2015年1月11日日曜日

「分かち合い」に期待されるのは効率か、それ以外の何かか。

 全てのプロテスタント教会に当てはまるかどうかわからないけれど、「分かち合い」という時間を持つことがある。横文字で「シェアリング」と呼ぶところもあるかもしれない。
 
「分かち合い」では主に自分の話をする。ここしばらくの個人的な信仰生活とか、何かの感想とか反省とか。ちなみに礼拝中に会衆の前で「分かち合う」のは「証(あかし)」と呼ぶ。
 要は自分が思っていることを皆に「分かち合う」行為である。
 
 余談だけれど教会はこういう専門用語が多くて、初めての人は「何のこっちゃ」が満載である。しかも意味が微妙に統一されてなくて、混乱することもしばしば。
 さらに余談だけれど私の場合、「ミナニヨリキヨメラレル」と聞いて「南より清められる」だとしばらく勘違いしていた。方角的に南って清いのかな、じゃあ北はダメなのかな、北枕って言うしな、じゃあ東と西はどうなんだろう、とか真剣に考えたものである(アホだ)。それが「御名により清められる」だと気付いたのは、けっこう経ってからだった。
 
 そんなことはどうでもいいとして。
 それで「分かち合い」なのだけれど、たいていは信徒が輪になって順番に話す。たとえば「先週はどんな信仰生活を送ったか」あたりが定番のテーマとなる。

 ここで個性が現れる。やたら長い話、やたら短い話、ポイントがしっかり整理された話、グルグル回ってエンドレスな話などイロイロである。そして基本、信徒たちは「神の愛の家族」だから、どんな話でも互いにウンウンしながら聞く訳である。
 
 ただ実際問題として、また正直に言って、長い話がクドクド続くのはけっこう大変である。
 分かち合われる話に面白さを求めるべきではないけれど、それでも結論の見えない果てしない話を聞くのは労働と言っていい。そこには人間として当然の限度もある。いくら同情的・共感的態度で臨んだとしてもせいぜい30分くらいの集中が限度であろう。しかもその話がやっと終わったと思ったら次の人の話も長い、となるとまさに無間地獄の様相である。
 
 なんてことを書くと真面目なクリスチャンの方から怒られそうだけれど、ただちょっと正直に書いてみただけだ(実はそう感じているという人も少なくないはずだ)。そしてそういう冗長さが悪いだとか、問題だとかいう話でもない。
 
 もともと話上手な人などそうそういないし、人前で話すのに慣れている人もあまりいない。考えはあってもまとめて話すのが苦手という人もいる。話好き(あるいは自分好き)でどうしても話が長くなってしまうという人もいる。そういう不特定多数の人たちが集まって順番に話す訳だから、効率を期待する方がむしろ間違いであろう。
 
 だからそういう「分かち合い」の席は、時間を気にせず、とことん聞く、わからなくても聞く、疲れても聞いているフリをする、くらいの心持ちで臨むのが本来ではないかと私は思う。そしてそういうスタンスでいながら、あまりにも時間オーバーな場合に限って司会者が優しく声をかける、くらいの緩いルールがいいように思う。
 なぜなら基本的な「分かち合い」の場に求められる雰囲気はリラックスであり、何を話しても受け入れられる寛容さであり、話がわかりづらくてもつまらなくても親身になって聞いてもらえる親しさだと思うからだ。そうでなければ、誰が進んで自分の(あまり話したくない)話をするだろうか。
 
 しかし昨今、そんな「分かち合い」の雰囲気を根本的に変えようとする動きがある。
 実際に見たり聞いたりしたケースだど、「持ち時間は1人3分です。3分以内でまとめて下さい。3分経ったら途中でも次の人に回します」とか、「事前に紙に書いてきて下さい。内容をチェックしてから発表してもらいます」とか。すごいところだと「最後のお祈りは〇〇さん、10秒以内で済ませて下さい」みたいな話になる。徹底した効率優先である。
 
 忙しい現代社会において「時間」はたしかに貴重な資源である。無駄な部分が省略されるのは基本的に良いことだ。礼拝と礼拝の合間に「分かち合い」がされるなら、どうしても時間的に制限される。
 けれど人と人との繋がりは時間で制限できないし、すべきでもないと思う。「この人の話は長くて無駄だ」と思うのは一時的な感想であって、長い目で見るとそうでもなかったりする。むしろ無駄に思えた時間が掛け替えのないものだったりする。
 
 もちろん、長い話が全て有益とは限らないけれど。
 
 効率を優先するか、人との繋がりを優先するか、という話を「時間」という点だけで論ずるべきではないだろう。けれどどちらがキリスト教会の使命により近いかというと、答えは明白だろうと私は思う。

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