2015年1月17日土曜日

クリスチャンに不可能がないなら世界はもっと良くなっているはず、という話・その2

前回は聖書を文脈無視する牧師による「クリスチャンに不可能はない」説について書いた。今回は信徒の側が陥る「できる・できない思考」について書いてみたい。
 
 教会での信徒の地位を決めるのは、たぶん信仰歴の長さとか人徳とか「賜物」とかだと思う。とりわけ「賜物」は重要で、たとえば「異言」が話せるとか、「預言」が語れるとか、「霊を見分けられる」とかだと地位がグッと上がる。すごく「霊的」と思われて、特別視されるからだ(もっともそれらの賜物自体が眉唾モノである)。
 他にも歌が上手だとか、楽器が上手だとか、話がうまいとか、何か特別に秀でた部分があると有利になる。
 けれどそれはぶっちゃけ、能力的序列でしかない。「できる」人がより高い地位に就くという、一般社会では当たり前な法則に従っているに過ぎない。そしてそれは「人の上に立ちたい者は皆に仕えろ」という聖書的基準に正面から逆らっている。
 
 けれどそういう序列を好むのもまた人間の性である。弟子訓練などの序列組織を取り入れてしまうのもそこにある。「できる・できない」の世界だ。しかしそこにこだわって「自分の教会での地位は高い」と思っている人ほど、いい年して人格的に成熟していないのをよく見る。
 
 たとえばある教会で賛美奉仕している人がいる。ちょっと名が知られているらしく、アメリカの教会に呼ばれて蹴った経験があるとのこと。だから自信があって「できる」と思っているのだろうけれど、その人の舞台での態度は「俺ってすごいでしょ」感丸出しである。映画で言えばセガールとかヴィン・ディーゼルあたりの俺様気取りに似ている。アクション映画ならそういう傲慢さがうまくハマるとむしろ良いのだけれど、キリスト教会の賛美リーダーがそれだと全然いただけない。見ている人を賛美から遠ざけてしまう。
 
 また、それとは逆に「何もできない」と言う人もいる。妙に卑屈になって「私は何もできない。何の賜物も能力もない。何の役にも立たない」とか言うけれど、ちょっと卑屈な気がする。実は何もやりたくないのか、他者と比較してひがんでいるのか、どちらかではないだろうか。
 
 私たちが自身に対して思う「できる・できない」は案外アテにならない。「賛美ができる」と思っていても、別の教会に行ってみたら全然ダメだったと気づくかもしれない。あるいは「人に聞かせる演奏なんてできない」と思っている人が、別の教会ではピアノが弾けるだけで重宝がられるかもしれない。
 
 それに「できる」から用いられるということでもない。たとえばちょっと勉強しただけで「カウンセリングができる」と自信満々になった人が、信徒に声を掛けて回る。自分が話を聞いてやって導いてやろうみたいに思っているけれど、余計なお世話だ。それは「できる」けれど「できていない」。
 
「できる・できない」は自分や他人が下す評価でしかない。それが大事でないとは言わないけれど、そこにこだわりすぎても仕方がない。私たちは「できる・できない」にかかわらずすべきことをするだけだし、やれるだけやってみるだけだ。そう思うなら「できる・できない」などそもそも何も関係ないことがわかる。

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