神様の言う通り?

2015年1月5日月曜日

キリスト教信仰

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 牧師の「聖書はこう言っている」に「アーメン」と答え、「今神がこう導かれている」に「アーメン」と答える。その結果始まっていく奉仕でも「こういうものを作りなさい」「会計はこうしなさい」「こういう場合はこうしなさい」「こういう考え方をしなさい」等と言われてその通りにする。

「牧師=神の代弁者」という前提があってそうなっていくのか、あるいはそういう経験の積み重ねがあって「牧師=神の代弁者」という既成事実が完成していくのか、よくわからない。それは卵が先か鶏が先かの議論に似ている。けれど結果は明白で、カリスマ牧師(カリスマ派とは限らない)にどこまでも追従する信徒が出来上がる。

 牧師が神の代弁者であるなら、その言う通りにするのが一番である。何故なら神様は天地万物の創造者であり、全知全能であり、その判断に誤りがあるはずがないからだ。AかBがあって「Aがいい」と牧師が言えば、それは神様がAにしなさいと言っていることになる。だからAの方が不利に思えてもそれを選ぶ。結果はよくわからないけれど、これで良かったはずだ、だって神様がそう導いたんだから、と自分に言い聞かせる。そこには後付け正当化みたいな心理学的効果もあるだろう。

 その「牧師=神の代弁者」は次第に私生活にも侵入してくる。たとえば「私たちは地上にあっては寄留者。持ち家があると自由に動けなくなるから賃貸の方がいい」と言われて賃貸生活を選ぶ。そして住むならどこがいい、どんな間取りがいい、みたいな話にもなる。
 あるいは公的な場所にもTシャツにジャケットという服装で赴く。「大事なのは外見じゃない」と言われて自分もそうする。その服装はダメ、こっちの方がいい、と言われてクローゼットの中身が変わっていく。
 そんな風に何かにつけて牧師(神)の判断を仰ぐようになる。そこには神様の言う通りにしたいという動機もあるけれど、失敗したくない損したくないみたいな意思も働いているだろう。

 けれど本当はAかBだけでなく、CとかDとかEとかあって、Aのみが神の意志とは限らない。エデンの園には沢山の良いものと、ただ一つのダメなものとがあった。神様はどの木から取って食べてもいいと言った。ただ一本の木を除いて。

 牧師が言うのはその逆である。ほとんどのものがダメで、正しいものは一つしかない。それを選ぶ以外にない。と。

 私たちの生活にも沢山の選択肢が溢れている。中には明らかな間違いもあるだろうけれど、大抵は何を選んでも問題ない。短期的には良いけれど長期的にはそうでもない、あるいはその逆もある。

 カリスマ牧師の化けの皮が剥がれた時、そういう間違いに気づく。それでクローゼットの中を見てみると、あんまりいい服じゃないなあと気づく訳である。決して悪い服ではないけれど、自分には合わない。そこで自分らしさが失われていたことに思い当たる。神様が願っているのは自分らしくあることなのだけれど。

追記)
「政治と宗教の微妙な関係」という記事でも書いたけれど、牧師の発言に信徒が大きく影響される、というのはこういうことである。

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