2014年9月30日火曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第42話

 その夜、キマジメくんはベッド脇に跪き、また「異言」で祈った。時折、両親のことが思い出された。そのたびに、「主の御名によって」その思いを振り切った。主にのみフォーカスを置いて祈らなければならない、と溝田牧師に言われているからだ。

 もはや両親に理解してもらおうと期待していなかった。ただ、自分の進む道を邪魔されるのだけは困る。この終末の時、自分に与えられている使命を全うしなければならないからだ。そして来たるべき「携挙」の時に、取り残されないようにしなければならない。
 だから両親とは、しばらく連絡を取らないことにした。話せばややこしくなるし、それで自分の働きが妨げられるかもしれない。それでは敵である「サタン」の思う壺だ。御心が止められることだけは、あってはならない。

 と、いうようなことを考えながら、キマジメくんは祈った。「バラバラ」という異言を時に低音で、時に高音で、時に早く、時に遅くしつつ続けた。するとそのうち、ある御言葉が心に浮かんできた。
「私のために両親を捨てた者は...」
 瞬間、これは主からの言葉だ、とキマジメくんは確信した。やはり主も、両親と距離を置くようにと言っておられるのだ。自分の考えは、間違っていなかった。
「主よ、感謝します」
 キマジメくんは呟く。「どうか両親による迫害を私が力強く退け、あなたの御心を十分に為し遂げることができますように」
 そこまで祈ると、キマジメくんは満足してベッドに入った。「異言」で長く祈ったせいか、体が熱くなっている。主の臨在に包まれているからだろう。体のどこか深いところから、力がみなぎってくるのを感じる。これが聖霊の力なのか、とキマジメくんは感心した。まだまだ祈れそうだった。
 やはり、「異言」の祈りの効果は絶大だ。今までできなかったことが、大きな損失に感じられる。そんなことを考えながら、キマジメくんは眠りについた。

 翌日は月曜で、朝から教会でミーティングがあった。キマジメくんは初めて、平日の朝から教会に行った。もう大学に行く必要はない。何だか心がウキウキして、かなり早く家を出てしまった。
 ミーティングは10時からだけれど、9時には会堂に入った。当然ながら誰もいない。キマジメくんは会堂を掃除しながら待つことにした。もちろん、その間も「異言」の祈りは欠かさない。掃除機をかけながら、「バラバラ」と呟く。
 9時50分になって、サトリコ姉妹がやって来た。それに続いて、何人かのスタッフがやって来た。それぞれ挨拶して談笑する。キマジメくんは初めての参加だったけれど、皆快く迎えてくれた。
 そんなこんなで10時になったが、溝田牧師はまだ来ていない。もうミーティングの準備はできている。皆手持ちぶさたで、話したり、スマホをいじったり、思い思いにしている。そうこうしているうち10分たち、20分たち、30分たった。スタッフの1人が、サトリコ姉妹に言う。「ちょっと遅すぎませんか。先生に連絡してみては」
「そうですね」姉妹がスマホを取り出す。ちょうどその時、ドアが開いた。溝田牧師だった。
「いやいや、遅れてすまないね」そう言いながら入ってくる。「急な電話があってね、どうしても対応が必要だったんでね」
 スタッフは口々に、「朝から大変ですね」とか「ご苦労様です」とか言う。キマジメくんも何か気の効いたことを言おうと思ったけれど、タイミングを逸してしまった。
 中央の席に腰を下ろした牧師が、一堂を見回すと
同時に言った。「あれ、タタカイ兄弟がいないじゃないか。どうなってるんだ?」
「特に連絡はありませんが」サトリコ姉妹が素早く答える。
「じゃあ連絡したまえ」と牧師。「ミーティングに遅れるなんて言語道断だよ、冗談じゃない」
 サトリコ姉妹が電話をかけ、話しはじめる。すると溝田牧師が電話を回すよう合図した。サトリコ姉妹はすぐに牧師に電話を渡した。
「もしもし、タタカイ兄弟か」牧師は受話器に向かってぶっきらぼうに言う。「君ねえ、どんな事情があってもミーティングに遅れるなんて言語道断じゃないか。いつも言ってるだろう。君を待ってる間、こっちは話が進まないんだよ。この損失どうしてくれるんだ? こうしている間にも主は働いておられるんだよ。それなのに君のせいで教会全体が遅れてしまうじゃないか! 大至急来たまえ!」
 それだけ言うと溝田牧師は電話を切り、足を組み直して、ふんぞり返った。
「まったく困ったもんだ」
 そう言ったきり、黙り込む。スタッフも一堂黙っている。
 キマジメくんは、「これが献身か」と思った。身の引き締まる思いだった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年9月29日月曜日

一方的で勝手な「和解」の決めつけ・その3

「和解の務め」の問題点について、3回目になるが書きたい。
 
 この活動の問題点は、一口に言えば「一方的」なことだ。ある地域や場所について、一方的に「禍根がある」と決めつけ、勝手にやって来て、勝手に祈ったり叫んだりして、一方的に「和解できた」と決めつけて行く。誰も頼んでいないし、もし頼んだとしてもそういう形の謝罪や和解を願っているのではない。けれどそんなことお構いなく、結局のところ自分たちが「霊的に」満足できればそれでいいのである。
 とても、その地域の人を大切にしているとは思えない。とんだ「和解」である。
 
「和解の務め」推進教会は、前回も書いた通り、だいたい歴史的な事柄を取り上げる。太平洋戦争しかり、関ヶ原しかり、明治維新しかり。他にも沢山ある。けれどそういった出来事は、どう考えても禍根を残している。いちいち祈って示されるまでもない。想像すればわかる。東京大空襲で炎に焼かれた一般の人々が、何の恨みもつらみもなく死んでいったはずがない。他にも歴史上、理不尽に殺された人はたくさんいるし、とても数えきれない。人類の歴史とはそういうものだ。残酷で理不尽な死で溢れている。

 くわえて、歴史に残らない理不尽な死だって相当ある。私たちの知らない、想像すらできないところでも、人々は不条理な死を迎えているはずだ。
 
 それなのに、歴史的に有名で、どう考えても禍根をたくさん残しているだろう事柄だけを取り上げて、「主がこの和解を願っておられる」と言うのは、明らかに不公平だ。もしそれが本当に神様からのものなら、神様が不公平で意地悪だということになる。何故なら、ある殺人は特別に和解が必要で、そうでない殺人はべつに必要ない、という話になるからだ。それは人の命の重みに、差別を付けることになる。
 
 また、もし神様がそういう理不尽な死の和解を望んでおられるなら、私たちは全ての殺人事例を、太古の昔にまで遡って調べなければならない。それが無理なら、何らかの方法で神様から教えてもらわなければならない。そしてできるだけ大勢で手分けして、時代や地域別の名簿を作り、この殺人は和解成立、これはまだ、みたいな作業をしなければならなくなる。おそらく、礼拝どころではない
 
 結局のところ、「和解の務め」推進教会は、わかりやすくてドラマチックな「和解」を演出したいだけなのだ。
 たとえば会津の白虎隊の「和解の務め」など、さぞ感動的だろう。若くして散っていった志士たちの無念を「主にあって」「霊的に」贖い、和解をもたらすのだから、それは大変なお涙頂戴ムードになるだろう。彼らお得意の、涙と感動のショータイムだ。
 しかしその行いは、はっきり言って死者を冒涜している。(たとえば白虎隊の例で言えば)若くして死んでいって可哀想、気の毒だ、とか思うまではいいけれど、「自分たちの祈りでそこに十字架の血潮を適用し、その無念を晴らしてやった、彼らの禍根は解決した」とか言うのは、死者に対する敬意などではない。死者を利用して、自分たちを何者かに引き上げようとしているだけだ。
 
 という訳で、やはり「和解の務め」は間違っている。もし将来、あなたの教会の牧師がそういうことを言い出したら、よくよく注意するように私は勧める。

2014年9月28日日曜日

一方的で勝手な「和解」の決めつけ・その2

 前回は、一部のクリスチャンによる「和解の務め」という主張について書いた。

 その「和解」は聖書に基づいたものでなく、常識的に見ても失礼なものだ。勝手に来て勝手に祈り、「じゃ、和解したから!」と言って去っていくようなものだからだ。とても和解とは呼べない。
 今回はこの「和解の務め」について、べつの視点から書いてみたい。

「和解の務め」の具体例は、前回挙げた通り、太平洋戦争とか関ヶ原の戦いとか、明治維新とかがある。基本的に歴史的な出来事だ。それは、既に当事者がおらず、よって当事者どうしで和解することがもはや不可能で、しかし禍根だけが現在まで残っている、という状態でなければ、「和解の務め」にならないからだ。現在進行形の問題なら、当事者どうしの和解で済む。済まないから「和解の務め」が必要なのだ、という理屈だ。
 それで、主がその禍根の解決を願っているからと言って、彼らは「和解の務め」を推進する。すでに当事者間で解決できなくなっている事柄を、「霊的に」「主の御名によって」解決しようとする。

 しかしこの考え方は、少なくとも2つの点で検討が必要だ。

 まず第一に、先祖の罪を子孫が負う必要があるのか、という点だ。
 これは、世界中で議論されてきた。たとえば、ナチス・ドイツの所業を現ドイツが負うべきなのか。世界中を植民地にしたイギリスは現在もその責めを負っているのか。あるいは先住民を追い払った過去を持つアメリカやオーストラリアは、現在マイノリティとなった先住民たちに、何らかの補償をすべきなのか、等。挙げたらキリがないし、その議論も終わることがない。

 人道的に考えれば、先祖のせいで被害を受けた相手がいるなら、その子孫が何らかの補償をするのは自然なことに思える。ドイツも第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国に謝罪と補償をしたと聞いている。もっと身近な例で言えば、たとえば自分の親が殺人を犯してしまったら、子どもも後ろめたい気持ちになるし、被害者遺族に合わす顔がないと感じる。そういう意味で、「先祖の罪は私の罪です」と言うのは人道的なことに思える。

 しかしまったく同じ状況で、「自分がそれをした訳ではない。望んだ訳でもいない。だいいち、その場に私はいなかった」という言い方もできる。これももっともな意見だ。先祖の罪が私の罪であるならば、自分がやってもいない罪で裁かれることになってしまうからだ。

 という訳で、これは難解なテーマだ。眠れない夜には、こういうことを考えたら暇つぶしになるかもしれない。けれど上記の「和解の務め」推進教会は、問答無用で前者を正しいとしている。すなわち、「先祖の罪は私の罪、だから私が和解の務めをするのです」という訳だ。

 しかし聖書は、この問題について、非常に明快に答えている。
「親の罪で子は裁かれない」
「人は自分自身の罪によって裁かれる」
 だから先祖の罪は先祖の罪、私の罪は私の罪であって、両者は何の関係もない、ということだ。だから先祖がしでかした罪は先祖の問題であって、子孫はそれに縛られない。だから「和解の務め」とか言って子孫が祈っても、それで先祖の罪が許される訳ではない

 もちろん、これは聖書に見る「罪」の責任の所在であって、たとえばナチス・ドイツの所業の責任を新政権が全く無視していい、という話ではない。それは国家としての責任の問題だ。

 第二は、先祖の罪が禍根となって地上に残っていて、それが悪影響を及ぼしている、という考え方についてだ。
 ある地域が祝福されないのは、そこで多くの血が流されたり、多くの罪があったり、過去の人々の叫びが眠っていたりするからだ、と彼らは言う。
 確かに、旧約聖書を見ると、ダビデが神殿建設を許されなかったのは「血を流し過ぎたから」とされている。
 けれどそれは旧約の話であって、新約とは違う。新約は、キリストの十字架によって全ての罪が贖われた、と言っている。ゆえにクリスチャンが何かに「呪われる」ことはないし、過去の罪に縛られることもない。先祖の誰かの罪を代わりに負う必要はないし、負うこともできない。もちろん歴史は大切にすべきだけれど、それに縛られ、何かをしなければ解放されない、というのは間違っている。そういうのはオカルトであり、映画や漫画の世界だ。

 という訳で、やはり「和解の務め」は間違っているし、とんだ見当違いをしている。そういうことをしているクリスチャンや教会があるなら、ぜひその間違いに気づいてほしいと思う。

2014年9月27日土曜日

一方的で勝手な「和解」の決めつけ

「和解の務め」を言うクリスチャンがいる。
 
 キリストが十字架で、神と人との和解を成し遂げた。そのキリストの弟子である私たちクリスチャンにも、同じ務めがある。すなわち「和解」のために行動しなければならない、という。
 
 その文脈で言うと、未信者に福音を伝えて信仰に導き入れることが、私たちの「和解の務め」だと考えられる。神と未信者との和解になるからだ。それならすんなり理解できる。けれどそれは、「和解の務め」なんてややこしい言葉でなく、単に「伝道」と言えば済む。
 
 けれど彼らの言う「和解の務め」はちょっと違う。
 たとえば国と国、地域と地域、集団と集団のいろいろな対立を取り上げては、「私たちが主にあって和解の務めをしなければならない」と言う。
 一例を挙げると太平洋戦争時代、日本はアジア諸国を統治したけれど、その謝罪が十分でなく、今も各国と「霊的に」わだかまっている、という。だから現代の私たちが、祖父らに代わって謝罪しなければならいそうだ。
 他にも、関ヶ原の合戦以来、日本は東西が「霊的に」いがみ合っているから「和解」しなければならないとか、会津藩は幕府に恨みがあるから「和解」しなければならないとか、まあそういう歴史をいろいろ調べてきては、祈りの場に持ち寄るのである。
 
 それで彼らがどんな「和解」をするかと言うと、簡単に言えば、現地に行って祈る
 まず現地に入ったらプレイヤーウォークなどして、「霊的に重要な地点」を(感覚頼みで)探し出す。そしてその地点に行ったら、どんな種類のわだかまりがあるのか、争いがあるのか、どんな悪霊が働いているのか等、祈りによって(感覚頼みで)知る。それで戦う対象がわかったら、今度は「霊の戦い」である。叱ったり怒鳴ったりして、悪霊を(感覚頼みで)退ける。そして決め台詞はこうだ。
「主にあって和解の務めを果たします」
 その一連の活動が終わると、ハレルヤ、主の勝利、歌えや踊れや、となる。
 
 それでその地の「和解」が成立して、何か良いことが起こっていくなら、こんな簡単な話はない。
 しかし実際のところ、それでアジア諸国がいつの間にか納得している、なんてことは起こらない。巨人ファンと阪神ファンが全員仲良くなるなんてこともない。会津の人たちが急に感動して泣き出すこともない。
 結局のところ、それは彼ら自身の「内輪受け」、あるいは独り善がりならぬ「教会善がり」なのだ。勝手に「わだかまりがある」と決めつけ、勝手に戦い、勝手に祈って「和解させた」と言い張っているだけだ
 なぜなら、聖書はそういう種類の和解を仲介しろなんて言っていないからだ。
 
 それに聖書を持ち出すまでもなく、それが本当の「謝罪」とか「和解」とかでないのは一目瞭然だ。なぜなら謝罪とは、当事者が当事者に謝ることだからだ。和解も、当事者どうしがするものだ。彼らのように勝手に行って勝手に祈ったから成立するものではない。それでも彼らは「霊的に・・・」とか言うかもしれないけれど、そんなの現実世界では何の役にも立たない。
 
 一万歩ほど譲って、仮にそれで謝罪や和解が成立すると言うなら、次のケースについてどう考えるだろうか。
 
 アメリカは日本に2度も原爆を落としたけれど、公式な謝罪はない。むしろ「戦争を早期終結させてやった」とか言っている。けれど多くの日本人はそれを納得していないし、どこかで怒りや憎しみをい抱いている(と思う)。
 これは、彼ら風に言えば「霊的にわだかまっている」状況であろう。
 ここで、アメリカのクリスチャンらが、「和解の務め」をしようと来日する。そして広島や長崎を巡り、プレイヤーウォークをして「重要地点」を探り、そこで「霊の戦い」をし、悔い改めの祈りをして、「和解成立」と宣言したとする。
 日本人はそれを知ったら、本当に「和解」として受け入れるだろうか。
 
 少なくとも私はそういう形の「和解」は受け入れない。アメリカに対する個人的恨みはないけれど、そういう問題ではない。全然関係ない奴らが何も言わずに勝手にやって来て、勝手にやって勝手に宣言しただけで、自分とは何の関係もないからだ。むしろ、それで「和解した」とか言われても困る。
 だからそれは謝罪や和解でないどころか、何の意味もないパフォーマンスでしかない
 
 同じようなことをしていると思い当たった方がいたら、是非とも考え直すことをお勧めする。
 

2014年9月25日木曜日

人類にはユートピアよりディストピアの方がふさわしいのか

 アメリカのテレビ番組に "Utopia" というのがある。ユートピア、すなわち楽園を意味するタイトルだと思われる。「持続可能な楽園をつくる社会実験」というフレーズが、たいへん興味深い。

 紹介記事はこちらから。

 アメリカで無作為に選ばれた15人が、持ち物も地位も社会背景も取り去られて、人里離れた山中に造られた「楽園」に入る。そして自分たちだけでそこを維持していく。食糧を自給し、ゴミの処理方法を考え、役割分担し、その他諸々の課題に取り組んでいく。その一部始終を監視カメラが見張る。果たして彼らは、地上の楽園を作り上げていけるのか。
 という過程を追う、いわゆる社会実験ドキュメンタリーだ。お金も時間もかかる試みだと思うけれど、さすがアメリカと言うべきか。

 ただ制作側としては、初めからユートピアができるとは思っていないようだ。紹介記事にもある通り、むしろ逆のことが起こると確信している。つまり、ユートピアはディストピアに変わり果てると。

 確かに、そうでなければ番組としては成立しない。幸せに暮らす楽園の様子を延々と見せられてもきっと退屈なだけだ。それよりトラブルが起き、人々が絶えずぶつかり合い、次はどうなるのかとハラハラさせられる方が、テレビ番組にはふさわしい。

 既に番組は始まっていて、ある程度、制作側の思惑通りに進んでいるようだ。が、まださほど「面白い」展開にはなっていないという。日本で観られるなら観てみたいけれど、どうなのだろう。

 ところで、制作側が言う「交流は対立を生む」は、なかなか的を射ていると思う。人が集まるところに対立が生まるれる。としたら、人が集まるところにユートピアは実現しないということだ。するとこの番組は、ユートピア実現を目指すと言いながら、実はそれが存在しないことを証明しようとしているのかもしれない。

「対立を生まない為には孤立するしかない」とうようなことも言っている。他者とぶつからず、平和を実現するには、部屋に閉じこもってゲームやテレビに熱中しているしかない、と。もし誰とも関わらず、閉じこもったままでいられるなら、それは確かにユートピアかもしれない。しかしある人にとっては、それこそまさにディストピアとも言える。

 私がその番組を仕切れるとしたら、同じ教会のクリスチャンだけを何人か集めて実験してみたい。同じ神を信じ、聖書に従う人々であれば、一致してユートピアを実現できるのだろうか。あるいはやはりどこかに対立が生まれ、ディストピアの様相を呈してしまうのだろうか。

 しかし考えてみれば、私たちの先祖はエデンの園というユートピアにいた。そこを永遠に管理するはずだった。けれど罪を犯してしまったので、閉め出されてしまった。その末裔が私たちなので、やはり根本的にユートピアを実現するのは無理なのかもしれない。
 そういう意味で、この番組が証明しようとしていることは、人間の本質を突いているように思える。

2014年9月24日水曜日

クリスチャンの目的って何だろう

 前回「人間の尊厳」について書いていたら、ふと、人は何の為に生きるのだろうか、と考えさせられた。ちょっと中二病っぽいなと自分でも思うけれど。

 この「何の為に生きるか」は、もちろん人それぞれだろうし、いろいろな価値観があっていいと思うけれど、たとえばクリスチャンであれば、信仰を切り離して考えることはおそらくできない。何かを信仰するということは、その教えに従って生きることだからだ。
 だからクリスチャンである人の生きる目的は、本質的に「クリスチャンの目的」と合致しているのではないかと思う。そしてそれはキリスト教の目的とか、聖書の目的とかと言い換えることもできるだろう。今回はこの「クリスチャンの(生きる)目的」について、少し考えてみたい。

 けれどこれは、たとえば『ウェストミンスター小教理問答』なんかを開くと単純明快に答えられている。すなわち第一問、人間の第一の目的は、「神に栄光を帰し、永遠に神を喜びとすること」である。「神を礼拝すること」と言ってもいいかもしれない。それがクリスチャンの第一の、そして絶対これだけは外せないという目的なのであろう。なるほどわかりやすい。

 けれどこれは広義な定義であり、もちろん納得できるけれど、今一つピンとこない。具体的でないからだ。そして「神に栄光を帰し、神を喜ぶ」ことが具体的に何なのかというと、これまた人それぞれではないかと思う。すると話が振り出しに戻ってしまう気がする。

 だからここは消去法で考えることで、そのヒントを探ってみたい。つまり今日のクリスチャンや教会がやっていることで、「それは違うんじゃないか」ということを挙げてみたい。「基本的に正しそうだけれど、何かズレている」という活動が、失礼ながら時々見受けられるからだ。

・未信者が(ほとんど)来ない伝道集会

 伝道集会とは文字通り「未信者に伝道する」ための集会のはずで、教会はポスターを作ったりチラシを配ったりして頑張るのだけれど、結局内容が「クリスチャン向けの特別賛美・ダンス・その他諸々のお披露目会」になってしまっている。そのせいか真っ新の未信者は来ない。信徒の親族とか知り合いとかが、義理で来るくらいだ。まったく伝道にならない。しかもそういう状況に対して何の反省も改善もなく、同じようなことを毎回繰り返している。
 伝道はクリスチャンの目的の一つだろうけれど、このやり方ではないと私は思う。

・事業でカネ儲け

 教会が福祉とか飲食とかの事業を立ち上げることがある。最近増えている。これには、
①教会会計を潤し、
②「働き人」を経済的に支え、
③地域の雇用を促進し、
④従業員、顧客への伝道のチャンスとする、
 という目的がある。良いことづくめに思える。これだけ見たら、事業をしない手はない、となるかもしれない。
 けれど実際には、経営難に陥って奔走することになるケースが多い。ある教会など、毎週の礼拝が「事業運営の為のミーティング」みたいになってしまっている(それだけ切迫しているのだ)。そうなると教会会計も「働き人」も経済的に支えられず、逆にバイトなどして事業を支えなければならなくなる。本末転倒である。
 またそうならない為に、従業員に長時間労働や無理な営業を強いることがある。それで運営がうまく行ったとしても、それは従業員の労働過多に支えられた事業でしかない。ほとんどブラック企業の域で、証にならない。従業員への伝道などまったく不可能だ。
 中には従業員に無理がかかっておらず、経営も順調な事業もある。けれど、じゃあ従業員や顧客に本当に伝道できているかと言うと、ほとんどできていない。なぜなら宗教色を出すことで不審に思われ、顧客が離れていくのではないか、という恐れがあるからだ。
 こういう事業は基本的に悪くはないのだろうけれど、実際には多くの場合、クリスチャンの目的から離れていく原因になると私は思う。

・異性を侍らす人事

 上記の伝道集会とか事業とかで「忙しい」男性牧師が、「秘書が必要だ」とか言い出して、なぜか若い女性信徒を指名することがある。理由は、「女性ならではの気遣いでサポートしてほしい」「女性の方がしっかりしている」とかだ。「忙しすぎて自分のスケジュールが把握できない。だから仕方ないだろう」みたいなことをしきりにアピールする。聞いてもいないのに。
 それで、秘書と二人の時間を多く過ごすようになる。けど、結局それが目的だったんじゃね? という疑念が拭えない。けれどそういう牧師に限って、「異性関係には注意しなさい。誤解されないように」などと信徒に注意している。
 これはクリスチャンの目的でなく、何かべつの目的であろうと私は思う。

・終末予想

 これは当ブログでも何度か取り上げているけれど、あるクリスチャンは携挙がいつだとか、主からの特別な啓示だとか、準備がどうとか、そういうことばかりに躍起になっている。けれどそのメッセージは、「終末だ」の一言に尽きる。他のメッセージが何もない。いつ来るともしれない終末という「噂話」に興じているだけだ。
 それはクリスチャンの目的とは全然違うと私は思う。

 以上、クリスチャンの目的として「違う」と思うものを挙げたけれど、あまりに違い過ぎて、ヒントにならなかったかもしれない。

2014年9月22日月曜日

沈没するまで「待機していなさい」と言われる理不尽について

 今年4月16日、韓国でセウォル号沈没事故が起きた。犠牲者約300人という近年稀に見る大事故となった。その犠牲者の多くは修学旅行中の高校生で、船長や航海士らの緊急対応のずさんさも含め、大々的に報道された。
 
 的確な避難誘導があれば助かる命も多かったと聞く。多くの犠牲者は、船長らの指示に従って船内に留まった結果、命を落とすことになってしまった。まさに人為的な悲劇である。
 
 生存者の証言によると、最初はそんな大事だとは思わなかったとのこと。
 船に何かの衝撃があったけれど、多くの乗客は指示通り、客室で待機していた。次第に船が傾きはじめたけれど、指示はやはり待機。しかし船はさらに傾き、ある時点で浸水しだした。水は見る見るうちに溢れ、その時になって、やっと沈没しかかっているのに気づいた。けれど避難する時間は、ほとんど残されていなかった。
 
 船長らの責任が大きいのは言うまでもない。遺族の無念やいかに。責任の所在がしっかり調査され、裁かれるべきが裁かれることを願うばかりである。
 
 この事故についていろいろ思いを巡らせていると、カルト化教会にも、この事故と似たような構造があるのに気づいた。
 
 ところで「カルト化教会」と言っても、定義を言い出したらいろいろあるだろうから、ここでは「信徒が信仰の名の下に不当に苦しめられている状態」にある教会を指すことにする。
 
 カルト化教会の信徒は、自分がカルト化教会にいるとは認識していない。苦しんでいるとしても、信仰の訓練を受けているのだから仕方がないと思っている。それはある意味で、沈没しかかっている船に乗っているようなものだ。
 次々と提示され暗に要求される献金とか、終わりのない奉仕とか、学歴もキャリアも捨てさせられる献身とか、ずさんで牧師勝手な会計管理とか、そういう「非常識」がすべて「信仰」に見えて、「神の御心」に見える。いつの間にか自分が苦境に立たされていることに気づかない。苦しくても、「置かれた場所で耐えるのが信仰だ」とか言われる。
 それは、沈没しかかっているのに「その場で待機していなさい」と言われて律儀に従っているようなものだ。

 そしてふと気づくと、財布が空になっており、家族を養えなくなっている。二進も三進もいかなくなっている。客室が水でいっぱいになり、どこにも逃げ場がないのと同じだ。
 その時になってようやく、正気に返る人がいる。「これは間違いだったんじゃないか」と考える人がいる。しかし、気づいて取り戻せる人はまだいいけれど、多くを取り戻せない人もいる。

 セウォル号沈没はどう見ても悲劇であり、本来あってはならないことだ。死んだ人は帰ってこない。遺族の方々には、かける言葉もない。
 けれどあえて言わせてもらうとすると、そこには教訓が残されている。その教訓をどうするかは、残された者にかかっている。
 

 カルト化教会の被害者にも同じことが言えると思う。大変な目に遭ったし、まだその痛みがあると思うけれど、そこには教訓もある。もちろん痛んでいるうちは何もできない。けれどいつか回復した時、その教訓を何らかの形で生かすことができるなら、その被害も無駄ではなかった、とはじめて言えるのではないだろうか。

2014年9月21日日曜日

人は誰でも大切に扱われるべきだ、という話

「権利擁護」が叫ばれて久しい。

 最近の日本で言うと、2003年施行の「個人情報保護法」がその特徴的な動きだと思う。そのあたりから、女性の権利を守ろうとか社会参加を促そうとか、高齢者を虐待から守ろうとか、そういう具体的な人権擁護が法整備されてきている。たとえば介護の現場で言えば、勝手に動いて危険のある認知症高齢者を「縛る」のは一昔前なら当たり前だったけれど、今は「縛らない介護」が目標とされている。現場の負担が増えても、権利擁護には替えられないという訳だ。

 20世紀から21世紀は、歴史的にみても「人権」が注目された時代ではないかと思う。人種差別の撤廃など、各地で何世紀も続いた人権問題が大きく動いたのは、ここ数世紀の話だ。そして、個人レベルでの体感は別として、国が人権を守ろうとして動くのは、背後にどういう思惑があるにせよ、良いことだと思う。何世紀か前と現在とで、格段に暮らしやすくなったという地域は少なくないはずだ。

 とはいえ、差別がまだまだなくならず、人権の守られない状況がそこここで続いているのもまた事実だ。先日都議会でも、懲りずに女性蔑視発言があったと聞く。「ブラック起業」という言葉はまだ新しいけれど、その現場では明らかな人権侵害が今日も行われていると思う。

 また、ブラック起業でなくても、職場の上下関係には、「部下の権利は多少無視してもいいでしょ」みたいな意識が潜在しているように思う。
 部下は基本的に上司の言うことに従わなければならないし、逆らうにしても覚悟が必要だし、そういう覚悟を連日繰り返す訳にもいかない。だから(一般論として)上司は無茶を言いやすい立場にあり、部下は無茶に黙って従う立場にある。

 最近、知り合いに子どもが生まれた。奥さんが無事出産して、知り合いはその日は休んだ。しばらく休むのかと思った。けれど、すぐに出社してきた。いわく、仕事が立て込んでいるとのこと。
 彼の仕事内容と忙しさは私もよく知っているけれど、はっきり言って、絶対休めない程ではない。代わりはいくらでも立てられるはずだった。いろいろ聞いてみると、上司のこんな一言があったのがわかった。「自分は子どもが生まれた日も休まなかった」
 その知り合いが将来、自分の部下に同じことを言わないよう願うばかりだ。

 あるいは「いじめ」という問題もある。学校だけの話ではない。職場でもそれは横行している。
 いじめはいじめられる方にも問題がある、という意見があるけれど、私は納得しかねる。いじめる側が強者であり、絶対安全の立場にある限り、それは明らかな人権侵害だからだ。この意見は、殺人事件を見て「被害者にも落ち度はあった」と言うのと同じだ。相手に落ち度があるなら殺してもいい、という話になってしまう。

 これは人間の尊厳に関わる問題だ。
 すべての人に尊厳があり、すべての人が理由なしに尊ばれる権利を持っている。何の差別もない。不当に虐げられていい人などいないし、いじめられて当然な人もいない。家庭でも職場でもどこででも、あなたは尊重され、大切に扱われるべきだ。そしてあなたも、まわりの人をそのように扱うべきだ。
 それが人権擁護の本質であろうと私は思う。
 また聖書も、そのような生き方を推奨している。

 人権擁護について、何となく考えていたことを書いてみた。私もそのように生きたいと思う。またこれを読んだ誰かにもそのように生きたいと思っていただけたら、幸いである。

惑星が珍しい運行をするから神様が特別なことをする、という幼稚な発想について

「天のしるし」を信奉するクリスチャンがいる。

「天のしるし」とは簡単に言うと、太陽系の惑星が何千年かに一度の珍しい運行をするとき(惑星直列とか月食とか日食とか)、地上で神の特別な働きが現れる、というような星占い的な信仰のことだ。
 特に2014年から2015年は非常に珍しい運行になるとかで、特に重要なことが起こると言っている。彼らの普段の言動から、それが携挙を示唆しているのは明らかだ。

 けれど私が思うに、星が珍しい動きをするから神様が特別なことをする、というのは発想が単純すぎる。普段見られない自然現象が起こるから何か特別なことが起こりそうだ、というのは一昔前のSF映画的発想、あるいは幼児期にみられる発想だ。成長すれば、外部で特別なことが起こるからといって自分自身にも特別なことが起こるとは限らない、ということがわかる。

 他にも、彼らはそこにユダヤの祭りの時期も絡めて「特別感」を強調している。けれど、同じ話だ。希少な出来事が起こるから神が特別なことをされる、というのがその根拠となっている。というか、それしか根拠がない。どこに論理性があり、客観性があるのだろうか。「出がけに下駄の鼻緒が切れたから良くないことが起こる」とか、「黒猫が前を横切ったから不吉なことが起こる」とか、そういうレベルの話ではないだろうか。

 それに、そういう星の運行一つで神の働きを予見しようとするのは、神様を自分勝手にコントロールしようとすることだ(できないけれど)。あるいは、「神様の計画はお見通しです」と言うようなものだ。神様の働きは自分の考えや想像の範疇にあり、したがってその動きを読むことができる、と言っているのと同じだ。
 つまり神様を自分と同列、あるいはちょっと下に置いてしまっている。本人たちは気づいていないだろうけれど。

 あくまで仮定の話だけれど、あなたに携挙を起こす権限が与えられているとする。あなたは好きな時に、携挙を起こすことができる。
 ただし条件がある。聖書が言う通り、そのタイミングは「盗人のよう」でなければならない。つまり、思いがけない時に起こさなければならない。「今夜くるかも」みたいなことを誰にも悟らせてはならない。それで、あなたはどういうタイミングで携挙を起こすだろうか?

 私だったら、星が直列する時とか、珍しい天体現象が事前に予測されている時とか、そういう時は選ばない。上記のような連中に予告されそうだからだ。もし星の直列に絡めるのだったら、直列する1日前とか、直列して1日経ってからとか、彼らが「えっ、今?」と言うようなタイミングを選ぶだろう。

 しかし神様は、それよりもっとすごい、誰も考えもつかないようなタイミングを用意されると思う。それが起こった後で、「もうこのタイミングは神様でしか考えられないでしょ」とみんなが感嘆するようなタイミングを選ばれるはずだ。上記の連中のような「星占い」で当てられるような、興ざめなことを神様は決してしないと私は思う。

 神様を軽んじてはいけない。甘く見てはいけない。そのなさることを人間は制せられないし、予測できないし、止められない。
 私たちは神様が何をなさるか、事前に知ることはできない。というか、隣に座っている人が何をするかさえ予測できないのだから、まして神様の行動などわかるはずがない。しかし、私たちはその行動原理は知っている。神様の行動原理は、ちょっとクサい表現だけれど、「愛」だ。

 今すぐ携挙が起こらず、彼らが言うタイミングで携挙が起こらないことを、彼らは神様に感謝すべきだ。何故なら神様は愛深いお方だから、信仰の誤りに気づいて悔い改める猶予を、各人に与えておられるのだから。

追記)
 今日が終末に近いという言い分の背景には、下記のような計算もある。

 アダムからアブラハムまで2000年、アブラハムからキリストまで2000年、キリストから現在までが2000年で、合計6000年。それに患難後の千年王国をくわえると7000年で、キリが良くなる。だから今が終末だ、というもの。

 これまた、単純で、誰でも思いつく発想だ。こんなにキリの良いことをするなら、逆に神様は聖書でそう宣言されたのではないだろうか。

2014年9月19日金曜日

立場によって変わる善悪。映画「母なる証明」ネタバレ篇。

 韓国映画「母なる証明」の紹介に続き、今回はネタバレ篇。未見の方は注意。
 前回の紹介記事の続きとして書くので、未読の方はそちらもどうぞ。

・母子の過去

 理由は(確か)明かされていないけれど、この母子には父親がいない。ゆえに苦労したと思われる。それでトジュンが5歳の時、母は心中を図って彼に農薬を飲ませた。けれど弱い農薬を選んだため、死には至らず、結果的にトジュンに知的障害を残すことになった。
 トジュンは記憶障害もあるため、その件は覚えていなかった。けれど拘留中、アジョン殺害事件について思い出そうとするうち、その心中事件を想起してしまう。それで母を拒絶する。その息子の拒絶が母を更に追いつめることになる。

・アジョンの抱える闇

 殺害されたアジョンは認知症の祖母と二人暮らしで、生活費のため売春を繰り返していた。米や餅でも客を取ったため、「米餅少女」とあだ名されていた。
 理由はよくわからないけれど、彼女は売春相手を全員、密に写メに残していた。終盤になって、その携帯電話が見つかる。その写メを使ってアジョンが売春相手を脅そうとし、逆に殺害されたのではないか、という推理が浮上した。つまり写メの中の誰かが真犯人かもしれなかった。
 ちなみにアジョンは時々、急に鼻血を出すことがあった。それが「真犯人」逮捕につながる伏線ともなっている。

・写メの一人、廃品回収業の男

 母がアジョンの携帯を発見したのと同じ頃、トジュンも拘置所で、事件の夜現場の廃屋に男がいたのを思い出した(ここの演出が、前回書いた『ツインピークス』である)。その男はアジョンの携帯写メにも写っていた。
 男は廃品回収業をしていて、母は一度見かけたことがあった。母は町はずれのボロ屋に赴き、この男こそ真犯人と確信して話を聞く。が、彼は事件の夜、廃屋で休んでいた時にたまたまアジョン殺害を目撃したのだった。

・真相(核心に触れるので注意)

 事件の夜、トジュンがアジョンに声をかけるシーンがあるけれど、何の会話もなく、何もないままトジュンが現場を去る、という場面だった。だから当然トジュンは犯人ではないと観客は思ってきた。けれどカット編集が入っていて、実は二人は会話していた。
 アジョンは売春のせいで男嫌いになっていて、声をかけてきたトジュンを冷たくあしらった。そして大きな石を投げつけて「バカ」と言い捨てた。バカと言われて逆上したトジュンは、石を投げ返す。石はたまたまアジョンの後頭部を強打した。動かなくなったアジョンを見て事の重大さに気づいたトジュンは、動揺しつつ、彼女の遺体を屋上で「洗濯物みたいに」手すりにかけた。「誰か早く病院に連れて行ってやってくれ」というメッセージを込めたのだった。

・真相を隠蔽する母

 真相を聞いた後、唯一の目撃者である男を、母は衝動的に殺してしまう。そしてボロ屋に火を放ち、火災事故に見せかけた。警察の捜査が怠慢なのか、この殺害が日の目を見ることはなかった。
 程なくして、トジュンは釈放された。祈祷院を脱走していたジョンパルが見つかり、服の血痕を調べたらアジョンのものだったので、警察が真犯人として逮捕したからだ。ジョンパルは「アジョンの鼻血だ」と主張したが、警察には聞いてもらえなかった。
 ジョンパルは写メにも写っていたので、当然アジョンと関係があった。だから鼻血を出しやすいアジョンが彼の服に鼻血をつけたと考えるのは自然なのだけれど、それは観客だからわかることだ。

・解釈

 結局のところ、トジュンが犯人だと証言できる唯一の男は死に、状況証拠的にトジュンより怪しいジョンパルが見つかったことで、トジュンは冤罪扱いになった。

 他のレビューを見てみると、このジョンパルが本当にアジョンを殺した犯人で、トジュンは初めから冤罪だった、という意見もある。けれど廃品回収業の男の証言を真実と取るのが自然であり、映画の文法的にみても、トジュンが犯人だと解釈するべきだと思う。
 つまりこういうことだ。
 我々観客がずっと無罪だと思ってきたトジュンが、最後の最後で実は有罪だとわかった(第一の衝撃)。けれど母が殺人まで犯してそれを隠してしまった(第二の衝撃)。そこへジョンパルが現れ、無罪なのに有罪とされ、逆にトジュンが有罪なのに無罪となってしまった(第三の衝撃)。
 この三段構えの衝撃が、この映画のミソなのである。これがもしジョンパルが真犯人で、トジュンが冤罪だとしたら、ただの母子愛映画で終わってしまう。

 しかし観客からしたら、これは全然正義ではない。真犯人が解放され、無罪の者が捕えられてしまったからだ。無実の証言者の殺害も、まったく明るみに出ない。「正しい」ことが何一つ行われない訳である。
 けれど母は、息子の無事のためなら手段を選ばない。正義も常識も関係ない。母の愛は強い。子どもを守ることが母にとって「正義」であり、それを阻むものは警察だろうが目撃者だろうが関係者だろうが、「悪」なのだ。
 という、理不尽ながら説得力のある主張を、この映画はしたかったのだと思う。

・おまけ

 前回の紹介記事で、「事件の真相は初めから象徴的に提示されている」と書いた。それをちょっと説明してみたい。
 第一の象徴は、トジュンの立ちション。通りの壁にトジュンが立ちションし、母はそれを黙って見ている。用が終わるとトジュンは立ち去り、母はその跡を板切れ(?)で隠す。
 第二の象徴は、ベンツに当て逃げされた後の顛末。ベンツに当て逃げされたトジュンは、親友のジンテと一緒に、ベンツの連中に「復讐」する。が、暴行事件になって警察沙汰になる。そのトジュンを迎えに来た母は、署員に栄養ドリンクを配り、ベンツの弁償を負う。
 二つに共通するのは、息子の不始末を母が引き受け、隠そうとする点。アジョン殺害事件でも、同じことが行われている。

2014年9月18日木曜日

ものすごい「手のひら返し」

 都内のある教会が最近、公に声明を出した。「当教会は、教会として携挙の日を特定することはありません」という声明だ。

 んな当たり前でしょ、という内容の声明だけれど、理由がある。教会内の一部で、携挙の日や月を特定する発言があったからだ。教会が公にそういうことを言っていると取られたら問題になる、と判断したのだろう。それで教会としての立場をはっきり表明する必要があったのだ。
 
 そこのメンバーに、「携挙の日を神様から教えられた」と主張する人がいる。そして自身のブログやら何やらでずっと、その日付をほのめかしてきた。
「携挙の日は『父だけが知っておられる』と聖書に書いてあるけれど、だから知らなくていいとか、知っていたらカルトだとか、そんなこと書いてありません」というような(ワケのわからない)主張をしていて、いわゆる「携挙事前特定可能説」を展開してきた。
 
 けれどその人も、上記の教会の声明発表に合わせて、「携挙の日を特定していません」という文言をブログに掲載した。ものすごい「手のひら返し」である。かなり威勢よく、自信満々に携挙の日はどうのこうのと今まで書いていたけれど、どこ吹く風だ。
 そしてブログ内のある箇所で「世界情勢を見れば、艱難時代は今年の○○月から始まるとわかります」と書いていて、すなわち携挙月をはっきり特定していたのに、その箇所はいつの間にか削除されている。よっぽど都合が悪かったと思われる。
 
 どういう圧力でそういう事態になったのかわからないけれど、いずれにせよ良かったと私は思う。携挙日特定という、聖書的でもなく何の必要性もない「空想話」が諌められ、止められたからだ。依然としてその人の周辺でそういう話が盛り上がるとしても、それが公に広められるのが阻止されたのはやはり良かった。

 その人は「これはサタンの攻撃だ」とか言っているけれど、まあ「霊の戦い」で簡単に打ち破れるだろうから、問題ないのではないだろうか(←皮肉です。念のため)。
 
 教会として上記の声明を出すことができたのは、まだ教会に自浄作用が残っているということではないかと思う。もちろん私が偉そうに言うことではない。けれど、自浄できない教会もあるから、やはりそれは貴重なことだと思う。

2014年9月17日水曜日

カルト化教会を対岸から眺めるコメンテーターについて

「教会 カルト化」で検索すると、カルト化教会について警鐘を鳴らしておられる個人やグループのサイトがわずかながら見つかる。皆さん長く活動しておられるようだ。私はその方々と面識はないけれど、非常に大切な活動だと思うので、陰ながら応援させていただいている。と言っても本当に心の中で応援しているだけで、彼らにとっては何の足しにもならないけれど。

 ところでそれに混じって、教会の牧師さんがカルト化教会について言及している記事も見つかる。彼らの教派とか神学的背景とか、どんな人なのかとか知らないけれど、皆さん「カルト化教会にならないように注意したい」というようなことを書いている。
 その姿勢は必要だし、この問題に関心を寄せること自体は大切なことだ。「教会のカルト化」が認知されつつあるのも良いことだと思う。

 けれどそういう記事を見ていると、たとえば「ディボーションを欠かすからいけないんだ」とか、「神を恐れる心を持っていれば大丈夫だ」とか、何だか殺人事件を取り上げるワイドショーのコメンテーターの話みたいに聞こえる。

 ああいう番組のコメンテーターは(べつに悪く書くつもりはないけれど)、大抵犯罪の専門家などではない。にもかかわらず、たとえば「この犯人には実は〇〇という性質があって、だから××をしてしまったんですよ」などと知ったかぶって言う。
 けれどそれは、後付けでしかない。「〇〇な人だから××をしたんだ」と分析できたのでなく、「××をしたこの人はきっと〇〇なのだ」と当て推量したに過ぎない。

 上記の記事にも、同じような当て推量の匂いがする。カルト化教会に関する記事や話に触れて、「きっとこういうことだろう」と、想像でモノを言っている気がする。
 その証拠に、彼らが言う「ディボーションが大切」とか「神への恐れが大切」とかいう助言は、本当のカルト被害者らに対しては何の役にも立たない。それにそんな小手先の方法論とか努力目標とかで教会がカルト化しないなら、誰も苦しまない。
 逆に言うと被害者のことを考えられないから、そういうことが言えるのではないだろうか。そしてそれは、カルト化教会について本当は何も知らないという事実を露見している。
 対岸の火事を眺めながら好き勝手なことを言っている、と評したら言い過ぎだろうか。

(余談)
 もう一つ、そういう牧師さんが言うには、「牧師は攻撃を受けやすい立場だから、信徒の皆さんに祈ってもらう必要がある」とのこと。それ自体べつに間違っていないと思うし、まあ謙遜な姿勢を見せているのではないかと思う。けれど、そういう祈りでカルト化を防ぎたいのだとしたら、優先順位が甘いと言わざるを得ない。カルト化を防ぐには、もっと実際的で実現可能性の高い、組織的で第三者も巻き込んだ具体的な何かが必要だからだ。ただ祈って「神様お願いします」では、決して防げない事柄だと私は考えている。

2014年9月16日火曜日

「ありのまま」を強要されても困る、という話・その2

「ありのまま」を強調するチャーチスクールの問題点について、もう少し掘り下げてみたい。

 チャーチスクールの牧師や教師が生徒に対して「ありのままでいいんだ」と言うのは、一見人道的に思える。そう言われる必要のある子もいる。けれど、あらゆるケース、あらゆる状況でそれを言うのは問題がある、というのが前回の趣旨だ。

 さて、チャーチスクールにおいて「ありのままでいいんだ」と言われる生徒たちは、それをどう捉えるだろうか。
 年齢や性別によっても違うだろうけれど、大抵は、牧師や教師が言う「ありのまま」が何を意味するのか考える。家の中と同じように振る舞っていいのだろうか、やりたくないことはやりたくないと言っていいのだろうか、好きなことにこだわっていいのだろうか、等だ。そして大抵の子は基本的に、でも勝手気ままにやっていいという意味ではないだろうと考える。だから最初のうちは、「ありのまま」の「ありのまま加減」を、学校生活の中で探ろうとする。

 前回も少し書いたけれど、子どもにとって何が「ありのまま」なのかわからない、という状況がそもそもある。
 発達心理学的に言うと、学童期(小学生)の発達課題は【勤勉性 対 劣等感】であり、思春期(中高生)のそれは【自我同一性 対 同一性拡散】である。つまり、「自分とは何者か」がまだ確立されていない。だから何が自分にとって「ありのまま」なのかも、実はまだはっきりしない。
 そういう状況にもかかわらず「ありのままでいいんだ」を連発されるので、子どもたちは「ありのまま」の意味からまず考えなければならなくなる、という訳だ。

 それで何を考えるかというと、おそらく「素の自分が何をしたいと思っているか」だろう。何のフィルターもかけない自分の願望を抽出してみることが、「ありのまま」の答えに近づく方法だろうと考えるのだ。すると、そこは小中高生なのだから、ゲームとか映画とか、SNSとか恋愛とか、友人たちとのあれやこれやが出てくる(当然だ)。そしてそれがおそらく自分にとって「ありのまま」の願望だと気づく。けれどそれらは、教会やチャーチスクールという場ではものすごく言いづらい事柄だ。いや、言ってはいけない事柄だと(生徒らは)思う。
 だから牧師や教師が言う「ありのまま」は、自分が根本的に欲する「ありのまま」とは違う、ということに気づく。
 これはなかなか悲劇的な発見だ。「ありのままでいい」と言われながら、「ありのまま」を隠さなければならないからだ。

 その結果、この「ありのまま」は子ども本来の「ありのまま」ではなく、教会やチャーチスクールが求める「ありのまま」の押し付けになる。つまり、子どもは純粋に神様を愛したいと思っているはずだ、この世から離れたいと思っているはずだ、罪を遠ざけたいと思っているはずだ、勉強を頑張りたいと思っているはずだ、という類の「ありのまま」が、生徒のあるべき姿だとされてしまう(中には本当にそういう子もいるだろうけれど)。

 だから生徒は、そういう暗に求められている「ありのまま」を演じなければならなくなる。あくまで従順で、信仰的で、この世の楽しみなんて興味ありません、みたいな態度を取らなければならない。そうしないと、教会やチャーチスクールでは生きられないからだ。

 そしてそれは結果的に、ダブルスタンダードな人間を育むことになる。

 ぶっちゃけて書くと、子どもを「ありのまま」でいさせたかったら、若いうちから宗教教育にどっぷり漬けない方がいい。それより友人や先輩後輩の関係でもまれたり、いろいろ葛藤したり楽しんだり、「神なんていねー」とか言ったりさせておく方が、よっぽど「ありのまま」ではあるまいか。そうして「自分とは何者か」を自分なりに掴んだ後で神様に向かった方が、よっぽど素直に、正直にいられるのではないかと私は思う。

「普通でない」母子愛の物語。映画「母なる証明」について。

 韓国映画「母なる証明」をDVD鑑賞した。
 2009年の作品だからちょっと古いけれど、けっこう話題になった作品だ。「最後のどんでん返しがすごい」ということで、こちらの記事にも取り上げられている。

・あらすじ

 トジュンは5歳の時の事故以来、知的障害を抱えている。大人になっても母親の保護が必要で、仕事にも就けず、夜は母と一緒のベッドで寝ている。
 母(名前は出ない)はそんなトジュンに過保護に接し、食事の世話から立ちションの後始末までする。トジュンに疎まれても、息子のこととなると見境がなくなる。
 ある夜、そんな二人の住む町で殺人事件が起こる。被害者は女子学生のアジョン。遺体は廃屋の屋上に晒されていた。
 トジュンはその夜、現場付近でアジョンに声をかけていた。その際持っていたゴルフボールを落としてしまったらしく、犯行現場に残った証拠として、トジュンに容疑がかけられてしまう。そして母の目の前で、警察に連行されてしまう。
 トジュンの障害は主に記憶にあり、事件当時のこともはっきり思い出せない。警察の強制的な尋問もあり、トジュンの犯行だと簡単に断定されてしまう。
 母の必死の懇願にも警察は耳を貸さない。ゆえに母は、息子を救う為、たった一人で事件の真相に挑むことになる。

・すごいところ

 一見、普通の母子愛の映画である。
 息子の無実を証明しようとする母が、時に懇願し、時に強引に、時に騙し、時に金を積んででも、関係者から真相を聞き出していく。そして被害者アジョンの抱える闇が明らかになり、その向こうに真犯人の姿が見えてくる。この流れが映画の大半で、観ている私たちは「お母さん頑張れ」と痛々しくも応援している。最後はクリント・イーストウッドの「トゥルークライム」みたいに冤罪が晴れて、めでたしめでたし、となるのを期待している。
 けれど一方で、この母子に対する「何か変だな」という違和感みたいなものも感じている。その違和感は次第に強くなっていく。ちょっとネタバレすると、トジュンは「バカ」と言われるとすぐキレる性格なのだが、その暴力性がちょっと異常なレベルだったり、実は5才のトジュンを母が殺害しようとした過去があるのがわかったり(その結果トジュンに障害が残った)、それ以降の母の息子愛がちょっと常軌を逸していたりと、とにかく「不穏な雰囲気」なのである。

 そして最後の20分くらいだと思うけれど、母の苦労が実り、遂に真犯人に辿り着く。違和感はあっても、やはりトジュンの冤罪は晴れてほしい。何故なら事件の夜のシーンで、トジュンがアジョンを殺していないのは観客にとって明らかだからだ(もしやトジュンが殺したのでは? という疑惑はここで排除されている)。
 そんな期待を込めて観ていると、なんとも驚きの真相が明かされる。この衝撃を未見の人に伝えるのは酷なので、ここでは書かない(旧作で安いので是非レンタルしてみていただきたい)。
 ここへきて、これが「普通」の母子愛の映画でないことに気づく。

 さて、すごいところは、事件の真相は初めから象徴的に提示されている、という点だ。2回目に観て気づくのだけれど、トジュンが立ちションするシーンとか、ベンツに当て逃げされた後の顛末とかに、この殺人事件の構造が明らかにされている。要は、母と子の関係である(気のせいかもしれないけれど)。

 また、ちょっとネタバレになるけれど、真犯人につながる人物が、事件の夜のシーンに一瞬映り込んでいる。知っていて観ると、確かにいるのがわかる。昔一世を風靡した「ツイン・ピークス」の映画版(確か)と同じ手法なのだけれど、これがまたビックリさせられる。
 細かいところまで、よく作りこまれている。

・結末について

 この結末をハッピーエンドと取るかどうか、意見が分かれるところだろう。
 私には何とも判断できない。それを判断するには、この母子にとって幸福とは何かという議論が先になされるべきだと思うからだ。事件が起こっても起こらなくても、この母子はずっと不幸だったのかもしれない。あるいはそれなりに幸福に生きていたのかもしれない。事件を通して、より絆が深まったのかもしれない。
 そんなことをしばらく考えさせられた映画だった。

2014年9月15日月曜日

「ありのまま」を強要されても困る、という話

 ちょっと古い話になるけれど、ディズニー映画「アナと雪の女王」が日本でも大ヒットした。
「ありの~ままの~」の主題歌は巷に溢れ、レンタルDVD店でもそうでない店舗でもこればかりが流れた。映像もいろいろなところで露出して、未見の私も何だか本編を観たような気分になった。

 映画そのものに特にコメントはないけれど、この「ありのままの」の歌詞に、最近よくチャーチスクールのことを思い出していた。「ありのままでいいんだ」みたいな言葉が、チャーチスクールのスローガンだったからだ。

 公立学校で傷ついた子が、チャーチスクールで本来の自分を取り戻した、みたいな記事がキリスト教系の新聞や雑誌に掲載されたことがある。公立学校で「ありのまま」を否定された子が、チャーチスクールで「ありのまま」を取り戻した、めでたしめでたし、子どもはやっぱり自然な姿でなくちゃね、という訳だ。チャーチスクールは日本の教育界に革命をもたらすか、とまで書かれた。

 一つ事実を言うと、そういう事例も確かにあった。公立学校に行けなくなってしまった子が、チャーチスクールで通学意欲や学習意欲を取り戻した、というケースはわずかながらあった。その子たちにとって、チャーチスクールは少なからず救いとなった。
 
 しかしそれはチャーチスクール全体から見ると、ごく一部でしかない。その後チャーチスクールに入学してきたのは、大部分が一般的なクリスチャン子弟だ。中には親の意向で一方的に入学させられた子もいた。彼らはべつに「ありのまま」を否定された訳ではない。そもそも公立学校を知らないという子も大勢いた。

 なのにチャーチスクールは、黎明期のごく一部の「ありのままを取り戻した子たち」を、宣伝文句として大いに利用した。公立学校にお子さんを行かせると自分を見失うことになりますよ、お子さんを立派なクリスチャンに育てられるのは当校だけですよ、みたいな主張を、明に暗にしたのだ。

 だからチャーチスクールで子どもたちが最初に言われるのは、「ありのままでいいんだ」「そのままで素晴らしいんだ」というようなことだ。自分にウソをつかず、正直に、ありのままを表現しなさい、そのままのあなたが大切なのです、と。
 けれど前述の通り、一般のクリスチャン子弟は特に「ありのまま」を否定された経験もないから、そう言われても戸惑ってしまう。何が自分の「ありのまま」なのかもよくわからない。

 また、そのメッセージ自体は一見素晴らしいけれど、大きな落とし穴がある。何故なら人には、「ありのまま」でいいことと、いけないこととがあるからだ。

 ありのままでいいのは、たとえばその子の資質とか性向とか、嗜好とか傾向とか、そういう生まれながらに持っているものに関してだ。変更不能な資質を否定されるのは辛い。たとえばここでも何度か取り上げたことがある同性愛嗜好もそうだ。それを「罪だ」とか「過去の傷の結果」だとか簡単に言われて一生懸命祈られても辛い。そういう場合は、「ありのままでいいんだ」と言ってもらう必要がある。

 けれど、ありのままではいけないこともある。たとえば学校の場面で言うなら、宿題をやってこない子に対して「そのままでいいんだよ」とは言えない。ルールを守らない子を容認するのも問題がある。
 もちろん、そこがルール無用・完全自由の学校ならば話は別だ。けれどそれだと、「立派なクリスチャン子弟に育てます」とは言えない。

 そういうありのままでいいこと・いけないことをゴッチャにしたまま「ありのままでいいんだ」を前面に出すと、子どもたちは混乱する。自分が思う通り、望む通りをして受け入れられる場合と、叱られる場合とがあるからだ。何をしたらいいかわからなくなる。そして結果的に子どもたちは、牧師や教師や教会やスクールが望むであろう「ありのまま像」をイメージし、それに近づこうとする。

 しかし、それはもはや「ありのまま」ではない。強要された「ありのまま」である。

2014年9月14日日曜日

エキサイティングというより、単に節操のない信仰生活・その2

 前回は、海外からゲストが来るたびに方向性を変える教会について書いた。

 毎月のように海外ゲストに語られる「新しいこと」にすぐ飛びつき、以前あったものを簡単に投げ捨ててしまう。それは彼らが言うような「エキサイティングな信仰」でなく、単に節操がないだけだ。その姿勢を聖書的に表現するなら、「教えの風に吹きまわされて」いるということになる(エペソ4章14節・新改訳)。

 そうは言っても、きっと彼らはそんなこと認めない。「いや、うちの教会はしっかり学ぶ体制がある」みたいなことを主張する。そしてきっと、週一とか月一とかの「学び会」やら「バイブルスタディ」やらの存在を強調する。
 けれどそういった「学び」がどれくらいの科目数があって、個々がどれくらい体系的かは大いに疑問だ。その証拠に、彼らにたとえば「油注ぎって何ですか」とか聞くと、ほとんどの人はまともに答えられない。答えられても「聖霊の力が云々」とか、曖昧で要領を得ない。教会内で教えが混乱しているのがわかる。

 何故なら、彼らの「学び」は圧倒的に時間数が少なく、ほとんど体系化されておらず、かつその牧師のメッセージと同じで「感動」が中心だからだ。まともな学習になるはずがない(頑張っている人には失礼だけれど)。

 私は現在通信制の大学で学んでいるけれど、一つの単位を取得するにも、相当なコミットを要求される。毎回の授業は無味乾燥で、感動などほとんどない。予習も復習も大事だ。
 それに単位を取得できたとしても、その科目に完全に通じたとは言えない。単に試験に合格できたというだけだ。単位を取っても勉強を継続しないと、知識はどんどん抜け落ちていく。

 だから「うちの教会はよく学んでいます」とか言うのは自由だけれど、あとで恥をかかないように、言葉は慎重に選んだ方がいいと思う。

 と、いうような状況にくわえて、毎月のように海外ゲストを迎えるのである。ゲストたちはそれぞれ「お得意の」メッセージを教会に話していく。そして教会は大いに感動して、その語られたことを早々と取り入れてしまう。
 そうやって取り入れられたものに、たとえば「弟子訓練」とか、「ディボーション」とか、「教会成長」とか、「教会繁栄」とか、「笑いの霊」とか、「ダビデの幕屋の回復」とかがある。それらが教会に与えてきた影響を考えれば、その姿勢がいかに軽率だったか、一目瞭然ではないだろうか。

 そういう姿勢になってしまう原因の一つに、前述の「ちゃんと学んでいない」状況があるだろう。神学的基盤がないため(彼らはあくまで「ある」と主張するだろうが)、刹那的に「新しいもの」に流れていってしまう。けれど聖書をしっかり教えられており、自分の身に深く刻まれているならば、新しく入ってきたものに対する是非は明確に付けられるだろう。

 またもう一つの原因として、海外(特にアメリカ)に対する劣等感みたいなものがあると思う。アメリカのものはいいものだ、海外のものはいいものだ、新しいものはいいものだ、みたいな意識(あるいは無意識)が、日本人には少なからずあると思う。私も子どもの頃は特にそう感じていた。日本はダメだ、みたいな劣等感も何故かあった。そういう意識を自覚して、「そうでもないな」と思えるようになったのは、私の場合大人になってからだ。

 終末に関する記述の中でキリストが「惑わされないように」と言っていることに、何度でも注意したい。今、教えの風に吹きまわされている人たちが、その時になって惑わされずに済むとは思えない。そういう人たちに限って終末を声高に叫んでいるけれど、知識のなさを露見しているように思えてならない。

2014年9月12日金曜日

エキサイティングというより、単に節操のない信仰生活

 海外からの「神の器」、あるいはゲストスピーカー、あるいはゲスト講師などと呼ばれる人たちが、ほとんど定期的に来日している。そして超教派の大会や、個々の馴染みの教会を巡回して、それぞれお得意のメッセージを語っていく。聞いた日本人クリスチャンは「恵まれました」とありがたそうに言う。

 実にいろいろなゲストが、いろいろなトピックを語る。「天のお父さんの愛」とか、「癒しと奇跡」とか、「死人のよみがえり」とか、親イスラエル主義とか、「聖霊体験」とか、「五役者の回復」とか、挙げたらキリがない。
 それら個々のトピックについて思うところもあるけれど、そういうトピックがほとんど数か月毎に語られる教会の現状について考えてみたい。

 ある教会に属すると、かなり頻繁に海外からのゲストに遭遇する。毎月一人と言ってもいいくらい、入れ替わり立ち替わりゲストがやってくる。そして信徒は夏や秋の超教派大会にも参加する(させられる)から、年中そういうのを聞くことになる。だからたとえば、
4月は「天のお父さんの愛を受けよ」と祈られ、
5月は「癒しを行うように」と祈られ、
6月は「聖霊に浸されよ」と祈られ、
7月は「霊的イスラエルとなれ」と祈られ、
8月は「よみがえりの力を受けよ」と祈られることになる。

 そういう教会は、牧師の顔が広くていろいろな交流があり、年中イベント的な集会があって「楽しい」かもしれない。いわく「エキサイティングな信仰生活」を送れるかもしれない。

 けれどそういう教会に限って、「うちの教会は生きた神様が毎日働かれている」などと自負し、言外に、そういうイベント事の少ない教会を見下すニュアンスを含んでいる。あるいはハッキリそう表明する。「自分たちの方が正しい」という訳だ。

 けれど毎月毎月メッセージが変わり、方向性がどんどん変わっていく教会を「生き生きしている」と表現するのも疑問がある。魚や鮨ネタなら鮮度がいのちだろうけれど、教会のメッセージに鮮度が関係するのだろうか。結局のところ、一つのメッセージをしっかり消化できないまま次のメッセージを食わせられることになるのではないだろうか。

 そういう教会はその鮮度を「レーマ」とか「今主が語られてること」とかと表現し、重視するだろう。「主は生きておられるから次々と語られるのです。私たちは(大変でも)それに従っていかなければなりません」となる。

「語られたことに従う」という姿勢は理解できる。
 けれど、たとえば「家族の和解」が語られて、「では長年積もってきた家族内のわだかまりを、時間がかかるかもしれないけれど一つ一つ紐解いて、和解していこう」と決心したとする。しばらくは、甲斐甲斐しく家族との時間を持つだろう。けれど翌月、「この地域を勝ち取れ」とか語られて、今度は「霊の戦い」に励むようになり、結局家族のことがなおざりになる、ということがある(そして翌月また別のことが語られ、「霊の戦い」さえもどこかに行ってしまうのだが)。

 その場合、語られたことに従っているとは言えない。何でも新しいことにすぐ飛びついて、前のことを投げ出してしまったのだ。それは「エキサイティングな信仰生活」などでなく、単に「節操のない信仰生活」だ。そういうものを神様が願っているとは思えない。

 海外からのゲストもけっこうだけれど、そういうエキサイティングさより、ちゃんと落ち着いて聖書を教えられ、系統的に学べる信仰生活の方がよっぽど重要だろうと私は思う。

2014年9月11日木曜日

【解説】キマジメくんのクリスチャン生活・教会追放篇

「キマジメくんのクリスチャン生活」第11話~第14話の解説。題して教会追放篇。
 本文はこちらから。

→第11話
→第12話
→第13話
→第14話

 ここには、シンジツ兄弟が本人不在の「除名式」で教会から除名される(追放される)顛末が書かれている。
 彼の除名のキッカケは、キマジメくんのいわゆる「什一献金返済問題」にある。十一献金を捧げはじめたキマジメくんが、クリスチャンになった頃に遡って什一を月々返済していくという話で、それを聞いたシンジツ兄弟が異を唱えた。そして、作中には描かれていないけれど、その問題点を溝田牧師に指摘した。
 その席ではシンジツ兄弟が問題を訴え続け、溝田牧師がそれを突っぱね続けるという不毛な会話がなされたと思う。そして結局、牧師は一切非を認めず、逆にシンジツ兄弟にこそ非があると決めつけた。

 以降の展開は非常に一方的である。
 非常に早い段階で、牧師が何人かの近しい信徒(リッチ兄弟やノンビリ兄弟など)を呼び、牧師の側の話だけを聞かせる。そして「シンジツ兄弟が教会を批判した」と確認させる。すると複数人の証言を得たという形になる。そしてシンジツ兄弟に「お前も家族も追放だ。もう来るな」と宣言できることになる。それから時間を置かず、教会全体にこう伝える。
「シンジツ兄弟が罪を犯し、悔い改めなかった。だからやむを得ず除名とした。それしか方法がなかった」

 この間、シンジツ兄弟にはどんな弁明の機会も与えられていない。逆に気づくと、自分がしてもいないことを「した」という話になっている。もう教会には行けないし、信徒とも連絡を取れない。

 これは福音派や聖霊派の教会で時々みられる、「追放」の風景だ。
 知っている人は知っているけれど、知らない人はほとんど何も知らない話ではあるまいか。信徒にとって「触れてはいけない」話題なので、誰も何も話さないからだ。まして牧師が話すはずもない。もし話すとしたら、こんなことだろう。「私は必至で悔い改めを促したのに、聞き入れてもらえなかった」
 それを追放された本人に面と向かって言えるのか、是非とも聞いてみたい。

 この「追放」の特徴を、簡単に挙げてみたい。

・被追放者は、単に問題や疑問を指摘したにすぎない
 たとえば会計管理がずさんだとか、伝道予算で教会の備品を買うのは良くなのではないかとか、そういうモラルに絡む問題等を指摘したにすぎない。あるいは普段から感じている疑問や不安、不満や訴えを表明したにすぎない。攻撃しようとか批判しようとか、そんな意図はそもそもない。

・それなのに悪者扱いされる
 被追放者は良かれと思って、あるいは正しいと思ってしている。それも牧師や教会を想ってのことだ。なのに、やれ教会批判だ、傲慢だ、罪だと言われる。
 結局のところ、牧師の意向に逆らったのが問題なのである。

・一方的に証拠固めされる
 作中と同様、牧師は少数のメンバーを集めて、自分にとって都合のいいストーリーを話す。そして被追放者がいかに罪深いか、悔い改めないか、問題があるかということを強調する。そしてそれを既成事実とする。複数人が一気に牧師の側につくので、被追放者は不利な立場に置かれる。

・一方的に追放を告げられる
 結局何の話し合いもなく、弁明の機会もなく、「教会批判」などの罪状で追放を宣言される。その際、二度と教会に来ないこと、信徒に連絡を取らないことなど約束させられる。
 また、一度も悔い改めなど求められなかったのに、気づくと「彼は悔い改めなかった」などと不信仰のレッテルを貼られている。
 ここへきて、被追放者は、その牧師や教会の誤りに気付く。だから自分から出て行く。二度と来ようと思わない。そして大きく傷ついている。

 ・牧師の意に沿わない人間は追放される
 それがキリスト教会として正しいかどうか、答えは明白だ。しかしそういう教会は存在するので、注意が必要だ。具体的に何に注意すべきかというと、たとえばレギュラーで集っていた信徒が突然来なくなって、その理由がよくわからない、連絡もつかない、ということが少なからず起こっている等だ。

2014年9月10日水曜日

キマジメくんのクリスチャン生活 第41話

 帰り道、キマジメくんは「異言」で祈りながら自転車を走らせた。
 といってもほとんど口を動かさず、声も出していないから、誰にも気づかれる心配はない。日常生活を送りながら祈ることができる、なんてスゴイことだ、この祈りこそ、まさに神の奥義だ。キマジメくんはそう思った。
 もっともララララ言っているだけなので、何を祈っているのか自分ではわからない。けれど、霊において神と交わっているからそれでいいのだ。キマジメくんは坂道を勢いよく滑走した。

 部屋に入ると、さっそく実家に電話した。何度目かのコールで母が出た。キマジメくんは要件だけを言った。
「大学辞めて働くことにしたから。今までありがとう」
 そして切った。母は何か言いかけた。けれど、その声は受話器の電源とともに消えてなくなった。そして部屋に静寂が戻った。
 これでいいのだ。キマジメくんは思った。霊的なことを説明したって母にはどうせわからない。頑なに反対されるだけだ。とにかく自分は真理を知らされたのだから、それに従って歩まねばならない。そして今は神様の為に、肉親をも捨てなければならない。これは溝田牧師が言うように、信仰の戦いなのだ。
 そうやって電話を切ると、キマジメくんはまた「異言」で祈った。4畳半の部屋を歩き回りながら(すぐに1周してしまうのだが)、次に何をすべきかと考えた。神様は自分の思いを読み取られるお方だから、きっとこの「異言」の祈りを通して、語って下さるはずだ。
 すると電話が鳴った。ナンバーディスプレイではないけれど、母からだとすぐにわかった。厳密には違う可能性もあるけれど、タイミングとしては母からに違いない。
 どうしよう。
 母が何と言うか、だいたい想像がついた。あんた、いったい何考えてるの。勝手に一人で決めて。一度話し合うって決めてたでしょ。なんでそんな一方的な話になるのよ。だいたい・・・。
「ダメだ」
 キマジメくんは声に出した。やはり、母には何を言ってもダメだ。聖霊のバプテスマで特別な力を受けたこととか、牧師の按手で「切り開く賜物」を受け取ったこととか、そういう霊的な話をしたところで、平行線になるだけだ。
 電話が鳴り響く中、またキマジメくんは「異言」で祈った。電話の音量に負けない大声で祈った。そのうち、これは敵の攻撃ではないか、と思い至った。きっとそうだ、自分が特別な力を受けたから、敵が妬んで攻撃を仕掛けてきたのだ。
「イエスの御名によって、サタンよ退け! 退け!」
 と、キマジメくんは電話機に向かって霊的戦いを始めた(口調は溝田牧師を真似てみた)。
 すると、電話が鳴りやんだ。部屋はウソのように静まり返った。
「よし、勝利した」
 そう言ってまた部屋の中をゆっくり歩いていると(やはり狭いのですぐ1周してしまうのだが)、今度は携帯電話が鳴り出した。着信表示は、やはり母だった。
「イエスの御名によって・・・」
 今度は携帯電話に向かって戦い始めた。「退け」と何度か命じていると、ついに鳴りやんだ。と思ったら留守番電話モードになっていた。
「主よ、どうぞ勝利をもたらして下さい」
 眉間にシワを寄せてそう祈っていると(溝田牧師はよくそうやって祈っている)、またまた固定電話が鳴った。母からに違いない。
「この戦い、主にあって負けられない!」キマジメくんは腕を振り上げた。「主の御名によって、サタンよ退け! サタンよ退け!」
 そう叫びながら腕を振り下ろす。と、勢いあまって指が受話器にぶつかってしまった。受話器が狭い室内を飛んだ。けれど運よくソファの上に落ちた。
「もしもし?」
 受話器から小さな声が聞こえてくる。「キマジメくん?」
 慌てて受話器に飛びついた。「もしもし」
「ああキマジメくん、今大丈夫かい?」
 溝田牧師だった。(続く)

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・この物語はフィクションであり、実在の人物や団体とは一切関係ありません。
・この小説は不定期連載です。
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2014年9月9日火曜日

教会に疲れた時に

 教会に疲れた、という話を少なからず聞く。
 
 そう言う人の多くは、神様を信じているし、信仰に生きたいと願っているのだけれど、教会に集うことに何らかの負担感がある、という状態なのだと思う。信仰を捨てたいとか、そういうことではない。けれど「教会に疲れた」とその教会の人に言ったら、たちまち不信仰扱いされそうだから、言うに言えない。そしてそれが更に疲れを増す。
 悲しい悪循環である。
 
 その解決になるかならないかは別として、教会の何に対して疲れたかは明確にしておいた方がいいかもしれない。問題点がハッキリすることで、進むこともある。

 疲れの原因は人それぞれであろう。教会内の人間関係かもしれないし、奉仕かもしれない。そういうのを含めた教会の体制そのものかもしれない。
 いずれにせよ、疲れのピークにある時は、とにかくゆっくり休んだらいい。そしてある程度回復し、落ち着いたところで、そういうことにじっくり取り組んでみたらいいのではないだろうか。冷静になってみれば、自分が何に一番ストレスを感じているか、おのずとわかってくると思う。
 
 そういうスタンスに対して、教会のリーダーや役員がどういう反応を示すかは興味深い。単に不信仰と決めつけるだろうか。あるいは怒るだろうか。あるいは寛容をもって受け入れるだろうか。そのあたりに、教会の懐の深さが現れる。
 
 私の知っているケースで言うと、こんなことを言うリーダーがいた。

「(私が)これだけ一生懸命やっているのに、そんなこと(疲れたとか)言うなんて失礼だ」
 その言い分もわからないではない。けれど、そう返されて癒される信徒はいない。
 一生懸命なのはご苦労様だけれど、一生懸命だから良いということはない。たとえば一生懸命作ったケーキだから飛ぶように売れる、なんてことはない。ケーキはおいしいから売れるのだ。一生懸命だろうが何だろうが、まずいものはまずい
 
 それと同じで、「教会に疲れた」というのもちゃんと理由があるはずだ。もちろん信徒の側の忍耐も必要だし、人格的に成長する必要もあるけれど、だからと言って信徒の側だけの責任にされても困る
 あるいは多くの信徒がうまくやっているから、そうできない小数の信徒がダメなんだ、とか決めつけられても困る。
 教会に関わることで誰かが疲れているのなら、教会にも考えるべきことがあるのだ。
 
 すべて疲れた者、重荷を負った者に休みを与えると言うキリストの言葉に、もう一度耳を傾けるべきだろう。休みを受けるべきところで疲れさせているとしたら、何かが間違っている。
 
 もし仮に、教会の側に何の落ち度もなく、すべてを完璧にこなし、万人に満足を与える仕組みが整っていたとする。それでも信徒が「疲れた」と言ったら、それは確かに信徒の側の責任かもしれない。けれどそれでも、「疲れさせてしまってごめんなさい」と真心から言えるとしたら、そこは本当にキリストの愛を実践する教会だと私は思う。

2014年9月8日月曜日

本当に終末が訪れた時、「ダビデの幕屋の回復」はどうなるか、という話

「ダビデの幕屋の回復」のつながりで、終末について少し書きたい。

「ダビデの幕屋の回復」は、終末思想と関連付けられている。「終わりの時、主がダビデの幕屋を回復される」というのが彼らの主張だからだ。
 アモス書9章11節の「その日、ダビデの倒れている仮庵を・・・」の「その日」も、彼らによると「世の終わり」だと断定される。「これは主の道を備える働きだ」「私たちはFore runnerだ」というような表現が、彼らの活動紹介に使われる。

 つまり「ダビデの幕屋の回復」運動はそのものが、世の終わりが実際的に近いという終末思想を含んでいる。子の代とか孫の代とかでなく、今の代に起こることだとしている。
 だから、彼らは終末の日が「わかる」と主張していることになる。

 今年に入ってから、あるクリスチャン(?)が、2014年10月は重要だ、みたいなことを主張している。つまり来月のことだ。具体的に何が起こるのか、実は私は何度か尋ねてみたのだけれど、一度も返事をもらえていない。単に「重要だ」と言っているだけだ。
 その人が最近になって、「知人が夢で携挙の日を教えられた」とか、また終末関連のことを言い出している。だから、携挙が来月にでも起こると思っているかもしれない。

 まあ、これは詐欺と同じやり方だ。「重要なことが起こる」と言っておいて、何か起これば「ほらやっぱり」と言える。何も起こらなくても、「実は〇〇の地域でこんなことが起こった。一般には決して報道されないけれど」とか言える。

 もちろん携挙はいつ起こってもおかしくない。今夜起こるかもしれない。そしてそれと同じくらいの可能性で、自分が生きている間は起こらないかもしれない。しかしいずれにせよ、その時期を知ることが重要なのではないと私は考えている。聖書もそう言っているはずだ。その時期を知ることより、もっと重要なことがあると。私たちはそちらの方をすべきだ。

 終末論者はその時期の特定に躍起になっていて、それらしいことをいろいろ言っている。
 しかし私が思うに、その日時が本当にわかっているのなら、世界中に教えてあげるべきではないだろうか。たとえ聞いてもらえないとしても、中には聞く人がいるかもしれない。

 もし仮に、「携挙は今から2時間後だ」と神様が明確に語ったとする。何が起こるだろうか。
 おそらく、世界中のクリスチャンがこぞって悔い改めはじめると思う。携挙されたいからだ。というか、残されたくないからだ。そして家族や親族を何とか説得しはじめると思う。2時間しかないから、皆必死だろう。
 私が思うに、その時教会で「ダビデの幕屋」の礼拝をする人は一人もいないだろう。教会に中で泣いたり叫んだりしている場合じゃないからだ。
 すると、「終末のために」と始めた「ダビデの幕屋の回復」が、本当の終末には見向きもされない、ということになる。想像すると笑える(こりゃ失礼)。

 さらにもう一つ、彼らの中には、こんなことを言う人がいる。
「もう終末だから、もしそう語られたら、私は全財産を捨てる覚悟があります」
 それは謙遜な態度に思えるかもしれない。けれど、実は全然そうじゃない。
 なぜなら、あなたが全財産を捨ててもいいと思える日には、その財産には何の価値もなく、それを必要とする人も世界中に誰一人いないはずだからだ。

2014年9月7日日曜日

「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感・その3

「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感、3回目。
 その運動がもたらす結果について、更に事例を挙げてみたい(前回と同じく、これはあくまで個別の状況についてである)。

・礼拝が悪魔との戦いになってしまっている

 リーダーいわく、ダビデの幕屋の礼拝は、最終的に「打ち破り」を目指さなければならない。そして幕屋の構造で言うところの「至聖所」に達しなければならない。
 つまり、毎回の礼拝の中で「大庭→聖所→至聖所」というステップを「霊的に」踏むことが指導されていて、最終的に至聖所に達すると、神様の深い御心が示される、と教えられている。悪魔がそれを阻んでくるので、礼拝の中でそれらと(霊において)戦い、打ち破らなければならない、と何度も聞かされている。

「ダビデの幕屋の回復」は神にとって重要な働きなので、悪魔の攻撃も一層激しいそうだ。だからリーダーいわく、礼拝のはじめはいつも(霊的に)重苦しくて、その重さを振り払うのに苦労するのだそうだ。そんな中、めげずに「力強く」賛美をしていると、次第に天が開けてきて、悪霊たちが「打ち破られて」いくらしい。

 どのようにして「打ち破られて」いくかというと、要はどれだけ盛り上がるかにかかっている。マイクと楽器の大きな音量、会衆の大きな歌声や叫び声、高揚感、熱気、そういうものが混然一体となり、ある時点で最高潮に達する。もうこれ以上大きくできないというポイントに達すると、急速に静まっていく。それは感覚的・習慣的に「打ち破った」と皆が感じるからだ。
 つまり彼らにとって、そのポイント以降が「至聖所」なのである。

 そこで語られること、つまり「思いつくこと」は、至聖所でなければ聞けない「神の深い御心」であって、彼らだけに与えられる秘密の啓示なのだ。そしてそれが、前回の「結界」の話だったり、「自由の女神」の話だったり、エクソシスト的な話だったりする。

 上記の流れは「ダビデの幕屋の回復」の主要な手順だと思うけれど、根本的に、新約聖書の教理と矛盾している

 まず、「大庭→聖所→至聖所」という幕屋的構造で神に至るという手順は旧約の話であって、キリストの十字架によって終わっているはずだ。新約聖書の礼拝はそういう「場所」とか「手順」とかでなく、「霊とまことによる礼拝」という言葉にある通り、「心」を重視している。

 次に、礼拝は悪魔との戦いではない。ただ神に向かう行為だ。それが「打ち破らなければならない」とノルマ化されるのはおかしい。そういうノルマは人の心を神から引き離す。特に礼拝において、意識する必要のない悪魔を殊更に意識させる。
 だから彼らの目的は、神を礼拝することでなく、悪魔を「打ち破ること」になっている。そしてその礼拝に、神様は何の関係もない。

 また、彼らが「打ち破った」あとに達するのは至聖所ではない。それはもう存在しないからだ。彼らが達するのは自己満足の世界であり、自分の王国なのである。そこで「語られる」ことは神様に何の関係もなく、単に「こうであってほしい」という自分の願いの投影でしかない。あるいは「何となく」の感覚でしかない。

 もう一つ付け加えると、彼らが「打ち破る」のは悪魔でさえない。悪魔は怒鳴り声とか叫び声とか、激しい音楽とかで打ち負かされる訳ではないからだ。「いや、それは御言葉を宣言するからだ」という反論があるかもしれないけれど、ならば楽器も歌も使わず、小さな声でそれを読むだけでいいはずだ。
 彼らが「打ち破り」と感じているのは、単に音楽に伴う精神的高揚感でしかないと考えられる。神様は関係なく、悪魔さえも関係ない。聖書を利用し、神を利用し、悪魔を利用した「何か」である。

2014年9月6日土曜日

「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感・その2

 前回は「ダビデの幕屋の回復」運動に対する違和感について書いた。今回は、その運動がもたらす結果について、事例を交えて書きたい。
 なお、以下の事例はあくまで個々の状況であって、「ダビデの幕屋の回復」運動全般に言えるかどうかはわからない(が、少なからず似たような傾向をどこも抱えているだろうと思う)。

・社会常識を無視する

「ダビデの幕屋を入ると、まず大庭がある。大庭では喜びの賛美が高らかに歌われる。だから私たちもそうしなければならない」
 そういうリーダーの主張のため、個々の礼拝の冒頭は非常にノイジーである。ちょっと信じられないかもしれないけれど、彼らは夜中にも関わらず、大音響で賛美をする。それで近隣住民から苦情が入る(当然だ)。するとリーダーは逆ギレして、住民に言う。
「これは宗教行為だ。教会が宗教行為をするのは当然だ。それをやめろと言うのは営業妨害だ。こっちが訴えるぞ」

 これは明らかに社会常識に逆らっている。社会常識に逆らっていいのは、禁教や迫害といった状況があってのことだけだ。何の罪もない、ただ安眠したいだけの住民に毎晩多大な迷惑をかけておきながら、「邪魔するなら訴えるぞ」などと脅すことは、ヤクザでもしない。いや、これならヤクザの方がはるかに礼節がある

 また、信徒の拘束時間が異様に長いという問題もある。
 たとえばある教会でその運動に参加すると、最低週3回の礼拝(1回2時間以上)に出席することになる。礼拝前後で準備と反省会もあるから、ざっと見積もっても週に10時間以上拘束されることになる。当然ながら無償でだ。
 会社で働く人が週10時間以上ボランティア活動をすると考えたら、その異様さを実感できるかもしれない。彼は家族との時間、友人との時間、自分だけの時間の多くを捨てることになる。これも社会常識から逸脱していると言える。

 もちろん拘束時間だけで言えば、それを専業としている人であれば、週10時間以上など問題にはならない。というか、もっと働け。

・聖書教理からズレていく

 傍から聞くと「?」なことを言い出すのも、この運動の特徴だ。たとえばこんなのがある。

「東京は悪魔に縛られている。江戸時代の某僧侶が結界を張ったからだ。それらの結界を探して、主の御名によって打ち破らなければならない」
「自由の女神はニューヨークを見張る偶像の象徴だ。霊の戦いをして倒さなければならない」
「この場所(教会)は主の守りの中にあるから安全だが、外に出ると悪魔の攻撃にさらされる」
「〇〇がうまくいかないのは、背後でフリーメーソンが暗躍しているからだ」

「陰陽師」とか「エクソシスト」とか、その手のホラー・オカルト系映画の影響をモロに受けたような話だ。キリストの十字架による贖いを、完全に無効にしている。神を信じても、霊的戦いなどの「行為」をしなければ「呪い」から解放されない、救われないと主張しているからだ。

 それらの「?」な主張が生まれるのは、「ダビデの幕屋の回復」で長時間祈った結果だ。2時間にも3時間にも及ぶ賛美と祈りの中で、頭に浮かんだものを言語化している。「だから主からのものだ」と彼らは自信をもって言う。

 そういう「?」な主張が起こる一つの原因は、その「祈り方」にある。

 I.H.O.P.を見たことがある人はわかると思うけれど、礼拝の最中、何人かの奉仕者(Intercessorと呼ばれる人たち)が聖書の御言葉を読み上げたり祈ったりする場面がある。日本の教会でもそれを真似して、「示された箇所を宣言したり祈ったりする」時間を持つところがある。
 その場合、信徒らは少なからず、とにかく何か読まなければ、祈らなければ、みたいな思いがあって聖書をめくる。それでたとえば(あくまで一例だが)、「縛られた人を解放する」みたいな箇所が何となく「示された」気がして、宣言してみる。すると、「アーメン」が連発されて盛り上がったりする。盛り上がると、他の信徒らも同じような意味の箇所を探して宣言するようになり、結局のところ、全体的に「縛られた人を解放する」みたいなテーマになっていく。
 すると、「今、神様が縛られた人の解放を願っておられるんだ」という話になって、
「じゃあ縛られた人とはどこの誰のことだ?」
「この町の人々じゃないか?」
「じゃあ何に縛られているんだ?」
「そりゃ悪魔だろう」
「悪魔はどうやって縛っているんだ?」
「うーん、そこはよくわからないから、もっと祈ってみよう」
 みたいな流れになる。そして、「何らかの方法で」「悪魔によって縛られた」「この地域」というのがキーワードになる。そして住民を「解放」するにはその「縛っている方法」がわからなけばならないから、その方法だけを一生懸命祈る。すると、やはり何となく、「結界」とか「お寺」とか「神社」とか、そういうものが思い出されて、「わかった、結界だ!」とかなる。

 そういうことの繰り返しがあって、前述の「?」な主張が、彼らの中で現実味を帯びていく。

 この一連の流れを見ればわかる通り、そのプロセスは非常に安直で短絡的だ。また手に持っている聖書を完全無視している。けれど彼ら自身には、「長い時間祈っている」「主にお仕えしている」という自負があるから、そうは認められない。むしろ否定されればされるほど、「これは秘密の真理だから他人にはわからないんだ」みたいなことを言って態度を硬化させていく。

 まだまだいろいろな事例があると思うけれど、特に問題だと思うものを挙げてみた。
 何か事例を知っている方がおられたら、是非教えていただきたいと思う。

2014年9月5日金曜日

「ダビデの幕屋の回復」に対する違和感

「ダビデの幕屋の回復」を標榜する教会が、徐々に増えつつあるようだ。
 彼らの目標は、24時間の礼拝を体制化することにある。カンザスシティのInternational house of prayer(通称I.H.O.P.)みたいなものを理想としている。そして「終わりの時代の主の御心を知り、それを行う」ことを目指している。

 なぜ24時間かというと、歴代誌にみられる「ダビデの幕屋」がそのような礼拝スタイルだったからだ。そしてなぜその幕屋を「回復」するかというと、アモス書9章11節が、「ダビデの倒れている仮庵を起こす」と言っているからだ。
 だから「ダビデの幕屋の回復」は主の御心だ、というのが彼らの主張だ。

 これに対する根本的な疑問の一つは、現代社会において「ダビデの幕屋」をそのまま回復することが御心なのか、という点だ。「聖書は文字通り受け取るべきだ」という主張に従うなら、その通りかもしれない。けれどそんな単純な話ではない。

 たとえばダビデが幕屋の中心に据えたのは、「契約の箱」だった。それは「契約」をされた神様を賛美し礼拝するためだった。
 けれど「契約の箱」が意味するのは「古い契約」だ。そしてそれは、イエス・キリストによって既に「新しい契約」に変更されている。また、「契約の箱」そのものは歴史の中で失われたけれど、「新しい契約」がある以上、もう「古い契約」も、物理的な「契約の箱」さえも必要ない。仮に箱が現存したとしても、それを中心に据える必要はない(むしろ据えてはならない)。私たちが中心に据えるべきはキリストの「新しい契約」であって、それは「隣人を愛すること」に集約されると言っていいからだ。
 そして礼拝形式が云々とか、24時間続けろとか、そういうことをキリストは一切言っていない。

 こういうことを言うと、ダビデの幕屋回復論者はこう反論するだろう。
「しかし今は終わりの時代だ。終わりの時代にふさわしい御心があるのだ。そしてそれがダビデの幕屋の回復なのだ」
 確かに、今は終わりの時代かもしれない。しかし西暦1世紀を生きたパウロも、そう信じていた。今は終わりの時代だと。ではなぜパウロの時代に、その幕屋は回復しなかったのだろうか。そしてパウロが間違っていたと言うのなら、なぜ自分たちが間違っていないと言えるのだろうか

 もちろん、神様は私たちの自由意思を尊重され、選択を尊重される。だからたとえばI.H.O.P.のような礼拝も許されるし、24時間礼拝しない教会も許される。いろいろな教団教派に分かれることも許される。
 というか、そんな形式の違いを神様は気にされないと私は思う。むしろ神様が気にされるのは、それが果たして「新しい契約」を実行しているかどうか、ではないだろうか。すなわち、その活動が隣人を愛することになるかどうか、だ。

 そう考えると、「ダビデの幕屋」という形式が大事で、それをそのまま回復することが御心だ、と言うのも、違和感がある。終わりの時代だからと言ってそういう特別な活動を始めなければならない、という考え方もしかりだ。この点は以前にもちょっと書いたけれど、それは試験前夜になって徹夜の詰め込み勉強を始めるのに似ている。

 あとは、結果で見るべきだと思う。
 すなわち「ダビデの幕屋の回復」を言う教会やクリスチャンがその活動の結果、どんな影響をもたらしているか、という点で見るべきだ。
 この詳しい事例については、次回に触れてみたい。

2014年9月4日木曜日

神の「召し」を誰がどうやって確認するか、という話・その3

 神の「召し」について3回目。
 今回は「神からの高い召し」という表現について考えてみたい。

 たとえば「〇〇さんは神から高い召しを受けている」みたいなことを言う人がいる。だいたいが尊敬の念や畏敬の念が付随している。「高い召し」だから特別だ、すごいんだ、偉大なんだ、という意味合いがあるのだろう。
 けれどこの場合、「高い」とはどういう意味なのか、何が高く、何が高くないのか、誰がどうやってその高低を決めるのか、ということについて、まず言及してほしいと私は思う。
 たとえば牧師は「高い召し」で、一般信徒は「低い召し」なのだろうか。一般信徒の中にも「召し」の高さの序列があるのだろうか。そしてそれは何を根拠に決まるのだろうか。
 そういうことをまったく考えずに「高い召し」を連発しているとしたら、はっきり言って浅はかだ。

 この「高い召し」には、優劣とか大小とか高低とか、そういう競争原理、あるいは階級制度的な発想が潜んでいるように思える。この考え方をする人は、「自分はパウロには及ばない」とか、「あの牧師には劣る」とか、「でもあの信徒には勝ってる」とかと、立場の優劣を密かに気にしている。

 もちろん、歴史を振り返ってみると、「この人は偉大なことをした」「あの人は大きなことを成し遂げた」と評価される人物がいる。たとえばマーティン・ルーサー・キング牧師。アメリカで公民権法の成立に多大な貢献をし、人種差別撤廃を成し遂げた。
 では彼の「召し」は、他の人に比べて「高かった」のだろうか。

 私が思うに、「召し」は高低で分類するものではない。たとえば牧師の召しとか、礼拝の受付の召しとか、会堂掃除の召しとか、そういう種類の違いがあるだけだ。そしてあえて数量的に比較するとしたら、それらの召しは、「他者に対する責任の大小」という点で比較できる。
 たとえば牧師が毎週礼拝説教をして、10年間続けたら、それを聞く人々の人生に大きな影響を与える訳で、その責任は非常に大きい。けれど会堂掃除にはそこまでの影響力はないだろうから、他者に対する責任も小さくなる(かと言ってなくなる訳ではない)。
 だから、「召し」にはそれぞれに、他者に対する責任の大小があるのだと思う。

 ここで、じゃあ責任の大きい「召し」は偉大なのか、特別なのか、すごいのか、と言ったら、そうではない。たとえば牧師の「召し」があると(何らかの方法で)確かに認定された人が、生涯牧師にならず、ただ毎週礼拝に参加するだけだったら、「彼は偉大な牧師だった」とはならない。けれどたとえば、毎週日曜日に誰よりも早く来て、玄関のスリッパをきれいに拭いて、きちんと並べておくというのを「自分が仕えるべきところ」」と信じる人が、それを何十年間やり続けたとしたら、その人はきっと忠実な信仰者、偉大な信仰者と言われる。
 だからある人の偉大さ、すごさ、忠実さを決めるのは、その人の「召し」ではない。あくまでその人が何を考え、何をしたか(し続けたか)にある。

 キング牧師には、確かに「責任の大きな召し」があったのかもしれない。けれど彼を偉大にしたのはその「召し」でない。人種差別撤廃を自分の使命として活動した、その生き様にあるのだ。

 という訳で、「召し」という外面の飾りが重要なのではない。けれど人間はどうしても、見えるものに注意がいく性質がある。だから冒頭のような、「あの人は高い召し」的なつまらない価値基準が出てくるのだろうと思う。

2014年9月3日水曜日

神の「召し」を誰がどうやって確認するか、という話・その2

 前回のまとめ。
 神の「召し」の決め方は教団教派によっていろいろで、たとえば選挙などがある。けれど一部の、特に単立教会では、牧師一人の「これは神の召しだ」がノーチェックで認められている。そしてそれは危険なことだ。
 
 という話だった。今回は、それがどう危険なのか、事例を交えて書きたい。
 題して、一方的な「召し」の主張の危険性。
 
①牧師の立場に関する危険性
 
 ある単立教会の牧師が、いつも信徒に対して権威的に振る舞っていた。あれをしろ、これをしろ、早くしろ、それじゃダメだ、全然ダメだ、等々。そんな調子が長く続き、信徒は疲弊していた。特に十代後半から二十代の若者たちは信仰半分、疑念半分という葛藤状態にあった。
 そんなある時、牧師に理不尽に叱られたのをキッカケに、とうとう若者たちが牧師に楯突いた。「先生の言い方は酷すぎます」
 それに対する牧師の答えはこうだ。「自分が人格的に足りないとしも、こんな自分を神が選んでリーダーにしたんだから、仕方ないだろう
 つまり、自分は神に召されたんだから誰が何と言おうとリーダーなんだ、黙って従え、ということだ。
 この主張に従うと、人格的に全然ダメでも、どんな人間でも、「召された」と言えば教会のリーダーになって人をこき使えることになる。

 是非その牧師を、全信徒による選挙にかけてみたいものだ。どういう結果になるのか非常に楽しみだ(そういう牧師に限って選挙制を否定するのだけれど)。
 
②「召し」は全てに優先する、という危険性
 
 非常に活動好き、事業好きな牧師がいる。「神がこれを願っておられる」「あれを願っておられる」ということで、次々と新たな活動を始める。「これは自分に与えられた召しだ」と言う。
 信徒はいつもそれに振り回され、日常的に、キャパを越えた仕事をさせられている。ついに音をあげて、「無理です」とか言った日には、烈火のごとく怒られる。「神の御心に従わないのか」「これをしないがために、救われるはずの魂が滅びてもいいのか」などと責められる。
 そういう教会は、事業に必要な書類を揃えていないことが多い。たとえば会計管理がずさんで、年度が過ぎても収支報告できないことがある。信徒が忙しすぎてできないのだ。それに牧師による使途不明金やら何やらで、把握しきれないのだ。
 そういうことで必要書類が揃っていなくても、「神の召しに精一杯応えているのだから、仕方がない。十二弟子たちも、忙しくて休む暇がなかったと書いてあるだろう」とか言って済ませる。
 
 つまり、「召し」をかざせば何をしても許される、社会のルールに従わなくていい、ということだ。
 
③「召し」を擁護したくなる人間心理の危険性

 上記のような状況があり、信徒らは本当に大変なのだけれど、それでも牧師を擁護してしまうという現状がある。
 何故かというと、そういう牧師はいつも厳しい訳ではないからだ。時々弱い姿を見せて、泣き言を言うことがある。「もう無理だ。神の要求はあまりに高い。今までずっとこの召しに忠実にやってきたし、これからも忠実でありたいけれど、もうそれも難しい」
 祈り会などでそう言って泣き崩れられると、やさしい信徒らは、「先生、がんばって!」「私たちがいますから!」などと励ますことになる。そこで感動劇場が始まって、さらに結束が増すことになる。
 
 依然として信徒らは大変な思いで働き、必要書類の不備やいろいろな規範の無視を看過しなければならないのだけれど、そういう「あくまで召しに忠実な牧師」の健気な姿を見せられると、結局我慢してしまうことになる。
 つまるところ、それが「神の召し」だと突き付けられる限り、「じゃあ仕方がない」ということになってしまうのだ。
 
 上記の3つ以外にもいろいろな事例があると思うけれど、いずれにせよ「神の召し」がノーチェックで受け入れられることに問題がある。それが本当に神からのものなのか、まず吟味しなければならない。また神からのものかどうかの他に、今この教会がそれをするのに耐えられるか、どこかに無理が出ないか、という実際面も同じく話し合われなければならない。

 神が一人の人にしか語られないというのは、旧約聖書に見られる特徴だ。新約聖書ではむしろ、集団による議論が物事の決定に使われている。だから吟味や話し合いをスキップしようとしたり、排除しようとしたりするリーダーは、今日においては危険である。
 
 という訳で、上記のようなケースに思い当たる人は、よくよく考えて対処することを私は強く勧める。

2014年9月2日火曜日

神の「召し」を誰がどうやって確認するのか、という話

 神の「召し」というのがある。

 簡単に言うと「神の招き」となる。手持ちの聖書辞典で見てみると、2種類の召し(召命)があるようだ。

①キリストが全人類に向けた救いへの召し(外的召命)
②個人レベルの召し(有効召命など)

 ①はわかりやすい。誰でもイエス・キリストを神として信じるなら救われる、ということで、一般的にもよく知られている。
 ②は特定の個人に向けられたもので、「選び」という要素が含まれてくる。たとえば新約で言えば「使徒職の召し」というのがあって、ペテロやパウロはこれを受けていたと思われる。今日で言うと、「神に召されて牧師になりました」という牧師は多いのではないかと思う。つまり、神に選ばれて牧師になった、ということである。

 以上の原理原則は聖書に由来しており、何も否定するところはない。けれど「召し」の問題は、そういう定義云々ではない。私が思う「召し」の問題は、特に②の方で、ある人が言う「召し」が間違いなく神からの召しだと、どうやって決めるのか、誰が決めるのか、という点にある。

 現在、多くのクリスチャンが、「私は神に召されて(導かれて)〇〇をしています」と言っている。牧師や宣教師といった職業人から、キリスト教系事業や企業で働く人、教会学校の先生や礼拝奉仕者に至るまで、おそらくほとんどの人がそうだろう。「召し」という根拠がなければ、基本的にそういうことはできないからだ(もちろん中には、よくわからないけどやってます的な人もいるだろうけれど)。

 それで、その人が確かに神に「召されている」と決めるのは誰だろうか。
 これは教団教派によっていろいろな手続きがあると思う。一例を挙げると、ある教会では、教会員全員による選挙で、任期制の長老を選んでいる。つまり多数の信徒からふさわしいと認められた人が、「(一定期間)長老職として召されている」と認定される訳である。

 選挙は、細かいことを言うと、やり方次第で少数派の意見が通ってしまうという危険性がある。けれどそこまで策を弄する人がいるとも思えなし、だいいち「神の声が全員に聞こえた」みたいな現象をもって「召し」を確認できる訳でもないから、「多数派の意見を通す」というやり方は、まあ無難だろうと思う。公正な選挙が行われたのであれば、不公平感もないし、少数派も結果を見て(普通なら)納得するだろう。

 けれどそういう選挙を、「ただの民主主義だ。神の声を聞いていない」と主張する人たちがいる。彼らは、明確に「神の声を聞いた」「確かに神に導かれた」という体験がなければ、召されたとは言えない、とする。

 確かに、パウロはダマスコに行く途中で神に語られ、明確な指示を受けた(使徒9章)。同行者たちもその声を聞いたと書いてある。だからそういう召された方もあるのだと思う。
 けれど、じゃあ上記の彼らがどんな風に「神の声」を聞いたかと言うと、「祈っている時に強く示された」とか「神の声が確かに聞こえた」とかいうことだ。けれどそれらに共通するのは、失礼ながら、本人がそう言っているだけで、それを証明する第三者がいない、という点だ。複数の同行者が一緒に聞いたというパウロのケースとは、根本的に違う。
 だからその「召し」を認めるには、無条件に信じる以外にないのである。

 こういうことを書くと、「信仰とは無条件に信じることです」などと寝言を言う人がいるけれど、私たちが無条件に信じるのは聖書の真実性であって、一人間である牧師の言葉ではない。もし無条件に相手の言うことを受け入れるのであれば、たとえばパウロとバルナバが激しく対立した理由が見つからなくなる。使徒たちが異邦人の扱いを巡って激しく議論した理由も見つからなくなる。

 神の「召し」を確認する方法として、たとえば選挙制度が完全かというと、そうでもない。そこにはきっと人の思惑も絡んでくる。では、一牧師が言う「召し」を全面的に信じた方がいいのだろうか。私はそっちの方が確実に危険だと思うけれど。

2014年9月1日月曜日

うまく編集・脚色された「父なる神の愛」

 8月29日から、フランス映画「グレートデイズ! ー夢に挑んだ父と子ー」が公開されている。
 脳性麻痺の息子と、かつてトライアスロン選手だった父(失業中)とが2人でアイアンマンレースに参加、その過程で親子の絆を取り戻していく、という感動物語である。2人で参加と言っても息子は脳性麻痺なので、基本的に父が彼を引っ張り、抱きかかえ、押して走らなければならない。息子が寝かせられたボートを、父が引っ張って泳ぐ。息子が乗る車椅子を、父が押して走る。その姿に「お父さん頑張れ!」となる映画である。

 私はこの映画は未見だけれど、だいたいわかる。と言うのは、この元ネタである「ホイト父子」の動画が一時期、福音派・聖霊派の教会で取り上げられ、もてはやされたからだ。どこまで広がったか知らないけれど、知る人ぞ知る父子である。


 年に数回、主にアメリカの宣教団体から「神の器」が来日して、関係のある教会を巡回する、というのが福音派・聖霊派ではすっかり習慣になっている。もうずいぶん前になるが、そういう巡回の一コマで、"Father's love"(父なる神の愛、とでも訳すべきか)というテーマでメッセージされた。天の神様は私たちのお父さんであって、神様は「父の愛」で私たちを愛しておられる、という話だ。最後、「父なる神の愛を現す動画があります」ということで流されたのが、上記の「ホイト父子」の映像であった。
 
 おそらくそこにいた全員が初見だったと思うけれど、かなりの割合で涙腺崩壊が起こった。息子が寝かせられたボートを、父が力強く引っ張りながら泳ぐ、そのワンシーンのインパクトはなかなか強烈だった。「天の父も同じように私たちを抱きかかえ、運んで下さるのです」そう語られながら映像を見ていると、確かにホイトお父さんが神様に、何もできず横たわるホイト息子が自分自身に見えてくる。「ああ、神様はこんなに力強い、私のお父さんなんだ」ということで、感動のクライマックスを迎える。

 後から知ったのだけれど、このホイト父子はべつにキリスト教精神でそういうレースに出場している訳ではない。「やればできるさ "Yes, you can"」という本を出版していて、人間努力すれば何でもできる、みたいなことを自ら実践しているのである。もちろん、「動けない息子の為に」というホイト父の愛があってのことだと思う。けれど、キリスト教的な父なる神の愛が云々というのは、彼らが言っていることではない。完全な後付けだ。

 また、その時見せられた動画は、クリスチャン向けに編集されたものだった。BGMはコンテンポラリー・ワーシップで、BGMに合わせて映像も盛り上がっていく。ホイト父子のキーワードである"Can"も、なぜかピリピ4章13節の「私は~中略~どんなことでもできる(Can)のです」にすり替わっている。
 つまりその動画に関して言えば、ホイト父子はキリスト教の宣伝に使われたのである。

 百歩譲ってそういう宗教的脚色を看過するとしても、結局そういう「感動」を利用しないとメッセージできないというのは、問題ではあるまいか。

 という話はさておき、映画「グレートデイズ」は、きっと感動できる物語に仕上がっているだろうと思う。父子の愛と絆に涙を流したい人には、(きっと)おススメであろう。かくいう私は、前述の通りホイト父子に「感動疲れ」しているので、観に行こうとはちょっと思えないけれど。