賢いクリスチャンとそうでないクリスチャンの分かれ目

2015年1月21日水曜日

キリスト教信仰

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 たとえば「異言」を語れるとか「預言」を語れるとか、「霊を見分けられる」とか「霊的に戦っている」とか言うクリスチャンがいる。それらの行為に対して「何言ってんの」「それ本当なの」とか疑いをかけると、彼らの答えはだいたい決まっている。

「これは回復された真理であって、霊的に覚醒していない人にはわからない」

 みたいなことを言う。
 ハナから自分たちが正しく、特別で、優っていると信じて疑わない。信じない人、疑う人は自分たちより下等という訳だ。そういう表現を直接的にしなくても、結局のところ同じようなことになってしまっている。

 そういう「特別な人にしかわからない」という概念そのものを聖書は否定していない。キリストは「新しく生まれなければ神の国は見えない」と言っている。けれどそこには人間としての優劣とか上等下等とか序列とかいうニュアンスはない。また努力とか祈りの長さとか敬虔さとかいう条件もない。それに異言とか預言とかいう現象の話でもない。

 ひるがえって上記の「賜物自慢」を見てみると、優越感や特別意識に満ちている。「自分たちは秘密の真理を回復された、特別な使命を帯びたクリスチャンだ」と自負している。というか自慢している。そしてそういう態度そのものが聖書の支持するクリスチャン像に反している。

 特別な人にしかわからないというのは、逆に言えば一般的には否定されるということだ。
 ここで彼らは「救いに至る門は狭い」とか持ち出してマイノリティの利点を説く。けれどいつも大勢が間違えていて少数が正しいとは限らない。もちろん大勢が騙されていることもあるけれど、少数が大きな勘違いをしていることもある。それは内容による。

 その内容だけれど、彼らが言う「異言」も「預言」も「見分ける」もその他諸々も、だいたいは内外の有名牧師・宣教師や有名教会の受け売りでしかない。誰々がこう言ったから、というのが彼らの主要な根拠となっている。

 自分で聖書をちゃんと読んでいるなら、たとえば「ダダダ」とかの単音の繰り返しが、言語としての「異言」であるはずがないのは明白だ。「預言」にしたって予測可能なこと、万人にあてはまることなら簡単に言える。私もウソの預言をしようと思えば、いくらでも本当らしくできると思う。「いや、私が受けた預言は個人的なことだったから本当だ」と言う人は、手品師の手法をちょっと学んでみることをお勧めする。

 そのへんの聖書学習とか一般常識的な吟味を無視して、「私は特別な真理を知っている」とするのは浅はかでしかない。それこそ神に対する冒涜であろう。神が言ってもいないことを「言った」と主張しているのだから。

 たとえば彼らは進化論を取り上げて、「猿が人間になる訳がない。進化論は明らかに間違ってる」と言う。もちろん猿は人間にはならない。種が違うからだ。その意味で進化論にも誤りはある。けれど全てが誤りではない。たとえばウィルスは絶えず変異し進化しているから、去年インフルエンザA型にかかって免疫を獲得した人も、今年の新しいA型にかかる恐れがある。細菌は抗生剤に耐性をつけるように自らを進化させている。ゴキブリも殺虫剤に耐性をつけた種が誕生している。環境に適応するための進化は、現に存在しているのだ。

 そういうことを学ぶなら、「進化論=間違い」という単純な決めつけはできなくなる。
「異言」にしたって賛否両論分かれた議論がずっと続いている訳で、それを単純に決めつけてしまうのは、やはり愚かなことだ。

「私は知っている」と思うより、「私は多くを知らない」とする方がイロイロな間違いに陥る危険が少ない。そしてそれこそがクリスチャンとしての賢さだろうと私は思う。

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