自分の考えを持つ過程でどうしてもいろいろな人の意見を参考にする訳で、人や宗教から影響されないということもありえない。
 政治と宗教、もとい自分の思考と宗教の微妙な関係である。

2015年1月1日木曜日

2014年・各月の閲覧数最多記事

 昨日で2014年が終わり、今日から2015年である。
 人間、時には立ち止まって過去を振り返ることも大事だと思うので、今回は昨年一年間を振り返り、当ブログの閲覧数の多かった記事を、月毎に挙げてみようと思う。
 

 日体大の名物企画「集団行動」の厳しい練習風景と、教会で行われる「弟子訓練」とを対比した記事である。
「集団行動」という検索ワードで来られた方が多かったので、クリスチャンの方の閲覧数は必ずしも多くなかったかもしれない。
「集団行動」は学生が自ら志願して参加するものだから、練習が厳しくてもそれだけで理不尽と言うことはできない。けれど教会で行われる「弟子訓練」は、信仰歴の短い人は「キリスト教とはそういうもの」と思い込んでしまうため、事実上強制的に行われる。文句も言えないし否定もできない。という話。

「霊の戦い」を行う教会は、夜の神社仏閣とかで怒鳴り叫んで祈ったり賛美したりして、「悪魔を打ち破った」「主の勝利」と主張する。けれどその結果は検証できない。現実的・物理的変化は皆無で、ただ気分が良くなったとか、勝利感があるとか、そういう気分の話でしかないからだ。神社はその後も存続するし、街も人もいつも通りである。
 また何度「打ち破って」も、「もっと強い霊が背後にいる」とか「これこれの霊もいる」とか話が広がっていって終わりがない。つまりいつまで「戦って」も勝利したことにならない。それは要するに悪魔に「勝てない」ということだと思う。神様はどこに行ったのだろうか。

 礼拝中に金粉が降ってきたとか、羽が降ってきたとか、そういう現象を何でも「神の奇跡」と断定し、「自分の信仰が認められたからだ」と考えて喜ぶ人がいる。けれど現象には検証が必要だ。たとえば「羽」ならDNA鑑定とかで自然の鳥の羽でないことくらい確かめてもバチは当たらない。そういう検証を「神を試すことになる」と頑なに拒むのは、かえって怪しさ倍増であろう。
 また、「信仰が認められたから奇跡を見る」というのは違う。聖書を見ると、信仰的でも何でもない人たちが奇跡を体験している。

・4月の閲覧数最多記事
 信仰に見せかけた強制について思うこと。

「早天祈祷会」みたいにな早朝祈り会を毎日やる教会があって、信徒は事実上強制的に参加させられている、という状況がある。遅れると叱られ、叩かれ、けなされる。それが正しいなら、私たちの神様は遅刻を許さない、一切容赦のない鬼教官みたいな存在である。では牧師が遅刻したら、誰が彼を叱責するのだろうか。大いなる疑問である。

 某キリスト教メディアに「どんな理由であっても牧師を非難すべきでない」という記事があって、ちょっと待てよと思って書いた記事である。ダビデがサウル王に手を掛けなかった(殺さなかった)のを例に挙げて、牧師が間違っていても天に任すべきだ、信徒は黙って祈るべきだ、みたいな論理展開をしている。書簡であらゆる教会を非難したパウロの例を挙げないのは、都合が悪いからか、知らないからか、どちらかであろう。

 什一献金を信徒に義務付ける教会がある。そういう教会の教会会計は什一献金が大半を占めていることが少なくない。その場合什一献金は絶対欠かせない収入源であって、聖書的でないとか何とかいう反論は教義的にも物理的にも許されない。それがなかったら教会が成り立たないからだ。
 けれど什一はユダヤの税制であって、新約時代に当然のように適用されるものではない、という主張も少なくない。両者に議論させたら永遠に平行線のままであろう。自分の金銭に絡むことでもあるから皆本気だ。

・7月の閲覧数最多記事
 什一献金について思うこと(その3)

 什一献金は関心の高いトピックのようで、2か月連続の閲覧数トップであった。
 よく「什一献金があるなら教会の見やすい位置とかHPとかにその旨を掲載すべきだ」という意見があって、確かに信徒になってから「什一献金というのがあって・・・」とか言われるのは後出しジャンケンみたいなものかもしれない。
 けれど信仰の姿勢は教会によってイロイロで、洗礼とか聖餐式とか献金とか多岐に渡るから、そういうのをいちいち初めに断わるのも現実的でない。それに什一を捧げるクリスチャンにとってそれは当然のことだから、逆に掲載する必要性を感じない。

・8月の閲覧数最多記事
 ハロウィンを悪魔崇拝と決めつけるクリスチャンの浅はかさ。

 アメリカの元サタニスト(?)が「ハロウィン=悪魔崇拝」も主張していて、その言い分がトンデモ過ぎるから書いた記事である。「カボチャが悪魔の通り道になって人に憑りつく」「仮装するとキリストの救いから漏れる」とかいう「ムー」的な内容であった。そういう主張を真顔でするのも驚きだったけれど、もっと驚くのはそれを本気で信じるクリスチャンがいることだ。たぶん彼らは聖書を全部読んだことがないか、聖書を入手できないところにいるか、どちらかだろう。

・9月の閲覧数最多記事
「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感。

 今が終わりの時代だから、神様がダビデの幕屋をそのままの形で回復させようとしている、という主張のもと、24時間365日の礼拝をする人たちがいる。彼らは礼拝はそうでなければならないと言う。しかしダビデの幕屋は古い契約のもとにあり、今は新しい契約の時代なので、ダビデ時代の礼拝をそのまま再現する必要はない。そうしてもいいけれど、それは義務ではない。

・10月の閲覧数最多記事
【雑記】携挙延期説・目的志向型クリスチャン。

 雑談的に書いた詰め合わせ記事である。
「10月携挙説」を推す自称クリスチャンがいたけれど、指定日を過ぎても何も起きなかった(当たり前だけれど)。それで今度は「指定日が延期された」と言い出した。そして現在に至るまで延期されている訳である(あるいは回避された?)。これでニセ預言者確定だろうと思ったけれど、いまだ盲信している人がいて「ダメだこりゃ」である。

・11月の閲覧数最多記事
【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・献身篇

 小説中でキマジメくんが大学を辞めて教会献身してしまったのだけれど、彼はすごく真剣に、信仰をもって献身した訳である。そこには多くの間違いがあって、考え直すべきなのはもちろんである。けれど、たとえばそれが10年、20年続いてしまったら、その時になって気づかされるのは非常に酷なことである。人生続けられないかもしれない。だから間違えているとしても、それが明らかに反社会的なことでないなら、続くことが神様の憐れみなのかもしれない。と私は思う。
 それがダメだ、問題だ、とあくまで正論にこだわる人は、仏教とかイスラム教とかヒンズー教とかの人たちにもダメ出しして回ったらいいだろう。

・12月の閲覧数最多記事
 クリスチャンと「偶像崇拝」について。

趣味も偶像、特技も偶像、何でも偶像、ということで、教会に引きこもって聖書・祈り・礼拝だけしているのが一番いい、と主張する人たちがいる。けれど教会に引きこもると「自分って霊的」という偶像に引っかかるので、有効な手段ではない。結局それは禁欲でしかない。

 以上、月毎の閲覧数最多記事をお送りした。ちなみにこの中でトップは8月のハロウィン記事であった。
 読んで下さった皆様にここでお礼させていただく。皆さんにとってこの1年が良い年でありますように。