クリスチャンが陥りやすい「善意の押し付け」について

2015年1月26日月曜日

キリスト教系時事 教会生活あれこれ

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 25日の夜、イスラム国によるラジオ放送が、湯川遥菜氏の殺害を伝えた。24日の夜には湯川氏の遺体と見られる写真を持った後藤氏の画像がyoutubeに投稿された。湯川氏が本当に殺害さたのか、そして後藤氏がまだ生存しているのか、まだ何も確認されていない。
 
 初めからそうだと思うけれど、これは宗教や政治の話でなく、単なる犯罪である。仮に動機が宗教や政治だとしても、誘拐や殺人に至るなら明らかにやり方が間違っている。彼らがイスラム教徒だとしても、その犯罪行為はイスラム教の主義主張とは全然関係ない。
 
 日本のキリスト教会を見てみると、「二人の無事を祈りましょう」という立場が多い。それはごく自然な反応だと思う。けれど中には「イスラム系テロリストが改心して救われるように祈ろう」というのがあって、私はその発想がちょっと気になった。
 
 もちろん、他宗教の人がクリスチャンになるのを願うのはクリスチャンとして当然のことだろう。神様もそれを願っていると思う。
 
 しかし同時に神様が大切にしているのは個人の自由意思、自由選択のはずだ。だから現にムスリムや仏教徒や無神論者が存在している。宗教のみならず人々はいろいろな主義主張を持って生きている。相容れない立場、対立する立場はどこにでもある。神様はある程度の許容量をもってそれらを許しておられる。
 
 と考えると、ムスリムの人に対してイスラム教は悪いもの、劣ったもの、間違ったものだと断定し、キリスト教は正しいもの、優れたもの、唯一絶対のものだと押し付けるのは自由意思の尊重とは言えない。
 
 かと言ってキリスト教が正しくないとか、イスラム教が正しいとかいう話ではない。何が正しいか正しくないかの話でなくて、他人が大切にしていることに敬意を払えるかどうかの話だ。
 
 そして敬意を払えるなら、「イスラム系がクリスチャンになるように」みたいな一方的な価値観の押し付けはできないはずだ。「そんな信仰間違ってるから捨ててしまえ」と言っているのと同じだからだ。
 
「じゃあムスリムの救いのために祈るなってことか」みたいなヘリクツは勘弁してもらいたい。もちろん祈るのは自由だ。
 けれど「ムスリムの救い」を本当に願うなら、祈る以外にも行動すべきだ。行動のない祈りは意味がない。そしてその行動とは、いろいろな形で彼らに近づくことだろう。接触を持てなければ何も伝えられないし、伝えられなければ救いも何もない。
 
 そしてムスリムの人に近づくとして、「そんな信仰捨ててしまえ」という態度で接するのはケンカを売りに行くようなものだからやめた方がいい。
 
 たとえばあなたをまったく尊重しない、不遜な態度のセールスマンがやって来て「この商品は良い、素晴らしい」とうまく説明したとして、あなたはそれを買うだろうか。その前にそのセールスマンを追い出さないだろうか。
 
 だから正しいかどうかの前に、相手を尊重できるかどうかが大切だと私は思う訳である。もちろんテロリストの主義主張や犯行は尊重できないけれど、少なくとも「〇〇がクリスチャンになるように」という発想の根底に、相手に対する善意の押し付けがないかどうかは考えるべきであろう。

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