クリスチャンが陥りやすい「善意の押し付け」について・その2

2015年1月27日火曜日

教会生活あれこれ

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 前回は「イスラム系テロリストが改心して救われるように祈ろう」に対する違和感について書いた。
 その関連で書くけれど、現在クリスチャンに改宗するムスリムが急増している、と聞いたことがある。

 にわかに信じがたい話だけれど、複数のルートから同じ話を聞いたから、信じている人は少なくないようだ。それによると、多くのムスリムが「夢や幻」によって直接的にキリストを啓示され、改宗しているとのこと。ダマスコに行く途中のパウロ(サウロ)にキリストが現れて改心させた話を引用して、「それと同じことが起きている。熱心な迫害者に直接キリストが現れ、熱心なキリスト者に変えている」と主張する。

 そういう人が「多い」ということだけれど、どこの誰かという話は全然聞かない。それだけの大改宗が起きていれば注目を受けそうだけれど、そんなこともない。

 同じような構造の話は他にもあって、たとえば、

「死者が次から次へとよみがえっている!」
「病人がどんどん癒されている!」
「リバイバルが起こりまくっている!」
「聖霊様の傾注がハンパない!!」

 というのがあるけれど、それが詳しくどこの地域で、よみがえったのが誰々さんで、足が生えてきたのが誰々さんで、医療機関もそれを証明している、みたいな確かなリソースはどこにもない。というかそういうリソースがあれば報道機関が黙っているはずがない。

 だから「クリスチャンに改宗するムスリムが急増している」と聞いても、同じような構造の話ではないかと思ってしまう。

 だいいちキリストが直接的にムスリムに現れて救いへ導いているとしたら、神ご自身が大宣教命令を撤回したことになる。「人間に任せてたら時間かかるから自分でやるわ」とか言って現れたことになるからだ。

 もちろんキリストがパウロに現れたのは聖書の事実だと思う。けれどそれは大宣教命令前の話である。それでも現代においてキリストが個人に現れる可能性がないとは言わないけれど、なんでムスリムにばかりピンポイントで現れるのだろうか。神様にしては不公平ではないだろうか。

 それに、これを逆の立場で考えてみたらどうだろうか。
 たとえばアラーの神が現れて「私こそ神だ。信じなさい」と言ったらクリスチャンは信じるだろうか。
 仏様が現れて同じことを言ったらクリスチャンは信じるだろうか。
 他のイロイロな宗教のイロイロな神様が劇的に現れて劇的なことを言ったら、クリスチャンは信じるだろうか。

 そう考えると、キリストが現れたからと言ってすぐ信じるムスリムがいるとも思えない。信仰心とはそんな単純ではないだろう。

「キリストが現れた」と聞いて「すごい」と思うのは基本的にクリスチャンであろう。けれど自分たちにとって「すごい」ことが他宗教の人たちにとっても「すごい」とは限らない。そういう想像力が欠如しているから、「キリストの直接啓示によってクリスチャンになるムスリム急増」という話に簡単に跳び付くのではないだろうか。

 そしてそうだとしたら、やはり独り善がりな「善意の押し付け」でしかない。もうちょっと自分軸から離れて、他者に配慮する余裕を身に着けるべきだと私は思う。

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