クリスチャンとインフルエンザの関係(あるいは無関係)

2015年1月8日木曜日

キリスト教信仰 雑記

t f B! P L
 インフルエンザが流行していて、身近にも多くなってきた。今回はインフルエンザとクリスチャンの関係について書いてみる。

 諸事情あって、日曜の礼拝をしばらく休んだとする。そこへ折からの流行もあってインフルエンザにかかったとする。疲れていて免疫力が下がっていたのも影響したかもしれない。それで高熱と関節痛に苦しみながら病院にかかり、薬をもらって家で休むことになる。

 その時、これは礼拝を休んでいたせいだ、神からの戒めだ、と考えるのは昨今の信仰的虐待の結果である。「神への奉仕を怠ったからバチが当たった」という発想であって、そんなこと聖書のどこにも書いていないからだ。キリストの弟子として礼拝は最優先、病気でも休むと祝福を逃す、とリーダーから繰り返し教えられた結果である。

 信仰的虐待は、家庭内暴力とかいじめとかと違って見た目のわかりやすさがない。信徒らは神様のために真面目にそれに従っていて、傍からだと純粋な自己選択に見える。「好きでそうしているんでしょ」と言われてしまう。

 けれど実際は、聖書を使った聖書モドキの教育を受けているのである。教会あるいは牧師にとって都合のいい信徒に仕立て上げられているだけだ。

 という訳でインフルエンザにかかると「自分が不信仰だからだ」「何か悔い改めるべき罪があるに違いない」「奉仕が足りないからだ」みたいな発想に自然になる。
 似たような話は沢山ある。たとえば以前も書いたけれど、ある宣教師が子どもを病気で亡くしてしまった時、「自分がある信仰の行いをしなかったから我が子が犠牲になった」と悔い改めたという。

 その発想の根底にあるのは「神は即座に厳しく罰する方」という間違った概念だ。彼らにとって神様は、怒るに遅く、恵みと憐れみに満ちた赦しの方ではない。わずかなミスさえ見逃さない厳しい裁判官であり処罰執行人である。けれどそれは新約時代に生きる旧約時代の発想だ。そんなトンデモな考え方をする宣教師がどんな学校を出たのか知らないけれど、できれば宣教を辞めていただきたい。

 言うまでもないけれど、インフルエンザは感染性のウィルス疾患である。空気が乾燥する冬場に一番流行する。満員電車を利用する人など、人混みに入ることが多い人はいつ感染してもおかしくない。クリスチャンかどうか、心がきよいかどうか、「霊性」が高いかどうかに関係なく感染する。いわば起こりやすい事故みたいなものだ。もちろん神の罰ではない。もし神が人を罰するのであればきっと即座に殺している。

 中世ヨーロッパではペストの流行を「神の罰」と考える向きがあった。他にもさまざまな自然災害が「神の罰」とされた。精神障害は悪魔憑きと呼ばれ、障害児は先祖からの呪いの結果とされた。もちろんどれも根拠のない言いがかりでしかない。その考え方は間違っていたと現代人は言う。けれど現代のクリスチャンの一部は未だ同じ発想で物事をとらえている。

 インフルエンザに感染したくなかったら、礼拝を毎週守るとか奉仕を頑張るとかでなく、人混みではマスクをつけて、手洗いうがいをマメにすべきだ。それこそ神からの知恵である。
 そして神様は寛大な方なので、その知恵をクリスチャンだけでなく広く人類に提供してくれている。

QooQ