2015年1月16日金曜日

クリスチャンに不可能がないなら世界はもっと良くなっているはず、という話

 ピリピ4章13節を使って、「クリスチャンは不可能を可能にする」という論理展開をする人がいる。

 同節は「どんなことでもできる」と言っているから、文字通り解釈するならたしかに「不可能はない」ことになる。けれど現実にそんな人がいるだろうか。何でもソツなくこなす人はいるけれど、全部が可能とはいかないだろう。では聖書は無茶なことを言っているのだろうか。

 こういう論理展開をする牧師は、信徒が「できない」と言うのを許さない。「できないと言うな。聖書はこう言っているだろう」とか言ってピリピ4章を開かせる。だから信徒はいつも不可能に挑戦させられる。そしてそれが訓練だと信じさせられる。
 ちなみに、それがうまくできなければ反省会で公開処刑にされ、うまくできたら更にハードルが上がる。いずれにせよチェックメイトである。

 しかし聖書は(他のどの書物もそうだけれど)文脈で読まなければならない。そしてこの場合は、貧しい境遇にも豊かな境遇にも対処「できる」という話であって、オールマイティ的な「できる」ではない。しかし教える立場の牧師が文脈を無視するので、信徒の方も気づかない。

 オールマイティ的「できる」を主張する人は、不可能がいかにして可能になるかを実証するつもりでこんなクイズを出す。

「小さな食器洗濯機があって、2枚まで皿が入る。一度に洗えるのは片面だけ。洗うのに3分かかる。3分たったらひっくり返して、もう片面洗わないといけない。
 さて皿が3枚あって、9分で全部洗わなければならない。3枚とも両面洗うのは可能か?」
 という問題。

 ただこれは効率の問題であって、「不可能が可能になった」という話ではない。けれど「不可能に思えたことも可能になる」みたいに話を持って行かれるので、聞いている方は「どんなことも不可能ではない」ように思えてくる。要するに聖書の文脈から離れるようミスリードされてしまう。

 はじめから不可能と思ってはいけない、あるいは可能と思って事に当たらなければやり遂げられない、みたいな話はビジネス系の自己啓発本の常套文句だ。そしてそれ自体は一理ある。難しそうなチャレンジほど、「できる」と前向きに思って取り組まないとできない。

 それは一つの事実である。けれど、繰り返すが聖書の文脈とは関係ない。聖書は「頑張ればどんなことだってできる」なんて一言も言っていない。ピリピ4章13節は、単にパウロが「あらゆる(貧富の)境遇に対処する秘訣を知っている」と言っているだけだ。読み違えてはいけない。

 という訳で、同節を振り回して「できないと言うな」と言う牧師はニセ牧師であって信用してはいけない。ビジネスマンとしては良いかもしれないけれど、教会でものを教える立場にいてはいけない。

 あるいはもしビジネスマン的に自己啓発したいクリスチャンがいたら、そういう牧師に付き従えばいいだろう。けれどそれはあくまで自己啓発であって、信仰生活とも神様ご自身とも何の関係もないことはよく理解しておかなければならない。

追記)
 記事中のクイズの答えを一応書いておく。

①2枚の片面を洗う(3分)。
②1枚だけひっくり返し、もう1枚は取り出して3枚目を入れて洗う(3分)。
③先に取り出した1枚の裏面と3枚目の裏面を洗う(3分)。 
 

 あくまで効率の問題であって、不可能が手品のように可能になった訳ではない。こんなクイズ一つで「どんな不可能も可能になる」とか思わせようとしているなら、人を馬鹿にしすぎだろう。

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