イスラム国による邦人誘拐事件が大きく取り上げられている。人質となっているのは二人の日本人男性、湯川遥菜氏と後藤健二氏。どちらも高額な身代金が要求されている。支払わなければ二人を処刑するという趣旨の動画も流された(すでに削除されている)。ご家族や関係者の心痛はいかほどか。日本政府の対応に注目が集まっている。
ところでこの後藤氏がクリスチャンだとわかると、「祈りましょう」という話が一部の(?)クリスチャンの間で広まった。そしてそれに対して「なんでクリスチャンだからって祈るの。クリスチャンでなくても祈るべきでしょう」というもっともな意見も出た。同意する人も多いだろう。
「〇〇がクリスチャンだから祈りましょう」というのは結構聞く。
たとえば〇〇さんはクリスチャン国会議員だから、
〇〇さんは戦地で働くクリスチャン医師だから、
〇〇さんはクリスチャン××だから、
という感じで、「ぜひ祈りましょう」「祈って下さい」となる。
もちろんそれは悪くない。自分と同じ信仰の持ち主が社会貢献しているから応援しよう、という単純な動機であろう(たぶん)。その人の活動によってクリスチャンが増えるかも、という期待もあると思う。
またそこには(表現は悪いけれど)社交辞令的な面もあると思う。
たとえば「〇〇さんってクリスチャンなんだって」と聞いたとする。聞いたあなたはどう答えるだろう。もちろん「ふうん」と聞き流してもいい。けれどクリスチャンっぽく見られたいと思ったら、「祈りましょう」と答えておくのが無難であろう。実際に祈るかどうかは別として。
つまり「祈ってます」という台詞には、クリスチャンにとって日常の挨拶みたいなニュアンスもある(と思う)。
だから上記の状況で「クリスチャンだからって祈るのはおかしい」という意見はちょっとズレている気もする。もちろん一理ある。クリスチャンがクリスチャンのためだけに祈るとしたら、誰が未信者のために祈るのか、と言いたいのであろう。たしかに私たちはどちらかと言うと未信者のためにこそ祈るべきだろう。
けれど私が思うに、「〇〇がクリスチャンだから祈ろう」と言う人が、世界平和とか未信者の救いとか、身内以外のことのためにはまったく祈らない、なんてことはない。そういう人がいたらちょっと異常である。
そこには時間的・物理的限界もある。私たちが日々入手できる情報には限りがあるし、祈るにしたって時間的にも体力的にも限界がある。世界中の全ての悲劇のためには到底祈れない。
だから自分が知れる範囲で、正しい情報だと確認できる範囲で、祈るしかないと思う。
それである時「〇〇さんクリスチャンなんだって」と知らされたなら、それはそれで祈る対象ができた訳で、「じゃあ祈ろう」となるのはごく自然なことだ。そこには相手がクリスチャンだから特別だみたいな意識は基本的にないはずだ。たとえば昨年の御嶽山の噴火の時は「ご遺族のために祈ります」と言う人が沢山いたけれど、遺族の方々の信仰は知りようがない訳だから、信者・未信者の区別などなかったはずだ。
もちろんマララさんについて書いた時のように、クリスチャンじゃないとわかった途端関心を失う、みたいな人もいる。そういう人にこそ、「クリスチャンだからって祈るのはおかしい」と言ってあげるべきだと私は思う。
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