本当のことを言える相手

2015年1月19日月曜日

雑記

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 本当のことを言える相手がいるだろうか。
 
「本当のこと」と言っても程度があるけれど、とにかく本当のことだ。
 
 教会の牧師や先輩信徒に「何でも正直に話してほしい」と言ってくるタイプがいるけれど、それで正直に話す人がどれくらいいるだろう。経験的にはほとんどいない。
 
 たとえば牧師にもタイプがあって、グイグイ押してくるのもいるし、手綱を長くして待っているのもいる。最初から親しげな態度でくる友達感覚のもいれば、学者肌でそもそも相談相手にならないタイプもいるだろう。
 
 しかしいずれのタイプにせよ、牧師に正直に話してみると、最終的には「聖書は」とか「神様は」とか「これからはもう罪を犯してはいけない」とかいう正論に持っていかれるケースが多い。牧師だから仕方ないかもしれないけれど。
 たとえばとても話づらい、自分の(聖書的な)罪に関する内容だとする。意を決して話してみると、最初は心理学的「受容と共感」で聞いてくれても、最後は「でも聖書はね・・・」となる。つまり結局のところ受容されないのである。最初の受容はとりあえずのポーズでしかない。
 
 こう書くと「罪を受け入れないのは当たり前だ」とか言われそうだけれど、そういう話でもない。なぜなら「罪を受け入れられない」のは相談者自身だってそうで、だからこそ苦しんで相談するのだから。悪いと思っていなければ悩まないし相談もしない。
 
 罪を犯してしまう自分を自分がまず受け入れられないのだし、他人も受け入れてくれそうにない。でも神に仕える牧師になら・・・と期待して話してみるけれど、上記のように期待を裏切られる結果となる。むしろ裁かれたような形になって、傷つくことになるかもしれない。
 
 またそこまで深刻な内容でなくても、牧師に話すとなるとどうしても構えてしまう人が多いだろう。正直に話していいと言われても、どこか飾った内容になるのではないだろうか。
 
 牧師の立場は、突き詰めると聖書的価値観である。だからどんなに優しそうでも親しみやすそうでも最後は「ダメなものはダメ」となることが多い。そしてそうなるとわかってしまったら、信徒はもはや本当のことは話せない。当たり障りのない関係を続けるしかなくなる。あるいは牧師に喜ばれそうな信徒を演じなければならなくなる。
 
 本当のことを話せる相手とは、自分自身の場合で考えてみれば簡単にわかると思うけれど、何を言っても裁かない、黙って聞いてくれる、どうなっても味方でいてくれる、というような相手だ。そうなると牧師や先輩信徒はほぼ除外される。そして同年代の親友と呼べるような人間だけが残るだろう。クリスチャンかどうかにかかわらず。というよりクリスチャンでない方がそういう相手になってくれる可能性が高いように私は思う。
 
 映画『リービング・ラスベガス』は、アルコール依存症のベンと娼婦サラの奇妙な愛の物語である。人生に絶望したベンは「死ぬまで飲み続ける」と決心していて、サラはそんな彼にウィスキーボトルをプレゼントする。結局ベンは死んでしまうので何の救いもない話だけれど、少なくとも彼はサラに本心を余すところなく話せたはずだ。何の遠慮も飾りもなく。そして本心でないキレイごとを並べて当たり障りなく生きるよりは、正直な生き方ではないだろうか。
 
 安心して本当のことを話せる環境が教会にないとしたら、クリスチャンはその存在意義についてよく考えなければならないと思う。「こうあるべき」というキレイごとばかりで表面を取り繕うとしたら、教会に何の価値があるだろうか。

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