クリスチャンの「祈り」あれこれ

2015年1月24日土曜日

「祈り」に関する問題

t f B! P L
 前回クリスチャンの祈りについて書いたので、その関連で「祈り」についてこまごま書きたい。

・社交辞令としての「祈り」
 
 前回も書いた通り、クリスチャンにとって「祈ってます」は社交辞令としても使われている。挨拶代わりである。と言っても完全なる挨拶ではなく、そこには本気で「祈ります」という気持ちとか、そのことを気にかけていますという気持ちも含まれている(はずだ)。
 
 けれど同時に、「祈ってますね」と言った後で本当に祈った、というケースはどれくらいあるだろうか。私は案外少ないのではないかと思う。「祈りのノート」みたいなものをいつも携行していて、マメに書いたり見返したりする人でなければ、実際には難しいはずだ。そしてそれ以前に、教会と関係ないところで祈る時間を確保すること自体がまずハードルとして存在しているだろう。

 だから、もちろん事の重大さによっても変わるだろうけれど、文字通り社交辞令となってしまう「祈ってます」は少なくないと思う。
 私自身を振り返ってもそうで、何度祈らない「祈ってます」を言っただろう。とんだ偽善者である。そしてそういう自分を棚に上げるようだけれど、だからこそその台詞には社交辞令的機能があるのだろう。

・絶対視される「祈り」

 逆に上記の「祈りのノート」みたいなものを携行している人もいる。

 実例を挙げると、百人前後の教会員それぞれの「祈りの課題」をノートに記載して、毎日毎日、何時間もかけて祈る人がいる。「とりなし手」とか「インターセッサ―」とかいう役割を自覚しているとのこと。
「神様が自分に祈るように命じている」ということで、ノートの内容を一通り全部祈らないと落ち着かなくて眠れない、だから1日も欠かさず全員のために祈る、という訳だ。

 これは大変ご苦労様なことで、頭が下がるのだけれど、なんだか苦行のような気がしてならない。

「毎日全員分とりなして祈らなければならない」のが義務なら、それをしないと祝福を失う、損失を被る、あるいは悪いことが起こる、ということになる。祈らないクリスチャンを神様は罰する、ということだ。そんなこと聖書は言っていない。

 あるいは「自分が祈らなければダメだ」と思っているとしたら単に傲慢である。もちろん「自分の祈りを神様は聞いて下さる」と信じていなければ祈れないけれど、「自分の祈りこそ皆に必要だ」というのはとんだ勘違いである。だったら永遠に生き続けて祈り続けなければダメだろう。

・掲載され続ける「祈り」

「祈りの課題」を毎週週報なんかに掲載する教会は多いだろう。「〇〇さんの癒しのために」とか「△△さんが救われるように」とか「××の祝福のために」とかイロイロある。

 人間忘れやすいので、そういう風に毎週注意喚起されるのは良いことだと思う。また皆で誰かのこと、何かのことを気に掛けるのも良いことであろう。

 けれど気づくと、何年も変わらず掲載され続ける課題もある。
 たとえば「新会堂が与えられるように」とかいうのがあるけれど、1年間まったく進展しなかった事案が、2年目3年目になって動き出すということは基本的にない。新会堂で言えば「与えられる」のを待つのでなく、何か実際に動き始めなければならない。

 また「〇〇さんの救いのために」祈り続け、30年とか40年とか経ってから実際に救われた、という話を聞いたことがある。それだけの期間祈り続けたのは尊敬に値するけれど、「〇〇さんが救われるのに私が祈って40年かかった」とか言うのは違う。救ったのは神様であって、40年祈ったあなたではないからだ。またあなたが40年祈ったから救われたのでもない。もしそうだとしたら、あなたが40年祈らなければ救われない人間が存在することになり、神を全能でなく無能にすることになる。

・特定の時間、方角で捧げなければならない「祈り」

 毎日何時から何時まで祈る、と決めている人がいる。それ自体悪くないし、習慣づけには良い方法である。

 けれどたとえば「この時間はイスラエルの夜だから、イスラエルを守るために祈らなければならない」というのは全然聖書的でない。その考え方の根本にあるのは「人間の祈りがないと神は悪魔に勝てない」という類の発想だ。また「神のために祈ってあげている」みたいな発想にも繋がる。

 あるいはイスラエルの12の門にそれぞれ「霊的な意味がある」と主張し、それぞれの門を名指して祈る人がいるけれど、ほとんど陰陽師の世界である。そのうち鬼門とか裏鬼門とか言い出しかねない。あるいは風水か。聖書よりオカルト誌の読み過ぎであろう。

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