2014年・各月の閲覧数最多記事

2015年1月1日木曜日

雑記

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 昨日で2014年が終わり、今日から2015年である。
 人間、時には立ち止まって過去を振り返ることも大事だと思うので、今回は昨年一年間を振り返り、当ブログの閲覧数の多かった記事を、月毎に挙げてみようと思う。
 

 日体大の名物企画「集団行動」の厳しい練習風景と、教会で行われる「弟子訓練」とを対比した記事である。
「集団行動」という検索ワードで来られた方が多かったので、クリスチャンの方の閲覧数は必ずしも多くなかったかもしれない。
「集団行動」は学生が自ら志願して参加するものだから、練習が厳しくてもそれだけで理不尽と言うことはできない。けれど教会で行われる「弟子訓練」は、信仰歴の短い人は「キリスト教とはそういうもの」と思い込んでしまうため、事実上強制的に行われる。文句も言えないし否定もできない。という話。

「霊の戦い」を行う教会は、夜の神社仏閣とかで怒鳴り叫んで祈ったり賛美したりして、「悪魔を打ち破った」「主の勝利」と主張する。けれどその結果は検証できない。現実的・物理的変化は皆無で、ただ気分が良くなったとか、勝利感があるとか、そういう気分の話でしかないからだ。神社はその後も存続するし、街も人もいつも通りである。
 また何度「打ち破って」も、「もっと強い霊が背後にいる」とか「これこれの霊もいる」とか話が広がっていって終わりがない。つまりいつまで「戦って」も勝利したことにならない。それは要するに悪魔に「勝てない」ということだと思う。神様はどこに行ったのだろうか。

 礼拝中に金粉が降ってきたとか、羽が降ってきたとか、そういう現象を何でも「神の奇跡」と断定し、「自分の信仰が認められたからだ」と考えて喜ぶ人がいる。けれど現象には検証が必要だ。たとえば「羽」ならDNA鑑定とかで自然の鳥の羽でないことくらい確かめてもバチは当たらない。そういう検証を「神を試すことになる」と頑なに拒むのは、かえって怪しさ倍増であろう。
 また、「信仰が認められたから奇跡を見る」というのは違う。聖書を見ると、信仰的でも何でもない人たちが奇跡を体験している。

・4月の閲覧数最多記事
 信仰に見せかけた強制について思うこと。

「早天祈祷会」みたいにな早朝祈り会を毎日やる教会があって、信徒は事実上強制的に参加させられている、という状況がある。遅れると叱られ、叩かれ、けなされる。それが正しいなら、私たちの神様は遅刻を許さない、一切容赦のない鬼教官みたいな存在である。では牧師が遅刻したら、誰が彼を叱責するのだろうか。大いなる疑問である。

 某キリスト教メディアに「どんな理由であっても牧師を非難すべきでない」という記事があって、ちょっと待てよと思って書いた記事である。ダビデがサウル王に手を掛けなかった(殺さなかった)のを例に挙げて、牧師が間違っていても天に任すべきだ、信徒は黙って祈るべきだ、みたいな論理展開をしている。書簡であらゆる教会を非難したパウロの例を挙げないのは、都合が悪いからか、知らないからか、どちらかであろう。

 什一献金を信徒に義務付ける教会がある。そういう教会の教会会計は什一献金が大半を占めていることが少なくない。その場合什一献金は絶対欠かせない収入源であって、聖書的でないとか何とかいう反論は教義的にも物理的にも許されない。それがなかったら教会が成り立たないからだ。
 けれど什一はユダヤの税制であって、新約時代に当然のように適用されるものではない、という主張も少なくない。両者に議論させたら永遠に平行線のままであろう。自分の金銭に絡むことでもあるから皆本気だ。

・7月の閲覧数最多記事
 什一献金について思うこと(その3)

 什一献金は関心の高いトピックのようで、2か月連続の閲覧数トップであった。
 よく「什一献金があるなら教会の見やすい位置とかHPとかにその旨を掲載すべきだ」という意見があって、確かに信徒になってから「什一献金というのがあって・・・」とか言われるのは後出しジャンケンみたいなものかもしれない。
 けれど信仰の姿勢は教会によってイロイロで、洗礼とか聖餐式とか献金とか多岐に渡るから、そういうのをいちいち初めに断わるのも現実的でない。それに什一を捧げるクリスチャンにとってそれは当然のことだから、逆に掲載する必要性を感じない。

・8月の閲覧数最多記事
 ハロウィンを悪魔崇拝と決めつけるクリスチャンの浅はかさ。

 アメリカの元サタニスト(?)が「ハロウィン=悪魔崇拝」も主張していて、その言い分がトンデモ過ぎるから書いた記事である。「カボチャが悪魔の通り道になって人に憑りつく」「仮装するとキリストの救いから漏れる」とかいう「ムー」的な内容であった。そういう主張を真顔でするのも驚きだったけれど、もっと驚くのはそれを本気で信じるクリスチャンがいることだ。たぶん彼らは聖書を全部読んだことがないか、聖書を入手できないところにいるか、どちらかだろう。

・9月の閲覧数最多記事
「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感。

 今が終わりの時代だから、神様がダビデの幕屋をそのままの形で回復させようとしている、という主張のもと、24時間365日の礼拝をする人たちがいる。彼らは礼拝はそうでなければならないと言う。しかしダビデの幕屋は古い契約のもとにあり、今は新しい契約の時代なので、ダビデ時代の礼拝をそのまま再現する必要はない。そうしてもいいけれど、それは義務ではない。

・10月の閲覧数最多記事
【雑記】携挙延期説・目的志向型クリスチャン。

 雑談的に書いた詰め合わせ記事である。
「10月携挙説」を推す自称クリスチャンがいたけれど、指定日を過ぎても何も起きなかった(当たり前だけれど)。それで今度は「指定日が延期された」と言い出した。そして現在に至るまで延期されている訳である(あるいは回避された?)。これでニセ預言者確定だろうと思ったけれど、いまだ盲信している人がいて「ダメだこりゃ」である。

・11月の閲覧数最多記事
【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・献身篇

 小説中でキマジメくんが大学を辞めて教会献身してしまったのだけれど、彼はすごく真剣に、信仰をもって献身した訳である。そこには多くの間違いがあって、考え直すべきなのはもちろんである。けれど、たとえばそれが10年、20年続いてしまったら、その時になって気づかされるのは非常に酷なことである。人生続けられないかもしれない。だから間違えているとしても、それが明らかに反社会的なことでないなら、続くことが神様の憐れみなのかもしれない。と私は思う。
 それがダメだ、問題だ、とあくまで正論にこだわる人は、仏教とかイスラム教とかヒンズー教とかの人たちにもダメ出しして回ったらいいだろう。

・12月の閲覧数最多記事
 クリスチャンと「偶像崇拝」について。

趣味も偶像、特技も偶像、何でも偶像、ということで、教会に引きこもって聖書・祈り・礼拝だけしているのが一番いい、と主張する人たちがいる。けれど教会に引きこもると「自分って霊的」という偶像に引っかかるので、有効な手段ではない。結局それは禁欲でしかない。

 以上、月毎の閲覧数最多記事をお送りした。ちなみにこの中でトップは8月のハロウィン記事であった。
 読んで下さった皆様にここでお礼させていただく。皆さんにとってこの1年が良い年でありますように。
 

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