教会を離れた人に何をすべきか

2015年1月24日土曜日

教会生活あれこれ

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 教会を離れた人に対して教会やクリスチャンはどうするべきだろうか。
 よくあるQ&Aを見ると、答えは2つあるようだ。

 ちなみにここで言う「教会を離れた」は、仕事とか学業とか家族とかの都合でやむを得ず離れたのでなく、もっと感情的で個人的な、「行きたくない」という動機によるものである。

 そういう人への対処法として、とあるQ&Aが挙げる答えの1つ目は、「その人との個人的な関係を維持しておく」ことだ。
 教会に行きたくない、牧師の顔を見たくないという人でも、仲の良い信徒となら会いやすい。だから時々会うことで関係を維持しておき、その人がまた教会に行きたいと思った時に気兼ねなく戻れるようにしておく、ということらしい。

 もう1つは、「礼拝の大切さを教える」ことだ。
 クリスチャンは礼拝を通して神様と霊的につながり、力を受ける。だから礼拝しないことは神様から離れること、力を失うことだと教えるべきだ、という。

 どちらももっともらしく聞こえるけれど、ちょっと待てよと私は思う。

 1つ目の個人的関係の維持自体には、さほど異論はない。人と人の付き合いは自由であるべきだからだ。けれど教会を離れた人がそこの信徒に会うと、どうしても教会を想起してしまう。だからあまり会いたくないのではないだろうか。会うにしても、自ら「会いたい」のではないだろう。

 そしてその個人的関係が続くかどうかは、信徒の側のやり方次第だと思う。
 信徒の最終目標がその人との個人的関係の維持でなく、あくまで教会に戻すことにあるとしたら、きっと続かない。どれだけ受容と共感の態度で接しても、結局のところ信仰とか神様とか祈りとかをその関係に持ち込んでしまうからだ。でも相手はそれがイヤで離れたのである。

 だから信徒の側はよっぽど注意して接しなければならない。そもそも教会に戻ってもらおうなんて思っていたら無理だと思う。あくまで相手との関係を楽しむとか、相手そのものに興味関心があるとか、そういう付き合い方でないと続かないだろう。そしてその先には、必ずしも教会への復帰がある訳ではない。

 それくらいの覚悟と理解がなければ、個人的関係の維持はできない。そういうことがわかった上で挙げた対処法なのだろうか。

 もう1つの対処法、「礼拝の大切さを教える」だけれど、これはあくまで正論であって、異論をはさむ余地はない。
 けれどこの視点に欠けているのは、人間はいつも正論だけで動くのではないという事実だ。

 たとえばカルト化教会を抜け出た人は、教会や礼拝から離れることでかえって安息を得ている。はじめて自由になったと感じ、人間らしさを取り戻し、自分の生活を回復している。教会生活が長ければ長いほどそのギャップは大きい。

 これはおそらく経験した人でないとわからないけれど、「礼拝することで力を受けます」と言われてもまったく同意できない。むしろ礼拝と聞くだけで拒絶反応が出たり気分が悪くなったりする。どれだけ理屈をこねられても、現に教会から離れたことで力を取り戻したのだし、教会と聞くだけでその力を失いそうになるのだから、正論は正論、現実は現実で完全に別なのだ。

 もちろんこれはクリスチャンになりたての人の話ではない。信仰歴が長く、礼拝の大切さがよくわかっている人の話だ。

 それにこの2つの対処法はどちらも、教会を離れた理由をその個人に求めている。その人に何か問題があって、教会生活がしづらくて、それで離れたんだという理解になっている。教会の側の問題を認める姿勢がない。少なくとも積極的に認めて変えようという姿勢はない。

 だから「個人的関係を持っていつか教会に戻れるようにしてあげよう」「礼拝の大切さを教えてあげよう」という果てしない上目線なのだ。そもそもそれがイヤで教会を離れたかもしれないのに、そういう想像力が働かない。それは人を理解することでも愛することでもない。としたらその教会なりクリスチャンなりは自ら率先して聖書に反していることになる。

 という訳で、教会はもちろん信徒を大切にしなければならないけれど、離れてしまった人のこともそれと同等がそれ以上に大切にしなければならないと思う。
 そして教会をもっと良くしたい、改善したいと思っているなら、そのヒントは教会にいる信徒たちにでなく、離れて行った人たちにこそあるのではないだろうか。

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