政治と宗教の微妙な関係

2015年1月3日土曜日

キリスト教信仰 雑記

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 年始早々だけれど、政治と宗教の関係について書いてみたい。
 
 本人が堂々と書いているから構わないと思うけれど、ここのカトリック神父さんがブログで政治的発言をしている。いわく、先の総選挙で安倍政権は議席を増やしたけれど、その支持者は決して多数派ではない、そこに救いがある、とのこと。どうやら反安倍政権の方らしい。
 
 安倍政権支持者が多数派かどうかとか、そもそも安倍政権がどうかとか、あるいはカトリックがどうかとか、私はそういうことに言及するつもりはない。ただ神父とか牧師とかいう立場の人間が公にそういうことを書くのはどうなのだろうか、と疑問に思った。
 
「個人の見解を述べたまでだ」と言えば済むのかもしれない。けれどたとえば、親しい間柄でも選挙で自分がどこに投票したかは進んで言わないのではないだろうか。友人間で影響力のある人とか、会社の上司とか、恩師とか、そういう人が特定政党支持の発言をすると、それに影響される人が少なくないはずだ。
 まして神父とか牧師とかになると、公私の違いにさほど関係なく、その信徒に与える影響は大きい。もちろん聖職者だから政治に関する私見を述べてはいけないという話ではない。けれどその神父・牧師との関係次第によっては、自分の意見を変える信徒も出てくるだろう。私が知っているプロテスタントの世界では、カリスマ牧師の一言が教会全体の意見にさえなりかねない。すると教会全体がある政治的意思を持って動くことにもなる。
 
 日本のキリスト教界は小さいのでさほど影響力はないだろうけれど、これがアメリカのメガチャーチの牧師の発言だったら影響はもっともっと大きいのではないかと思う。
 
 キリスト教聖職者の政治的発言には、他にも「神の意志」が絡むという問題がある。
 信徒にとって、聖職者の発言には神の介在を感じさせるものがある。万民祭司という言葉があるけれど、それでも聖職者に語られる何かがあるのではないか、あるいは長年信仰生活を送っている信仰者だからこその視点があるのではないか、というような考え方はある。
 すると極端な話、神がある政党や政策を支持している、という話にもなりかねない。それは政教分離を原則とする日本における政教一致の動きであろう(それが良いか悪いかはまた別の議論があるだろう)。
 
 けれどもし本当にそういう事態になるとしたら、原因は聖職者の側だけでなく、信徒の側にもある。自分の頭で考えない、聖職者の言うに任せる、という問題だ。
 という訳でまずは個人個人が自分の考えをしっかり持つのが大事だと思う。けれど自分の考えを持つ過程でどうしてもいろいろな人の意見を参考にする訳で、人や宗教から影響されないということもありえない。
 政治と宗教、もとい自分の思考と宗教の微妙な関係である。

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