「ありのまま」を強要されても困る、という話・その2

2014年9月16日火曜日

教育

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「ありのまま」を強調するチャーチスクールの問題点について、もう少し掘り下げてみたい。

 チャーチスクールの牧師や教師が生徒に対して「ありのままでいいんだ」と言うのは、一見人道的に思える。そう言われる必要のある子もいる。けれど、あらゆるケース、あらゆる状況でそれを言うのは問題がある、というのが前回の趣旨だ。

 さて、チャーチスクールにおいて「ありのままでいいんだ」と言われる生徒たちは、それをどう捉えるだろうか。
 年齢や性別によっても違うだろうけれど、大抵は、牧師や教師が言う「ありのまま」が何を意味するのか考える。家の中と同じように振る舞っていいのだろうか、やりたくないことはやりたくないと言っていいのだろうか、好きなことにこだわっていいのだろうか、等だ。そして大抵の子は基本的に、でも勝手気ままにやっていいという意味ではないだろうと考える。だから最初のうちは、「ありのまま」の「ありのまま加減」を、学校生活の中で探ろうとする。

 前回も少し書いたけれど、子どもにとって何が「ありのまま」なのかわからない、という状況がそもそもある。
 発達心理学的に言うと、学童期(小学生)の発達課題は【勤勉性 対 劣等感】であり、思春期(中高生)のそれは【自我同一性 対 同一性拡散】である。つまり、「自分とは何者か」がまだ確立されていない。だから何が自分にとって「ありのまま」なのかも、実はまだはっきりしない。
 そういう状況にもかかわらず「ありのままでいいんだ」を連発されるので、子どもたちは「ありのまま」の意味からまず考えなければならなくなる、という訳だ。

 それで何を考えるかというと、おそらく「素の自分が何をしたいと思っているか」だろう。何のフィルターもかけない自分の願望を抽出してみることが、「ありのまま」の答えに近づく方法だろうと考えるのだ。すると、そこは小中高生なのだから、ゲームとか映画とか、SNSとか恋愛とか、友人たちとのあれやこれやが出てくる(当然だ)。そしてそれがおそらく自分にとって「ありのまま」の願望だと気づく。けれどそれらは、教会やチャーチスクールという場ではものすごく言いづらい事柄だ。いや、言ってはいけない事柄だと(生徒らは)思う。
 だから牧師や教師が言う「ありのまま」は、自分が根本的に欲する「ありのまま」とは違う、ということに気づく。
 これはなかなか悲劇的な発見だ。「ありのままでいい」と言われながら、「ありのまま」を隠さなければならないからだ。

 その結果、この「ありのまま」は子ども本来の「ありのまま」ではなく、教会やチャーチスクールが求める「ありのまま」の押し付けになる。つまり、子どもは純粋に神様を愛したいと思っているはずだ、この世から離れたいと思っているはずだ、罪を遠ざけたいと思っているはずだ、勉強を頑張りたいと思っているはずだ、という類の「ありのまま」が、生徒のあるべき姿だとされてしまう(中には本当にそういう子もいるだろうけれど)。

 だから生徒は、そういう暗に求められている「ありのまま」を演じなければならなくなる。あくまで従順で、信仰的で、この世の楽しみなんて興味ありません、みたいな態度を取らなければならない。そうしないと、教会やチャーチスクールでは生きられないからだ。

 そしてそれは結果的に、ダブルスタンダードな人間を育むことになる。

 ぶっちゃけて書くと、子どもを「ありのまま」でいさせたかったら、若いうちから宗教教育にどっぷり漬けない方がいい。それより友人や先輩後輩の関係でもまれたり、いろいろ葛藤したり楽しんだり、「神なんていねー」とか言ったりさせておく方が、よっぽど「ありのまま」ではあるまいか。そうして「自分とは何者か」を自分なりに掴んだ後で神様に向かった方が、よっぽど素直に、正直にいられるのではないかと私は思う。

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