「表現の自由」と「信教の自由」の議論以前の問題

2015年1月15日木曜日

時事問題

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 去る1月12日の夜遅く、仕事が終わって電車に乗ると、車内が妙に騒がしかった。見ると隣の車両をスーツの若者らがほぼ占拠していて、大声で笑ったり話したりしている。何かの専用電車に間違えて乗ってしまったかと思ったけれど、自分が乗った車両はいたって普通である。

 就活中の若者らがストレスが爆発して大騒ぎしてるのかな、くらいに思った。けれど皆、手に花束やら紙袋やら何やら持っている。あ、今日は成人式だったか、とそこで思い至った。新成人たちが大人の仲間入りをして、おそらく「初の」アルコールでいい気分になったのもあって、ハメを外していたのだろう。

 そういうのを見て「けしからん奴らだ」みたいな説教を始める人生の先輩もいるようだけれど、それはそれでウザい。人間だれしも若い頃があったはずで、さほど賢い生き方ができていた訳ではあるまい。むしろ消したい汚点が沢山あるのではないだろうか(少なくとも私はそうだ)。だから若い人たちのちょっと痛い光景を見ても、仕方ないよねと私は思う(ようにしている)。

 ところで成人式となると毎年各地で騒動が起きていたと思うけれど、今年はどうだったのだろうか。成人式で暴れる若者たちを見て「とてもじゃないが大人の仲間入りとは言えない」みたいなことを言う大人がいる。けれどそういう大人たちがどれだけ立派かと言うと、とっても怪しい気がする。去年もイロイロな不祥事があったけれど、まともに謝罪できた「大人」がどれだけいただろうか。

 そこからちょっと遡った1月7日、パリの風刺週刊誌「シャルリー・エブド」本社でテロ事件が起きた。イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した同誌の関係者ら12名が、イスラム過激派によって殺害されたのだ。その後もテロは同時多発的な展開を見せ、世界中が注目することとなった。

 事件そのものは終息したけれど、関連した論争はまだ続いている。すなわち「表現の自由」が守られるべきか、それとも「信教の自由と尊重」が守られるべきか、というような議論だ。ちなみにシャルリー・エブド最新号は現地で行列ができるほどの人気で、eBayでも高値がついているようだ。

 そういう議論になるのもわかるけれど、そもそも同誌も過激派も「やりすぎ」ではないかと私は思う。問題の風刺画を含む何点かの絵を見たけれど、どれも風刺というより下品である。ムスリムではない私も不快に思った。
 しかし一方で、それに腹を立てて関係者を殺害してしまうのも明らかに「やりすぎ」だろう。自分たちが信じる偉大な預言者がバカにされた、その悔しさや憤りは多少はわかるけれど、かと言って殺していいはずがない。

 そういうことを考えると、どちらに対しても「いい大人なのに」と思ってしまう。もちろん話はそんな単純ではないのかもしれないし、パリの被害者と遺族の方々には言葉もない。けれど冒頭の新成人たちに比べて「大人」かどうかという点においては、大いに疑問だと私は思う。

追記)
 ちなみにシャルリー・エブドはキリストの風刺画も載せていて、これもやはり描写できないくらい下品である。でもキリスト教団体が過激な抗議活動に出たという話は聞かない。宗教の違いなのだろうか。
 聖霊派の一部のクリスチャンが「霊の戦い」で同誌を「打ち破った」かもしれないけれど、まあそれは現実世界には何の影響もないので無視していいだろう。

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