感動の演出はあくまで演出であって、神の臨在とは関係ないという話

2015年1月13日火曜日

信仰に見せかけた…

t f B! P L
 前回ヒルソングのライブDVD "This is our God"の話が出たけれど、その関連で書きたい。

 マイケル・ググリムッチ氏の「末期癌でも癒しを信じて舞台で歌います」がウソだったのは前回書いた通りである。製作サイドがその事実を知っていたかどうかは定かでない。もし知っていて出演させたのなら、ヒルソングチャーチとしても謝罪しろという話になるだろう。逆に知らなかったのなら、教会としても騙されたことになるから、偽りを見抜けなかったことになる。となると超自然的な「霊を見分ける賜物」は彼らにはないことになる。

 いずれにせよ、彼らが感動的な「演出」を好んだのは否定できない。
 酸素を吸わなければ呼吸困難になるような末期癌患者を舞台に立たせるのは非常に危険なことであって、医者や家族が認めないのが普通であろう。舞台上で倒れてそのまま死んでしまうかもしれない(Healerを歌いながら死ぬなんて悪い冗談である)。
 そういう危険を冒してまでググリムッチ氏を登壇させたのは、やはりそこに「見せ場」を意識したからだろう。個人の命よりもライブの盛り上がりを選んだ、と言われても仕方がない。
 やはり彼らが望むのは「感動の演出」なのである。

 もっとも冷静な目で見れば、末期癌患者があんなにコッテリ太っているはずがないとか、あんな血色のいい顔色なはずがないとか、突っ込むべきところはあったと思う。
 
 もう一つ、彼らが「演出」を好んだことの根拠を挙げるとしたら、同ライブのエンディングである。
 ライブの最後は"With everything"という曲で、普通にバンドが歌った後、静まったところで牧師(?)の仰々しい祈りが入り、その後会場は静寂に包まれる。しばらくすると会衆の一部がまた"With everything"を歌いだし、それが瞬く間に全体に広がっていく。会衆によるアカペラ賛美が自然発生的に始まった、という形である。するとどこからかドラマーが戻ってきて、キーボードも戻ってきて、リード不在の賛美がしばらく続く。という流れである。

 私はこれは初めて見たときから「ちょっとな・・・」と思っていた。
 普通ライブでは、アンコールも含めたタイムテーブルがきっちり組まれていて、終了時間から撤収完了時間まで事前に計画されている。だから終わるとすぐに会衆は退場を促されるし、スタッフはさっそく後片付けを始める。よっぽど規模の小さいライブハウスなら多少の融通は効くかもしれないけれど、ヒルソングチャーチほどの規模だとそうはいかない。片付けにしたって相当時間がかかるから、ノンビリしている余裕はないはずだ。

 くわえてライブには大量のカメラが入っていて、前述の「自然発生的な」会衆賛美が始まるまでの静寂を、当たり前のように撮影し続けている。これは事前に計画されていないとできない動きだ。つまり撮影担当の人たちはこれから何が起こるのか知っていたことになる。

 という訳でこれは「自然発生的に会衆賛美が始まった」という「演出」と考えるのが妥当だろう。私が普段書いている表現を使うなら、感動の捏造ということになる。ただ、ググリムッチ氏のウソはちょっと看過できないレベルだったけれど、こういう教会の感動的演出は、もうそういうものだと捉えるしかないような気がする。なぜなら聖霊派教会は盛り上がるのに感動を必要としているからだ。
 
 そして演出だと理解した上であえて感動を求めるという人がいるなら、もうご自由にどうぞである。毎回「水戸黄門」の同じシーンで泣くようなものだけれど、心行くまで泣いたらいいのではないだろうか。

 けれど、そういう感動的演出を真に受けてしまう人がいるとしたら問題である。演出は演出であって、実は神の臨在とは何の関係もない、ということはちゃんと知っておかなければならない。それが聖霊派教会との付き合い方の基本だろうと、このDVDのことを思い出しながら考えてみた。

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